蒼き森の砦
「おい、そこな
安楽椅子にふんぞりかえった赤髪の男が、横柄な声で作業中の犬人に命令する。青鹿毛の犬人はテントの杭と金槌を手に、むっとした表情をした。
その顔に書かれた文字をみてとってか、
「はいはいただいまー!」
と、真っ白な犬人が炊事場へぴゃっと飛んでいった。じろりと青鹿毛の犬人をにらんでから、将軍は鼻を鳴らして地図に目を戻した。
ぶち模様の犬人が寄ってきて、耳打ちする。
「ダメだよハイン、そんな顔しちゃ。相手はおえらいさんだよ。
ガルー姉さんに後でお礼いっときなよ」
ハインと呼ばれた青鹿毛は、自分の手をみる。
「……ああ、おまえの言うとおりだ、ウラ。すまないな、おまえも寝不足だろうに」
「まあね。でも、夜通し行軍くらいなら珍しくないでしょ」
「平気そうだな、おまえたち三兄弟は」
「ハインも“実”をかめばいいのに。ひょっとして、しぶいのが嫌いなの?」
ハインは目を伏せて、「アーレント司祭には言うなよ」
「なんで?」
ハインが答える前に、その肩がぽんと叩かれる。ふたりが顔をあげると、栗毛の犬人が人懐こく笑っている。
「マヤクだとかなんだとか。気にすんなよウラ。
おい、ハイン。向こうの準備が整ったってよ」
「そうか。ダン、代わってくれるか」
「ほいきた。ったく、ハインは生真面目だからな。オルゼリドの旦那ぐらい気楽に生きりゃいいのによ」
腐れ縁の名前を出され、ハインは眉根を寄せた。
雪の残る山の斜面。目指す砦は、切り出された石を積んで造られたらしかった。いまやその砦は、森や突き出す岩肌と半ば一体化していた。
「こっちこっち!」
リタは主人を見つけ、じっと待てずに雪の上で足踏みする。早朝ということを差しおいても、
「首尾はどうだ?」
「あんまり、よくないよ」
しゅん、とリタは耳を寝かす。ハインはそんなリタを見かねて、おまえのせいじゃない、と頭をなでた。
リタに先導されて砦の門へ向かうと、ひとりの
ハインは衣服のほこりを簡単に払ってから、草人の少女に軽く敬礼した。
「お初にお目にかかる。ハイン・ギエムリョースリという。
ドーファ族長にお目通り叶うだろうか」
リタがハインのルテニア語を翻訳する。草人はハインの目をみあげ、
「ルテニア語なら分かります。ドーファ族長も同様です。けれど不思議です。
なぜギエムリョースリ氏は竜語を話さないのです?」
と、やや促音混じりのルテニア語で返した。
『ハインでかまわない。竜語も話せるとも。だがここでは、あまりエクセラードの言葉を使うべきではないかと思ってな。そうだろう?』
風を切るような響きの竜語で返すと、それを草人の少女は難なく理解した。
「氏は我々のことを理解していますね。どうぞ、我らが主がお待ちです」
その口調は、青い雪よりも冷たかった。
思わずハインは、その草人の背に追いすがった。
「失礼だが、貴殿の名を訊ねても?」
冷ややかな視線が振りかえる。
「我らは主へ奉仕する者。なぜ我々の名など知りたがるのです?」
「貴殿の主人へ捧ぐ忠誠は、騎士のそれと通ずる。その忠義へ敬意を示したい」
草人の少女は、値踏みするようにハインを見た。
「――スアイド・エルフェンドーファ。我々など、敬意を示すに値しません」
「いいや、ありがたく存ずる。そのご厚意に感謝申しあげる、スアイド殿」
「氏が密偵でないことを祈ります」
会話を打ち切って去るスアイドに、ハインは肩をすくめた。
「俺ももっと真っ当な仕事に就くかな。人間の貴族とか」
ハインがごちると、リタはぷっと吹きだした。
砦のなかは玄武岩でできており、巨大な石をくり抜いたように継ぎ目がない。通路と部屋の間に扉はなく、時に植物の根が壁や天井を這う。
ハインとリタは広い通路を通り、どんどん降りていった。並んで歩いてもゆうゆうと手を伸ばせるほどだ。それほど広いのに、ハインはふと息苦しさを感じた。息苦しいのは、暗く湿っているだけが理由ではない。その時、リタがパスを通じ、伝えてきた。複数人につけられているよ、と。ハインは「気が滅入りそうだな」と返す。ここでなければ、一服したいところだ。
ハインの夜目はあまり強くない。前を歩くスアイドの影が消えかけたところで、ようやく部屋に入ったらしかった。
ハインが目を凝らしていると、いきなり閃光が視界を染めあげた。
リタの視界を拝借すると、
ハインは自らの目で、座しながらこちらを凝視する大きな人影を見た。
岩が動きだしたかのような肌の質感。けれどその岩肌には目が、口がある。
――これが
彼が座する周りには、いくつもの人頭大の石が転がっている。それは八面体の黒曜石のようにみえるが、血潮のように赤い稲妻模様が表面を覆っている。
