第21話 閑話:皇帝陛下の思惑

 ファルマス・ディール=ルクレツィア・ガングレイヴは、正統なガングレイヴ帝国における皇帝である。

 元々前帝ディールの長子として、帝位を継ぐことを前提とした教育を行われてきた。帝王学に始まり、皇族としての礼節や帝国における法律など、幼い頃から詰め込んできた。そして成人を迎えた折には宮廷における要職につき、皇帝である父を支えながら皇帝としての在り方を学ぶ、と教えられてきたのだ。

 だが。


 父であり皇帝であったディールは、僅か在位五年にして早すぎる崩御を迎えてしまった。


 皇帝が崩御すれば、すぐに正統な系譜における皇子がそれを継ぐ。だからこそファルマスは、僅か十七歳にして戴冠式を執り行われ、皇帝として即位した。

 未だ勉強の途中であり、皇帝として未熟な身でありながらの即位だったのだ。


 元より、宮廷は魔窟。

 様々な貴族の深慮遠謀。横行する賄賂。金で地位を買った者による専横――その問題は、枚挙に暇がないほどだ。そんな魔窟において、若くして即位したファルマスは傀儡として扱われた。

 即位して一月は、ただ重臣の意見に従うばかりの人形に過ぎず、その悪辣さに嫌気が差したものだ。

 だが。

 ファルマスは、耐えた。

 重臣たちが自身を前帝よりも与しやすいとし、その専横を見て見ぬ振りせねばならない境遇――まさに、薄氷の上に立つ皇帝とさえ言って良いような状況を、耐えた。

 その最大の理由は、前帝の忠実な右腕――アントン・レイルノート宰相だ。

 清廉かつ公正であり、宮中候という立場にあるアントンは、まさに宰相として相応しい人物である。重臣の専横にただ頷くだけのファルマスを諌め、時に厳しい意見を申し出る彼は、まさしく忠臣であると言って良いだろう。


 だからこそ――ファルマスは謀った。

 現状、ファルマスの味方である、と言える忠臣はいない。アントンほどに清廉な心を持つ貴族など他におらず、ただ己の懐を満たそうとしている下種ばかりだったのだ。むしろ、アントンのような忠臣こそが珍しいのだろう。

 皇帝である己を見下すならば、それでいい。

 皇帝である己を謀って財を潤すならば、それでいい。

 ファルマスは、愚帝を演じることにした。


「ふん、いつも通り、ノルドルンドの馬鹿が言ってきたか」


「はい。よくもあれほど、手を変え品を変え出てくるものですな」


 皇帝、そして主たる重臣は立会(りっかい)と呼ばれる、週に一度行われる会議に出席せねばならない。

 これは国家としての収支、外交上の問題、また新たな政策や公共の工事など、重臣たちの担当することを報告する場だ。その内容は多岐に渡り、大体が朝から昼過ぎほどまで行われている。

 だが、ファルマスはそこに出席をしない。

 表向きは、政治に興味のない愚帝を演じているのだ。


「それで、此度は?」


「アグロー川の整備ですな。下流が氾濫を起こした場合、王都の民が犠牲になります。そのためにも河川整備を行い、民への安寧を、とのことです」


「あの川に整備などいるものか」


 はぁ、とファルマスは大きく嘆息する。

 大陸史を千年振り返ってみても、帝都の端を流れる川が氾濫を起こした記録はない。そもそも帝国全域が、雨に悩まされることのない地だ。むしろ、乾期になると水不足の心配すら出てくるほど、その雨量は少ない。

 そんな中、川の整備を行う、というのはどう考えても無駄な行動に過ぎないのだ。


「それで、どうすると」


「ノルドルンド相国閣下の知己に、治水工事の専門家がいるとのこと。やはり専門の人間に任せ、人足を雇い、公共工事を行いましょう、とのことですが」


「ノルドルンドに幾ら包んでいるのだろうな、その専門家とやらは。ついでに、工事の金も水増し報告するつもりだろう」


 恐らく倍ほどにはなるのだろう。そう諦観しながら、ファルマスは頭を掻く。

 己の懐に入る金貨の量を楽しむだけの輩に、どうしてこれほどまで頭を悩ませねばならないのか。


「ひとまず、川の整備については検討しておく、とだけ答えろ。先月に申し出た街道整備の件についても終わっておらぬ」


「承知いたしました」


「他に何かあるか」


「他には特に。ただ……随分とご機嫌がよろしいようで、陛下」


 そう、ファルマスに報告していた老人が、にやりと口角を上げる。

 現在、宮廷においてファルマスが唯一信頼することのできる男――それが、この老人グレーディア・ロムルスだ。

 齢六十を超えながらにして筋骨隆々の体躯に、顎全体を覆うほどの白い髭。そして簡素な服に身を包みながらにして、発する威圧感はただの老人のそれではない。

 ファルマスが幼い頃より信頼する、ただ一人の人間だ。

 その理由はただ一つ。グレーディアは、帝国でも皇帝でもなくファルマスという一人の男に仕えてくれている――。


「ほう、分かるか」


「勿論。いつもより随分楽しそうです」


 恐らく、そのようにファルマスの機嫌が分かる人間など、グレーディアだけだろう。ファルマスはあまり感情を表に出すことがなく、無表情であると思われている。恐らく、親しくない者にその表情の機微は分からないだろう。

