一章 くさはらをゆく
逃避行
一筋の光。
洞窟の外では、大の大人が酔いつぶれ、高いびきをかいている。
忘れ草と同じ色の光が、洞窟に朱をさす。ロスコーは己の名を壁に彫りこむと、朝日をにらんだ。ロスコーは十に満たない少女だったが、自らの置かれた状況を冷静に分析していた。自分が取りうる手段を列挙し、そのひとつひとつの価値を既に検証してあった。後は、決断するのみ。
傍らで浅く眠る、銀髪の少女を見る。その手は赤茶けていて、指のひとつが布でぐるぐる巻きになっている。
自分の手には、拭いきれない血がまだ、まとわりついていた。
ロスコーは次の行動を選ぶことにした。それは、自分ひとりなら選択しえない行動だ。少女はまだ、将官としての誇りをなげうてずにいたのだ。
でも。それでイレーネを救えるなら。
「起きたまえ。……起きろ、イレーネ」
イレーネが目を覚ますと、ロスコーは
イレーネは親しい者の火刑を見るかのように、重く目を背けた。
銀の刀身に陽光が集まり、拡散するやふたりを包む。呪文の発動を初めて見るイレーネは目を白黒させる。短剣を鞘に収め肩から吊るすと、凛々しくも苦渋に満ちた顔で、ロスコーは手を差しのべた。
「行こう。《
「行くって……?」
「どこへでも。
君の村でも、私の
銀髪が揺れる。けれど、その逡巡は一瞬だった。少女は信じてみたいと思った。そう思わせるほど、ロスコーの顔は強く確信にあふれ、人の上に立つ者としての覚悟に満ちていた。
洞窟を抜け、盗賊の足元をわたり、少女は走る。子供の鈍足ながら、なけなしの呪文が二倍たらずに強化してくれていた。ロスコーに手を引かれて、イレーネはその気品ある表情に心惹かれた。首からさげたロケットを握りしめ、信じる神に祈った。どうか、彼女に罰でなく祝福をお与えください、と。
腐葉土を選んで踏んでも、裸足のふたりに森は厳しかった。足からは血が流れ、幼子の柔肌は擦り傷だらけになる。たとえ生きて逃げきれても、足の傷から死に至るかもしれない。そんなことが脳裏をよぎった。ロスコーは懸念を振り切った。もう決めたのだ――命にかえても、イレーネは助けると。
ナズルトーの深山をかきわけ、ふたりは下りにくだった。日が高く昇ったころ、少女たちは疲れきってへたりこんだ。そばには月見草が群れていた。
食料はおろか水もない。意識が不明瞭だと気づき、ロスコーはナイフを抜いた。水がいる。まだ信仰呪文を起動できるようになって間もないが、《
水を入れる器がない。
「イレーネ、喉が乾いていないか」
銀髪は荒い呼吸のなか、返事もできない。一瞬の間の後、ロスコーは片手を蝶の舞うように動かし始める。呪文発動に必要な、動作要素というものだ。
「――手を出したまえ」
言われたとおりにイレーネが両手で椀を作ると、中空から清流が降り注いだ。イレーネは傷の痛みに顔をゆがめたが、出るそばから水を飲んだ。
ふたりが飲んでも軽くあまりある水が現れたが、イレーネの小さな手のなかに収まったのは、ほんのわずかだった。
イレーネはすべて飲み干しそうになって、我に返った顔でロスコーを見上げた。
「私はいい。腹を下しているのだ」
イレーネは困った顔になり、両の手を差し出すが、なおもロスコーは固辞する。とたん、イレーネはにわかに怒った顔になる。
「どうして?」
「――理由などない」
「あるでしょ! ロスコーはえらいもん」
ロスコーは眉を下げ、青く明るくなりつつある空を見上げた。
「イレーネ、これは君に助けられた命だ。君が私を止めてくれなければ、あのまま私は殺されるなり、転落死するなりしていただろう。
――だから、私はこれを君に返したい」
「それはちがうよ」
びくり、とロスコーは飛びあがりそうになり、イレーネを見やった。イレーネは肩までの銀髪の中で、静かにふるえていた。
「あたしは、ロスコーに生きてほしかった。ロスコーと友だちになりたかったの。だから、いっしょじゃなきゃ――ダメだよ。……のんで」
ロスコーは自分のあやまちを悟った。救われた命を使い潰すことが、どれだけ無責任かを理解した。返事の代わりに、ロスコーは差し出された水を飲んだ。
それは、血の味がした。
月見草の咲く中、ふたりの少女が表情のない顔で見つめあう。先にイレーネが表情を緩めると、ロスコーも申しわけなさそうに笑った。
――あざけりのない笑みなんて、いつ以来だろう?
