神の御心

 二人が忌まわしい洞窟に戻ったのは、日が沈みかけた頃だった。

 重傷を変身して癒すと、かなりの体力を摩耗するらしい。ナズルトーの密林を登るのは、腹をすかせた子供には酷な道のりだ。子供の足に痺れを切らし、盗賊はひとりを残して先に行ってしまっていた。やっとの思いで戻ってみれば、奴らは留守番を残して遠出したらしく、人気がない。散々ふたりをせっついていた男は唾を吐き、小屋の前で居眠りする男を蹴り起こして小屋に入っていった。

 ゲオルグ一味は――黒狼騎士団と自称しているが――森の一角を隠れ家にしている。粗末な掘っ立て小屋がいくつかと、ゲオルグ一味が半分も収まらない洞窟。洞窟脇は便所で、汚物の臭いが四六時中漂ってくる。ロスコーはここでかれこれ一週間になる。またここで寝泊まりすると思うと、少女は憂鬱になった。

 そこで、ひとりの少年が洞窟から歩みでてきた。

「無事だったんだね、ロスコーどの」

 その少年の髪は、夕陽を受けきらきらと輝いていた。銀にかすかに黄がのったばかりの金髪は、刈り入れ時の稲のよう。ただ、その顔は無惨に腫れている。片目などは真っ青でほとんど開いていない。

 ロスコーは、興味もなさそうに目をくれた。

「ロスコー、この人は?」

「スヴェンという。ロスコーどのとは同僚、かな。……もう、軍も何もないけれど」

「他の士官がどうなったか知っているか?」

「僕の知る範囲では、みんな……。ゲオルグらの反逆で混乱したところを突かれ、隊も多くが壊滅か敗走したらしいとしか」

 ロスコーは嘆息した。やはり、こいつはいつも役立たずだ。

「……本当は、ちゃんと逃げ切れてくれていたら、と思ったんだけど。

 まるで自分から帰ってきたみたいだったね」

 スヴェンの落胆した言葉に、ロスコーは返事しない。

「スヴェン、しばらくは従順なふりをするぞ。逃げても無駄なのだ。奴らは臭いで追跡してくる――猟犬のようにな」

「そうなのか……。ロスコーどのは僕なんかよりも抜群に頭が切れる。

 ロスコーどのがいうなら、きっとそうなんだろうね」

 スヴェンを気にもとめず、ロスコーは隣のイレーネを見た。左手には血の流線、脛には瘢痕が痛々しく残っている。ロスコーはその姿から目を背けた。

「ロスコーとスヴェンって、友だち?」

 ロスコーは眉をしかめて、金髪の少年をにらんだ。

 愛想笑いを浮かべて、スヴェンはいう。

「滅相もない。学友ではあるけどね」

 

 ドラウフゲンガー家を放逐されたロスコーは、投げ捨てられるように学校に入った。聖ヴェロニカ修道院に付属するその学校で、帝王学の一環として真教を学ぶため。だがその実、この神学校は軍略を含む幅広い学問を学ぶ場でもあった。

 ロスコーは弱冠七歳で、仮にも父親の手で戦場いくさばに向かうよう仕向けられたのだ。生まれながらに鬼才に恵まれ、傲慢とも取れる自信と自尊心を持っていた少女にとって、それはある意味、必然だったのかもしれない。父との口論の果てに、売り言葉に買い言葉でロスコーはその学校の門を叩いたのだから。

 そこで出会ったのが、スヴェンだった。同年に入学し、同じくヴェスペン同盟をなす諸侯の世継ぎ。スヴェンはそこに親近感を抱いたのかもしれないが、彼女は下心から接近されたと考えた。家名の価値は、ロスコーの方が上だったのだ。

 ヴェスペン同盟は、諸侯のなかから急成長を遂げたベルテンスカに対抗すべく、ごく最近できた同盟だった。外見上は足並みをそろえていても、中身は烏合の衆。いつ寝首をかかれるか分かったものではない。少なくともロスコーはそう思っていた。なにより、五歳も年上のスヴェンは、ロスコーにとってまわりのと大差なかったのだ。

 ロスコーは他の学友と同じく、表面上はスヴェンに友好的にふるまった。だが、やがて胸のうちの冷たい眼差しを気づいたのか、スヴェンは友にはなれないと悟ったらしい――本心はともかく、ロスコーにはそう映った。

 それなのに、スヴェンは卒業までロスコーに親しく、それでいて礼を尽くした。ロスコーの思いかえすかぎり、そこに理由らしい理由はない。

 ――理由はないが、印象的な出来事はあった。


 二年の在籍中、ふたりはともに多くのことを学んだ。算術や博物学はもちろん、本来の目的である指揮官としての素養――戦術学や統率論、軍事史学、戦争法学。そして時には、手段のひとつとしての魔術などを。

