序章 芒種

黄昏

 少女は強姦された。

 人間の少女は、泥のように横たわっていた。

 洞窟には夕陽が差しこんでいたが、空では夜の青が這い寄りつつあった。その外には二十を超す数の男たちが下品に笑い、猥雑な話題で談笑している。

 その足元。冷たくなった子供たちの瞳が、虚無を見つめていた。

 洞窟のなかで、赤髪の少女は震えていた。少女の胸の内は憎悪と憤怒と、そして無力な己の肉体への失望でいっぱいだった。立派だったマントはボロ切れになり、上等な衣服は乱暴に破りとられ、肉体も同様にだった。

 少女にはもはや、顔や腹、胎内にまき散らされた体液をぬぐう気力もなかった。屈辱の涙も枯れてひさしい。それでも少女が特別だったのは、心臓を破って暴れ狂わんばかりの感情があったから。恥辱を晴らさずに死ねば、彼女はきっと別の邪悪な何か、魔性のものへ変生へんじょうしたことだろう。

 ――それが少女にとって、より不幸せな未来だったとは、言い切れないのだが。

 ともかく、少女は生残した。他の子供たちのように衰弱ややまいによって死んだり、狂気へ逃げて精神を殺したり、大罪である自殺を遂げることはなかった。

「だいじょうぶ……?」

 もうひとりの少女。銀髪の少女が、彼女を見つめていたから。

「――てやる」

 犯された少女が声を出すのを聞いて、銀髪の少女は安堵した。

 歩み寄って、自分のぼろをかけてやろうとする。

「――ころしてやる」

 銀髪の少女は、口元を押さえて言葉を失った。

 純潔を奪われた、よわい十に満たぬ赤髪の少女。彼女の翡翠ひすいの瞳は、いまや針先のように引きしぼられていた。よだれをだらだらと垂らし、犬歯は狼がごとく鋭く。

 だ、と銀髪は悟った。

「殺してやるァッ!」

「ダメっ! あいつらににらまれたら、きみも死んじゃうよ!」

 バネじかけのように飛びださんとする少女を、銀髪は押さえこんだ。その目にもはや正気はなく、振りかざした手には切り裂くための狼爪が備わっていた。

「あああああッ――!」

 四肢の末端から、黒々とした体毛がさざなみのように押し寄せる。少女は、狼と人の合いの子になっていた。餓狼のように唾液をまき散らしながら、銀髪を押しのけようとする。覆い被さった少女は、細身の全体重をかけて狼少女を押えこむ。

「いいこだから、おねがい……!」

 祈るようなつぶやき。けれど狼少女は、目の前に現れた手をみて。反射的に、

 がつん。

「いッ……! あ、ああ、あああ……!」

 苦悩の表情を浮かべ、銀髪の少女も銀の狼になりかわる。けれど、銀狼は理性を失わなかった。銀の狼は、これが初めての発作ではなかったから。

 黒狼と銀狼は、ひとつの嵐になって拮抗した。肩にかじりつかれ、幼い胸に爪を立てられ、それでも銀の狼はその場に留まった。黒い狼が疲れ果てるまで。

 一晩とも思える格闘が終わる頃には、月は天頂まで昇っていた。

 後に残されたのは、ただでさえぼろぼろだった衣服も失った、ふたりの少女。

 赤髪はしばらく呆然としていたが、我にかえり、銀髪を見た。赤髪は自分が何をしたのか覚えていなかったが、悪夢のような感触は脳裏を這い回りつづけていた。

 銀髪は、痛みに耐えていた。左手を真っ赤に濡らしながら。

 ぽとり、と。

 赤髪の口から何かが落ちた。

 赤髪は、無意識に目で追う。

 そして彼女は、己が畜生に落ちて犯したとがを知った。

 地面に転がった棒には、爪がついていた。

「だっ、大丈夫か! わ、私はなんということを……!」

 赤髪は自分が獣であった時のことを思い出し、動転した。相手が自分を抑えてくれなければ。きっと今頃、私はあいつらの機嫌を損ね、殺されていただろう。

 ――それを、私は。

「だいじょうぶ……これくらい、すぐ治るから……」

「馬鹿なことをいうな!」

 そう言ってから、気づいた。

 互いの咬み傷や引っかき傷が、そっくりなくなっていることに。

「しっ、しかし……それでは示しがつかないではないか!」

 何か償わせろという赤髪の言葉に、銀髪は笑った。

 痛みに耐えながらも、もっと大事なものを見つけたように。

「じゃあ、名前を教えて。友だちになろうよ」

 赤髪は面食らい、けれど、おずおずと近づいた。

 銀髪の指を拾って、その手を重ねた。

「私は、ロスコーという」

 赤髪は、ロスコーは、今まで決してそんなふうには名前を明かさなかった。名を明かすのは相手が先だと、相場が決まっていた。たとえそれが、十倍も歳を重ねた男だったとしても。

「ロスコー……へんな名前。男の子みたい」

 普段のロスコーであれば、それを侮辱ととっただろう。

 けれど彼女は、神妙な顔を緩め、気恥ずかしそうに笑った。

 銀髪の少女は差しだされた指を受けとり、脂汗をぬぐった。

「あたしは、イレーネ。よかった、ロスコーが無事で」

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