その時だった。
「誰かいるのか?」
男の声。ロスコーは銀の短剣を構え、すぐさま振り返った。
だが、そこにいたのは、穏やかな顔をした男だ。斧を提げ、ロープの束を担いでいるのを見ると、木こりだろうか。
「どうしたんだい。そんなものを人に向けてはいけないよ。しかし……どうしてこんなところに女の子が?」
イレーネはおびえてロスコーの後ろに隠れるが、「たぶん、やま向こうのひと。助けてくれるかも」と言い添える。ロスコーは男をもう一度見、確かにゲオルグの仲間ではないとナイフをしまう。
「ここはまだナズルトーでしょうか」
「そうだよ。随分外れだけどね。しかしその格好……一体なにがあったんだい?」
「迷子になって、森のなかで男に襲われたのです。半日走って、どうにかここまで逃げてきたのですが……」
真実ではないが、あながち嘘でもない。ロスコーは自分の身の上を説明しても、前後不覚と思われるだけだと判断した。
「なんとそりゃあ……! どこの子かね?」
イレーネを振り返ったが、首を振るばかり。
「その……私もなんといえばいいか」
「そうか……とりあえず、うちに来るといい。つらかったなあ」
ふたりは村人についてゆくことにした。導かれるがままについてゆくと、森は下りになり、やがて平野が開けた。遠くには田畑に覆われた土地も見える。
このあたりには
けれど、それははかない夢だった。
風を切る音。
ロスコーは振り返ったが、何も異常はない。そう思ったのもつかの間、背後で泡立つ嗚咽があがる。イレーネの悲鳴。
村人の背中に、矢が突き刺さっていた。どうと倒れ、血が平原の草を濡らす。 「ロスコー。結構な距離を稼げたなァ?
さァて、どこまで逃げられるかな。せいぜい楽しませてくれよ」
遠くから、男のしわがれた声がこだまする。
イレーネが色を失う。ロスコーは顔を歪め、憎悪に震えた。
「ゲオルグめ――! 走れ、イレーネ!」
風切音にイレーネはふるえ、足がもつれそうになる。友の手をとり、ロスコーは走りだした。まだ《早足》が効いている。逃げられる、逃げるのだ!
すぐ脇を矢がかすめ、地面に矢が突きたつ。狙いがあまい。奴らは楽しんでいるのだ――人間狩りを。獲物の活きが良いほど、狩りはいいゲームとなる。
虫唾が走る、外道どもめ!
その刹那、がくんとイレーネの走る速度が落ちる。
「ロスコー、足が……!」
そんな馬鹿な。私の《早足》はまだ切れていないのに? ロスコーはもうろうとする頭でいぶかしんだ。そして次の瞬間、悲鳴が聞こえた。イレーネの声が。
「きゃあっ!」
つないだ手が離れ、イレーネが倒れる。その足に一本の矢が突き刺さっている。
「イレーネ!」
ロスコーは矢の雨のなか、ためらうことなく駆けよった。思わず矢に触れると、イレーネは苦悶しあえいだ。ロスコーは謝り、手を離す。矢じりと矢羽がかえしとなって、矢は簡単には抜けない。
――どうすればいい? ふたりでにげるためには、私は?
「だめ、また獣に……!」
イレーネは脂汗をかき、なにか大きなものに耐えていた。ロスコーは
「イレーネ、すまない!」
無理かもしれないと思った。でもやらないわけにはいかなかった。ロスコーは矢を両手で持ち、渾身の力をかけた。
思いのほか、矢はあっけなくへし折れた。――いつの間に私は、竹を簡単に折るような剛力に?
いや、今はそれどころではない。ロスコーは矢を抜きとると、短剣を抜いた。
焦るな、失敗は許されない。ロスコーは自らが唱えうるうちで最も高位な――とはいっても、ただ簡単な傷を癒やすだけの――呪文を早口で唱えた。
銀のナイフが輝きだす。その刀身の背で、赤い傷に触れた。
けれど、輝きは霧散し、傷はそのままだった。
汗がふきだす。奇跡の行使に失敗したのか。
顔をあげると、男たちの群れが走ってくるのが見える。下卑た笑いが聞こえる。
痛みさえ止めれば、走れるはずだ! ロスコーは再び呪文を唱える。流れる汗、震える両手。今度は失敗しないよう、低級なただの痛み止めを。
けれど、その祈りも神には届かなかった。今度は輝きさえもつどわなかった。
なぜだ? なぜ私の祈りに耳を傾けてくださらない。さっきもイレーネだけ、先に呪文が切れてしまった。なぜ――
その時、イレーネが首から下げているものにロスコーの目にとまった。
安物のロケットに過ぎなかったが、その裏には。
複雑にのたうつ、
ロスコーは口元をおさえ、それを見なかったことにした。――何をやっている。今はそれどころではない、逃げる、逃げなくては。
けれど、気づいた。《早足》もなく、負傷した足で、大人から子供がどうやって逃げるというのか。ゲオルグ一味は、もう目と鼻の先だというのに。
ロスコーは、立ちあがった。
