第53話 皇太后の勘違い

 ヘレナの言葉に、ルクレツィアは目を見開き、そして僅かに怒りを表情に宿し、それから視線を泳がせて。

 ルクレツィアは、再び笑顔に戻った。


「あらぁ、そうだったの。ごめんなさいね、勘違いしていたみたいだわ」


「……」


 その挙動は僅かなものであれど、歴戦の武人であるヘレナの動体視力をもってすれば、十分に確認することができる程度の速度だ。そのせいで、意図せずともルクレツィアの考えが分かってしまう。

 まずいことを言ってしまった、と思っているのだろう。確かに、ファルマスが連日のように来ている、という風にルクレツィアが認識しており、その実ヘレナの元を訪れていないとなれば、当然の帰結だ。

 これは、一瞬でそこまで判断して誤魔化したルクレツィアの判断を褒めるべきだろう。


「まぁ、毎日毎日来ても困るわよね。ヘレナちゃんだって暇じゃないんだし」


「そうですね。毎日来られるとさすがに、気を遣いますし」


「ファルマスに言っておくわ。ヘレナちゃんを不安にさせない程度には顔を出すように、って。あの子も忙しいから、来れないときも多いかもしれないけど」


 言いながらも、ルクレツィアの目が泳いでいるのがよく分かる。

 それもそうだろう。ファルマスがヘレナの元を訪れる、と言いながらにして、ヘレナの元へは来ていない。これはどう考えても別に寵姫がいて、ヘレナを隠れ蓑として通っている、と考えて当然だ。

 そう、そうとしか、考えられない。


 の、だが――。


「いえ、別段。陛下もお忙しいですから、私のために時間を割いてくれなくとも構わない、とお伝えいただければ」


「そ、そう? でも、ファルマスはヘレナちゃんのこと、大事にしてるみたいだから。きっと今夜あたりは、来るんじゃないかしら?」


「では、お迎えの準備はしておきます」


「うん……うん、それがいいわ。今夜は何の執務も入ってなかったはずだし、他国からの使者もいなかったはずだから」


 と、いうルクレツィアの言葉。

 その言葉を信じるならば、今夜は来るだろう。今夜のファルマスの気分は、酒だろうか。それとも茶だろうか。

 茶なら一緒に付き合えるけれど、ファルマスの前で酒を飲むのは控えよう、と決めたのだ。その決意は守らなければならない。


「そ、そうね……ええと、話は変わるんだけど、ヘレナちゃんは二十八歳よね?」


「はい、そうです」


「ヘレナちゃんって綺麗なのに、どうして今まで結婚をしなかったの?」


「それは……」


 ルクレツィアの質問に、思わずヘレナは言い淀む。

 十三の頃から、十五年間ずっと軍に所属していた。侯爵令嬢だからといって、扱いは他の新兵と何も変わらない、という状態だったけれど、ひたすらに鍛え、腕を磨き続けた。だからこそ、現在に至り八大将軍に半数には勝つことができる程度、武力を持っている。

 だが、それ以外の時間が、ないのだ。

 戦場に出て斧槍を振る時間以外は、鍛錬、食事、排泄、湯浴み、飲酒以外の何も行なっていない。もっと言うと、自由時間の九割は鍛錬にあてていた。

 だからこそ、恋愛なんぞにうつつを抜かす暇などなかったし、恋愛そのものに興味がなかったのだ。


 だが、そんな女子として壊滅的な自分自身について、ルクレツィアに言って良いものか迷う。

 それこそ、このように武骨な女など皇帝であるファルマスに相応しくない、と言われてしまうかもしれない。

 正妃を選ぶのはファルマスだが、しかしそこに、ルクレツィアの意見も少なからず影響を及ぼす可能性もあるのだ。

 現在、ヘレナを寵愛しているという姿勢を見せて、宮廷の均衡を保っているファルマスなのだ。そこに、少なからず計算違いを入れるわけにはいかないだろう。


 だからこそ、言い淀み、表情が憂う。

 一体、どのようにルクレツィアへ説明するのが正しいのが、残念な頭は全力で稼働するが、最適解は見当たらない。


「……そう、ごめんなさいね、聞きにくいことを聞いたみたいね」


 しかし、そのようなヘレナの憂い顔は、ある種の凶器としての側面も持つ。

 元より感情が表情に出にくいヘレナは、どれほど焦っていたところでそれを表面に出さない。そして、女子として壊滅的であることをどう説明すべきか悩んだせいでの憂い顔は、ルクレツィアからすれば、聞きにくいことを聞いたせいで、思い出したくないことを刺激してしまった、という結果に落ち着く。