その後ろにはもうひとり岩人がおり、そちらは滑らかな質感だった。さながら、穏やかな渓流になでられつづけてきたかのようだ。ハインが目をやったのはほんの短い時間だったが、傍らに控えた草人たちが群がるように人垣をつくる。
ハインの二倍はある岩人とくらべると、草人はあまりにも小さい。
「失礼いたしました、ドーファ殿。私はハイン・ギエムリョースリと申します。ヴェスペン同盟盟主、ヘンネフェルトの
ハインがそう両の手のひらを見せると、岩人はじろり、とその手を見た。
「いつからヴェスペンは犬の都市になった」
ハインの顔色はつゆも変わらなかったが、リタは色を暗くした。
「ご心配なく。私は犬人ですが、ウォーフナルタを思う意志は盟主のそれと寸分違わぬものです。一陣の風の名において、固く誓いましょう」
「笑わせる。確かに、吾輩はヴェスペンの兵を信じた――一度はな。
その結果がこの有様だ。次は何を送ってくるかと思えば、犬ときたか。
ヘンネフェルトはなかなかに礼節をわきまえているようだな!」
「そこまでにしないか、ドーファ」
大柄な岩人を制して、整った姿形の同朋が声をかけた。
「たしかに先だっては残念だった。だが此度は失敗を踏まえ、傭兵でなく自らの領民を率いて、はるばるこんな北方までやってきてくれたのだ。話ぐらい聞いてやればよかろう」
「黙っておれ、フェルゼン。若造め……副将に推されればこの吾輩に意見できると思うたか。ヴェスペンに借りを作るまでもないわ」
ドーファの剣幕に、フェルゼンと呼ばれた岩人は苦笑いした。だが、目は断じて笑っていない。
「そうだな――全草人が貴殿の下に集っていれば、だが。いかに草人が森の葉がごとくいようとも、ベルテンスカに直接手を下そうと考える長は私とお前くらいなものだ。戦況をみるに、この
ハインは胸のうちで、フェルゼンという岩人を意外におもった。岩人といえばドーファのような、まさに読んで字のごとき
「我々はなにも、感情のみで貴殿らに
と援護する。しかし、
「くどい。犬に率いられた雑兵など芥も同然。この大いなる山野を守護するには吾輩のみで足る、なぜその道理が分からぬ!」
ドーファは聞く耳を持たない。見かねたフェルゼンが問いただす。
「では、いかに頭数の差を補う?」
ドーファは当然、と口を固く結ぶ。
「吾輩とすべての
瞬間、控えていたすべての草人が顔色を変えた。枯れ葉のこすれるような音の草本語が行き交うさまは、さながら夜更けの風のよう。ハインにとってはまるで理解できない言葉だが、リタに訳させるまでもない。初耳だったに違いない。
「正気か、ドーファ。貴殿にどれだけの草人が付き従っていると思っている」
「フェルゼン。そういう貴様は考えたことがあるのか。己の血脈の途絶えた後のことを」
「無論だ! 私が我が子のように――」
「ガルトレート辺りはこのドーファの死を喜ぶだろう。あの俗物の無法を許せば、ウォーフナルタの聖地は明日にでもエクセラードの
――吾輩は断じて許さぬ。岩人の誇りは、岩人の手によって守られればならん!」
ドーファの言葉は、フェルゼンの血の気のない肌をより白くした。
「差し出がましい真似をお許しください。閣下がその身を危険に晒され、万が一、もしものことがあれば、どれだけの草人が路頭に迷うと思われますか」
そうハインが引き留めようとしても、ドーファは白い目でこたえた。
「自らの行いの意味を理解しているならば結構なことだな、犬め。そういえば、
犬人も奉仕種族だったか。同族同士、感ずるところもあるということか?」
「使者を侮辱するとは、要らぬ敵を作る気か、ドーファ!」
「お気遣い感謝いたします、フェルゼン殿。しかし事実ゆえ、どうか落ち着いてはいただけませんか」
ハインも内心は同様だったが、繕う言葉は慣れたもの。フェルゼンはハインを
「ならば、ヴェスペン軍は私が指揮しても構わないな、ドーファ?」
「好きにしろ。――だが、使者には吾輩の草人を使え。
吾輩の知らぬところで人間にうろつかれてはかなわん」
フェルゼンは憮然と目を細め、
「と、いうことになった。すまないな、ギエム……」
「ハインとお呼びください、閣下」
「そうか。ではハイン、これからその剣槍、ありがたく借り受けさせてもらおう」
リタのこころが、ほっと一息つく。まったくだ、とハインも胸をなでおろす。
「スアイド、あの犬についてゆけ」
「承知しました」
ドーファに命令された草人はハインに近寄ると、そのとなりで耳を持ちあげるリタに目をやった。
「犬……?」
「わたしはリタ! スアイドさん、よろしくね!」
ほかの草人がさざめくなか、スアイドは困った顔でリタと見つめあった。
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