背後で獣と化しつつあるイレーネを肩越しに見、男たちに向き直った。
「なンだ? もう鬼ごっこは飽きちまったかァ?」
ニタニタと笑う、髪と髭がひとつながりになった大男。その髪は炭よりも黒く、目は月蝕よりも赤い。盗賊騎士団の首魁、ゲオルグ。
「そちらこそ、逃げないとなると矢をつがえないのかね?」
ロスコーが凛と問うと、ゲオルグは喉の奥で笑いを転がした。
「オマエにゃがっかりだぜ、ロスコー。ロスコー・ドラウフゲンガー督戦隊副長。なぜ諦めちまった? オマエがオレらから逃げ切れると、浅はかな希望を
考えてもみな。オマエの臭いを、オレが忘れるとでも?」
ロスコーは納得した。いくら足が遅いといえ、自分たちは十分な距離を稼いでいたはずだ。いくらなんでも早すぎると思っていた――言われて初めて気づいた。自分の鼻が個々人を識別し、距離まで把握していることに。
先ほど、身の丈にあわない力を発揮したことをあわせれば、自ずと理解できる。
これが、
「これはこれは、ずいぶん熱烈に愛されたものだな。――これ以上、何が望みだ」
ゲオルグは後ろの男たちを振り返り、一緒になって含み笑いをした。
ロスコーが何か言おうとした瞬間、ゲオルグの足先が少女の腹に突き刺さった。ロスコーの矮躯が転がる。
水ばかりを嘔吐する友に、イレーネは手を伸ばし、悶えながらその名を呼ぶ。
「はン。もしかしてよォ、まだ上官のつもりか? 貴族のお嬢ちゃんはさァ。
覚えておけ。オマエはきまぐれに生かしてもらってる、一匹の奴隷なんだぜ?」
「ならば、殺せ! なぜ殺さない? 殺せないからだろう!」
ロスコーの挑発に、ゲオルグはケタケタと笑って歩み寄る。
イレーネは見た。ロスコーの右の背中から、剣が突き抜けてくるのを。
イレーネの顔に友の血がかかる。声にならない悲鳴。
ロスコーは刹那、何が起こったか分からなかった。どくどくと命が漏れてゆく。喉から胃酸がこみあげる。口の中が鉄の味で塗り替えられて――
「あああああぁぁぁ――!」
意識を吹き飛ばすほどの苦痛がその回路に火を入れた。どす黒い憎悪と殺意が意識を塗りつぶす。ロスコーの全身を漆黒の獣毛が覆う。骨がきしみ、鼻先が形を変える。回路を走り、全身をくまなく染めあげる殺意。
獣化が終わる。抑えを失い、ロスコーは殺意という名の弾丸と化す。
一直線。殺意の獣は、大口を開いてゲオルグに飛びかかった。
でも。
その憎悪のあぎとが食いこんだのは、仇敵ではなかった。
ロスコーは、覚えのある血の臭いに開眼した。
つながりかけた指、美しい銀の髪。
「ゲオルグさん。に、にげたりして、ごめんなさい。
ど、どうか……ゆ、ゆるしてください……」
イレーネは、震える体を懸命に右腕で抱きしめて、そう懇願した。
「イレーネ……」
ロスコーは、狼と化した自分を見出した。自分をかばうように立つ少女を、ただ呆然と見上げた。そのとき、ロスコーは自らが信じる神の名を忘れた。
その銀の狼が、この世で最も美しいものに思えたから。
他方、ゲオルグは喜劇でも観るかのように笑う。
「涙ぐましいなァ? くく、おいロスコー。鉄仮面が台無しだぜ?
いやァ、いいモン見せてもらったな。仕方ねェ、そんなに、俺たちに可愛がってもらいてえっつうンなら、連れてってやろうじゃあねえか」
「なぁ旦那。一匹俺にくれよ。旨そうな小娘じゃねえか、おれ、ガマンできねえよ」
笑い続けるゲオルグに、部下のひとりが下品に笑いかける。
ゲオルグはにやにやしたまま顔をゆすりつつ、その部下の肩をつかんだ。
「言葉遣いには気ィつけるンだな、ヴィリー」
首魁は焦点のあわない表情を近づける。男は血の気を失い、何度もうなずいた。
「まァ、ちッたあ使わせてやるよ。さあ野郎ども、楽しい狩りはこれで終わりだ、引きあげるぜ。おい、小娘ども。駄賃にあの男から金目のモン剥いでこい」
盗賊たちが森へ戻ってゆく。不甲斐なさに肩をふるわせるロスコーを尻目に、イレーネは歩いて来た道を戻った。そして目をそむけながらも、黙々と言われたとおりの悪行をはたらきはじめた。そんなイレーネに、ロスコーは思わず、
「イレーネ、礼を言おう。だが、その村人は私たちを助けてくれようと――」
ロスコーは当然の道徳を、秘跡を授けられた
盗賊の怒鳴り声が、頬をはたく。
「――手伝おう」
ふたりの少女は、わずかばかりの金品をもって悪魔の軍門にくだった。とうに獣相は消え失せ、ロスコーの胸の傷も、イレーネの噛み傷もきれいに癒えていた。
しかしながら、ふたりの胸には、決して癒えることのない傷があった。
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