伏竜将

 椿つばきの枝が落ちている。つぼみのひとつは花開こうと柔らかく色づき、ふくらみ始めている。けれど、ほかのつぼみはしおれて黒ずんでいた。乱暴にへし折られ、二度と花開くことはない。

 枝が踏みしだかれる。落ちた時と同じように、無数の兵に何度も蹂躙じゅうりんされる。

 遠く、雪の冠をいただく蒼い山々が見える。その裾野には、鬱蒼うっそうとした深い森が東西に広がっている。その境界、虫に食まれたように木々がなくなったところが主戦場だった。

 珠と剣を掲げた、竜の紋章がはためく。

 皮鎧と槍を携えた兵が、鬨の声をあげて進軍する。

 だが。 

 不意に先駆けの何人かが転倒し、隊列が乱れる。兵らはすぐさま踏みとどまる。彼らの足は輪の形に結わえられた下草に捕らわれていた。兵らはそんな浅ましい罠を見て、舐められていると怒号をあげる。

 次の瞬間、怒号が潰えた。

 思い思いに声をあげた者はみな、黒い矢に喉を射抜かれていた。兵らは気づく。その矢じりが黒い半透明の石であることに。最前列の者は青ざめて口をつぐむ。

 だがこれほどの集団ともなれば、全員が全員、物分かりがいいわけではない。

「もうこんなところまで……?」

 次の斉射は兵たちにも見えた。樹々の陰から、ほんの子供にしか見えぬ人影が身を乗り出す。ただその人影は兵たちと違って人間ではない。銀の混じる緑の髪、髪に混じる柳のような枝。そして、黄色い皮膚と長い耳。彼ら草人アールヴは、一様に黒い布で目を覆い隠していた。黒曜石の矢をつがえ、放つ。人間ならば一呼吸を要する一連の動作が、草人にはほんの一瞬だった。

 人間の兵はいくらか防いだものの、また何人もが射抜かれた。はるか後方から見ていた指揮官が慌てて弓兵に射撃を命ずるが、既に草人は立ち木の陰だ。

 お返しと言わんばかりに一本の長い矢が飛来する。人間の目にとって点にしか見えぬ距離であるというに、その矢はあやまたず指揮官の喉仏を貫いた。それが先陣に伝わらなかったのは幸いだったか。怒り狂った兵は、我を忘れて進軍する。

 あくまでも、静かに。鬨の声も一糸乱れず。

 すると、すぐさま草人たちは身を翻し、一目散に退却し始めた。これを好機と、隊列は猛然と駆ける。

 指揮官が存命なら、せめて副官が恐慌していなければ、気づけただろう。

 逃げる草人の彼方。険しい斜面から突きだした岩棚に立つ、森賢者の姿を。長い矢をしまう草人が一言告げると、イチイの冠をいただいた草人の少女は、おごそかにひざまずいた。上半身を激しく揺らし、草人の言葉で口汚く祈っていた。そしていっそうけたたましくまくしたてると、椿の杭を岩肌に振りおろした。

 絶叫。

 哀れな人間たちは、樹の根に貫かれていた。ある者は胸部を、ある者は頭蓋とうがいを。ただ貫くだけでなく、内部で無数の末節にわかれ、それでいて鋼のような硬度を維持し。顔面から入ったその根は、後頭部をごっそりえぐりとって炸裂していた。かたわらにいた兵士は、なぜ自分の全身がぬるぬるしたもので朱に染まったのか、どうして同僚の頭から綿毛が咲いているのか理解できなかった。

 そんな、泥のような停滞は、長くもたない。

 先陣を切った百人隊は、半数以上が赤黒い肉塊に成り果てた――そう兵士らが気づくと、もう果敢にも武器を取ろうというものはいなかった。

「愚かなことだ。早々にに引き継いでさえいれば、これほど無益な血は流れなかったものを。貴重な時間と、ベルデンスカの勇猛な民を浪費した罪は重いぞ、アイヒマン」

「ふ、“伏竜将ふくりょうしょう”どの! いまさら現れて死者に雑言とは――貴殿には人の血は流れていないのか!」

 その偉丈夫は、名も知れぬ副官の言葉にふっと息をもらした。

 副官にすがりつかれたその騎士は、夕陽のように光り輝く鎧に身を包んでいた。爪先から頭まで黄金色の鎧に覆われ、顔はおろか、肌の色すらうかがいしれない。

「――だが、貴殿はすでに償い終えているか。意見の相違はあれど、皇国を憂えるのは同じ。貴殿の後は“伏竜将”が継ぐ。安らかに竜国へ向かうがいい」

 副官には見向きもせずに、騎士は立ち去ろうとする。

「ま、待て――何をする気だ! やめろ、“黄銅の騎士”よ!」

 十倍の兵力差をものともせず、ウォーフナルタはベルテンスカを押し返さんとしていたのだ――この時までは。

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