 ルクレツィアはヘレナに、深い悲しみと慈しみを湛えた眼差しを送って。


「え、ええと」


「大丈夫よ。辛いことがあったのでしょう……もともと、おかしいと思っていたのよ。ヘレナちゃんはアントンの娘だし、出自もしっかりしているわ。それに美人だし、背も高いし、腰も細くて羨ましいくらい。どうしてこんなに完璧な女の子が、二十八まで結婚していなかったのか、不思議だったの」


「……」


 ヘレナに、答えることはできない。

 ルクレツィアの言う全ては、真実だ。ヘレナはレイルノート侯爵家の出自であり、身分としてはかなり高い。加えて顔立ちも整っており、若干ならぬほど筋肉がついていることを除けば、体型も抜群だ。

 だからこそ、不思議に思われたのだろう。それはよく分かる。ヘレナにも分かっている。


 だが、その現実は、本人がとことん恋愛に興味がなかったせいで今まで過ぎ去ってしまっただけ、という悲しい事実。


「何も聞かないわ。大丈夫、ヘレナちゃんを傷つけた昔の男と、ファルマスは違うわ。あの子は、ちゃんと自分の愛する女性を幸せにする男だから、安心して。もしもファルマスが何かやったら、わたくしに言ってくれれば叱りつけるから」


「え、ええと……は、はい。ありがとうございます」


 そして同時にヘレナも、なんだかルクレツィアが勝手に納得してくれているからそれでいいか、と誤解を解くことを放棄した。ルクレツィアの言うところの『ヘレナを傷つけた昔の男』とやらに全く心当たりのないことを除けば、別段問題はないだろう。

 というより、なんだかありもしないことでルクレツィアの同情を得ているという現状は、完全にヘレナにとって得しかない。


「ごめんなさいね、わたくしが変なことを聞いてしまったみたいで」


「い、いえ……」


 そしてヘレナが否定をしなければ、この誤解が解けるはずがない。結果的に、ルクレツィアの暴走ではあるけれども、ヘレナが現在まで結婚をしていない理由については納得して貰えたようだ。

 これから、ルクレツィアとそれほど関わることもあるまいし、特に何かを言う必要はないだろう。


「そういえば……確か、ヘレナちゃんのお母様は、元『銀狼将』のレイラ・カーリー将軍だったかしら?」


「母のことをご存知ですか?」


「勿論よ。わたくしも幼い頃から、レイラ将軍の話は何度も聞いたことがあるもの。ガングレイヴ帝国の建国以来、最強の英雄とされるお方よ。アントンと結婚をする、ってなって、軍は本気でアントンを暗殺する気だったとか聞いたわ」


 残念ながら、間違っていない。

 ヘレナはルクレツィアのそんな言葉に、ただ苦笑いしか返すことができなかった。実際、アントンは暗殺者に狙われたのだと聞いた。そして、その悉くをレイラが撃退したのだ、と子供の頃に聞いた覚えがある。その後、レイラが「アントンが死んだら、私は敵国の先頭で指揮を取る」と宣言したことで、軍の上層部が慌てて謝罪をしたのだとか。

 全くもって、最強の母である。


「それに眉唾だけど、色々聞いたのよ。生身で馬より早く走るとか、名乗るだけで五万の敵軍が逃げ出したとか、刀で斬られても傷一つつかないとか」


「はは……」


 やはり、苦笑いしか返すことができない。

 レイラならば、きっと名乗るだけで敵軍が恐れ戦くに違いあるまい。五万の軍が逃げ出してもおかしくはないだろう。

 刀で斬られても傷一つつかないのは、ヘレナも見たことがある。曰く、「刃物は使い方を知らなければ斬られない」とのことだが完全に化け物である。

 生身で馬より早く走れるのも事実だ。実際、ヘレナと遠乗りに一緒に行ったこともある。ヘレナは馬に乗り、レイラは生身で。


 そんな風に、今はもういない母の話をしながら、ゆっくりと午後は過ぎていった。










 そして、夕餉を終え、湯浴みをし、ヘレナはファルマスの来訪を待ち。


 だが――今日も、ファルマスは来なかった。

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