 そして、その機嫌の良さにおける最大の理由は、このグレーディアによるものだ。


「随分と、可愛らしい虎を見た」


「ほほう。陛下のお気に召しましたか」


「ああ。ついつい、要らぬことまで喋ってしまった。あれほどまでの、素晴らしい人間だとは思わなかったからな」


 ファルマスは、己の後宮にいる可愛らしい虎を思い出す。

 ヘレナ・レイルノート。

 宰相アントン・レイルノート宮中候の息女であり、八大将軍『赤虎将』ヴィクトル・クリークの副官。ファルマスの知るヘレナという人物は、そのくらいの情報しかなかった。

 そんなヘレナを後宮の、それも正妃扱いとなる『陽天姫』へと推薦したのは、誰でもないこのグレーディアなのだ。

 ファルマスは思い出し、くくっ、と笑う。


「あの女、俺と初めて会って、何と言ったと思う?」


「何と申したのでしょう」


「お疲れ様です、陛下、だ。ついぞ言われぬ言葉よ。まさか、後宮に行って労われることとなろうとは思わなんだ」


「ほう……」


 ファルマスの言葉に、グレーディアは口角を上げる。

 大抵の側室は、己のことしか考えていない。お待ち申し上げておりました、陛下。ようこそおいでくださいました、陛下。そういった挨拶になるだろう。

 それをお疲れ様です、とまずファルマスを労う言葉――恐らく、軍にいた経験から、自然に出た言葉なのだろう。

 政敵が多くろくに休めもしないファルマスにしてみれば、これほど嬉しい言葉もあるまい。


「元々は、ただ隣国のどこかが攻めてきた際、指揮を頼むだけのつもりだったのだがな」


「……私が行います、と申し上げましたのに」


「お前がいなくなれば、俺の命を誰が守ってくれる。どいつもこいつも、俺の命を狙いに来るだろうさ」


 グレーディアは、ファルマスの護衛も兼ねている。

 幼い頃からの戦闘教官でもあり、ファルマスを主に武の方面で支えてくれるのだ。いざとなれば禁軍を率いさせる、という手もあるが、それでファルマスの護衛はいなくなる。

 そうなれば、この若き皇帝はどこから命を狙われてもおかしくない。


「だが、お前の推挙は正解だった。軍略に関しては明るく、恐らく徒手においても戦えるほどの戦闘能力。素晴らしい人材だ。しかも妙齢の美人ときているのだから、俺が真に愚帝であれば入れ込んだだろうよ」


「ほう、それほど気に入られましたか」


「ああ。恐らく男経験はなかろうな。でなくば、あれほど初心な反応はするまい。ヴィクトル将軍についても色々聞いたが、何故あれほどの美姫を抱かなかったのか疑問に思うほどだ」


「とはいえ、軍の中ではヘレナとヴィクトルは間違いなく相思相愛と言われていましたがな。逆に言うなら、ヴィクトルの意中の相手だから手を出してはいけない、と認識されていたようなものです」


「ヴィクトル将軍には感謝すべきだろうな。おかげで、俺の策が捗る」


 ファルマスはそこで、グレーディアを見やる。

 その瞳に、不満を浮かべて。


「しかし、貴様の推挙とは異なるな。グレーディア」


「……どういうことでしょうか?」


「貴様の評価では、軍略にこそ明るいが、それ以外についてはあまり考えない性格だと言っていたではないか。だがヘレナは俺の言葉の裏を読み、己の重責を理解していた。そのような聡い娘だと最初から言っておいてくれれば、俺も試すような真似はしなかったというのに」


「……聡い、ですか?」


「ああ、素晴らしい。己を正妃扱いとする重責を理解しながら、しかしそれを受け入れる広い度量を持つ娘だ。十も年上など問題はあるまい。この一連の騒動が終われば、正式に正妃として迎えても良い……そうとさえ思える」


「陛下……恐れながら」


 そんなファルマスの評価を聞きながら、しかし以前よりヘレナを知るグレーディアは、首を傾げる。

 前『赤虎将』グレーディア・ロムルス。

 彼の率いる赤虎騎士団において、副官を務めていたのが現『赤虎将』のヴィクトルとヘレナだった。

 何度思ったことだろう。

 この女は、なんとも残念な頭をしている、と。


「……へレナは、馬鹿ですが」


「謙遜はよい。見目麗しく、軍略に明るく、強く聡い女など他におるまい。そうだな……後宮の女の色に狂った、となれば、より愚帝と思われよう。先のノルドルンドの一件を棄却し、代わりにヘレナへの贈り物でも買うか。金額は水増ししてな」


 くくっ、と悪巧みをしているファルマスは、真実を知らない。

 だが、それでもファルマスが幸せならそれでいいだろう、とグレーディアは口を閉ざした。

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