 だが仮にも修道院である以上、神学や教典学も必須とされていた。ロスコーはそれらの知識を貪欲に吸収した。討論で年上の青年を完膚なきまでに叩きのめすこともしばしばだった。ロスコーにとっては、彼らがただの暗記や理解に苦しみ、分かりきった論理の袋小路に追い詰められることが不可解だった。

 不可解な人間の中にはスヴェンもおり、彼は時にロスコーに教えを乞いにきた。年下の女に頭を下げるとは、こいつには矜持というものはないのか。そうは思いつつも、ロスコーは無下にできず、何度も時間をとった。

 そんなある日のこと、スヴェンは信仰について問うてきた。曰く、

「唯一の主を、どう信じるのが正しいのだろう。

 ロスコーどのの理解を教えてくれないだろうか」と。

 ロスコーの見解は極めて淡白だった。同盟内の枢機卿の間では、ただ信じればよい――その結論に至るまで、無数の迂遠な議論があったにせよ――という学説が多数派だった。それゆえ少女は、盲目的に信ずることが真の信仰だと答えた。

「……ではやはり、主を疑うのは罪なのだろうか」

 確かに今は神の実在を疑う、ないし神を試す行為は赦されざる罪とされている。だが、過去には神の証明について長く議論されていたし、竜と神を同一とみなすようになったのはここ百年程度のことだ――そうロスコーは答えた。

「何が罪でどう罰が下されるか。それを人間の身で明確に予期することは難しい。神の思召おぼしめしを推察することは不可能ではなかろうが……完全には難しいだろう」

 そう言い添えると、スヴェンは閉じようとしていた口を開いた。

「では、ロスコーどのも主は正しいと思っておられると?」

 その言葉に、ロスコーはふと、まなこが開くように思われた。

 ロスコーはそれまで、神をおぼろげにしか理解していなかった。生まれた時に洗礼を受けて真教徒となり、真教の祭りに参加し、司祭に認められて夫婦めおととなり、死ねば教えのとおりの葬列で土葬される。神はあまねくそこにあり、我々の行いすべてを見られている――ほかの人間がそうであるように、ロスコーにとっても神を信じることは生きることだった。ロスコーは、神が在ることを疑ったことがなかったが、その実像をみようとしたことはなかった。人間が語る神の姿を――人間によって騙られた神のありようを神だと思っていた。

 スヴェンは、ロスコーのように神の輪郭で満足することができなかったのだ。神を信じながら、より信じるために神を見つめつづけてきた――そんなスヴェンだったからこそ、ロスコーのうちにいた、言葉にされない神を形にできたのだ。

「……スヴェン殿。貴殿は、私よりも一陣の御風を知っている。こと、この議題においては、貴殿に教示できることはないかもしれぬ」

 呆気にとられたのはスヴェンだ。そのように彼女が真の意味で敬意を払うのを、彼は初めて見たのだから。「ロスコーどの……それは、どういう」

「私は今まで、主が正しいと意識したことはなかった。ただ、主が正しければ成り立つ事例をいくつも記憶し、主を理解した気でいた。だが、実際には『主は正しい』というひとつの命題であらゆる事例が成立する。そして、私は意識しないままで、そうだと確信していた――貴殿は、私の内なる神を垣間見せてくれたのだ」

 そう説明すると、スヴェンは温かくほほえんだ。

「なるほど、安心したよ」

 何が、とたずねると、スヴェンはこう答えた。

「ロスコーどのは他の学生と違って、確かに主を信仰しておられる。みな、教養として神の名を唱えるが、救い以外の報いを求めて祈る者ばかりだ。

 僕、ずっと迷っていたんだ。僕は宣教師として叙品たまわりたかった。けれど、僕ほど主を知りたいと思う友達はいなかったから……。

 ――どうだろう、ロスコーどの。僕とともに神の道を知るのは」

 ロスコーは確かに敬虔な部類だったが、それまで神について深く考えたことはなかった。神学も少女にとっては、博物学や自然学と大差なかった。けれど。

「幼女に教えを乞う体たらくで、まだ別の分野に手を伸ばす気か?」 

 ロスコーが笑って皮肉を言うと、スヴェンは面食らった顔になってから、頬を赤らめてにこにこと笑った。

 その日から、ロスコーも神についてもっと知りたいと思うようになった。

 スヴェンとも多少腹を割って話すようにもなり、師と弟子のような間柄ながら、ふたりでともに聖儀僧クレリックになるべく勉学と修練に励んだ。 

 

 けれど。

 叙品の儀式において、神が奇蹟を下賜したのは、少女だけだった。

 ロスコーはあの日の言葉を思い出し、スヴェンに失望した。

 ――結局、おまえも口だけだったじゃないか、と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る