142.代わりの一番
「……気に入らないわね」
瞳子の声は決して大きいものではなかった。けれどはっきりと聞こえるだけの声量であり、場を凍りつかせるには充分な威力があった。
垣内先輩は笑顔のまま固まっていた。一見動じていないかのように眉一つ動かさない野沢くんも、あまりのことに思考が停止しているようだった。
「えっと……と、瞳子?」
俺はといえば動揺を隠せないでいた。情けないことにうろたえてしまう。
瞳子が先輩に対してこのようなことを言ったのを初めて聞いた。
彼女は運動部に所属していたこともあってか、目上相手への態度で問題になるようなことはなかった。物事をはっきり言うタイプではあるが、怒らせるようなことを口にしたことはないと思う。
「すみません垣内先輩。でも、これから野沢先輩に言いたいことがあります。よろしいですね?」
「え、えーと……」
有無を言わせない圧力が感じられた。そんな瞳子相手に反射で否定できるはずもなく、垣内先輩は助けを求めるかのように野沢くんへと目を向けた。
「……言ってみろ」
野沢くんは表情を変えない。さすがは生徒会長だ。
……いや、よく見たらこめかみがピクピクと痙攣しているみたいに動いていた。まったく動じていないってことでもないらしい。
瞳子に見据えられる野沢くん。俺から見ればどっちが先輩かわからないように感じられた。
「野沢先輩。良いように言ってましたけど、別に俊成とあたしの評価は言うほど高くはないですよね?」
「え、えぇ? そんなことはないよ」
「今、野沢先輩に聞いています」
「……すみません」
フォローしようとした垣内先輩は瞳子にピシャリと黙らされた。しゅんとする垣内先輩……あなたは悪くないですよ。
「なぜそう思う?」
「野沢先輩はあたし達のことをちゃんと知っているわけではないからです」
はっきりした口調に場が静まり返る。野沢くんもすぐには返答しなかった。
ふぅ、と息をつくのを合図に、野沢くんが口を開いた。
「まったく知らない者を生徒会に推薦するわけがないだろう。試験での成績や球技大会での存在感など、様々な振る舞いを見た結果だ」
「それならあたしよりも上の人はいます」
それに、と瞳子は続けた。
「そんなよくわかりもしない基準なんか関係なく、野沢先輩が本当に推薦したい人物は他にいますよね?」
「……」
野沢くんはむすっとした表情で押し黙った。
「他って、誰のことなのかな?」
垣内先輩がおずおずと質問する。瞳子に怯えている様子だけど、好奇心には勝てなかったようだ。
しかし、このままでは瞳子がケンカを吹っかけているみたいだ。
瞳子の手の甲をちょんちょんと突っついて「これ以上はやめた方がいいんじゃないか」と合図を送る。
すると手を握られた。少しひんやりとした、華奢な指が絡められる。
「……」
握られた手のひらから伝わってくる。瞳子は退かないつもりだ。
だったら俺は最後まで傍にいよう。そのくらいのことしかできないのなら、それだけは絶対にやってやる。
「あの、彼女の前ですけどいいですか?」
「か、カノジョだなんてそんなぁ……まだ早いよぉ」
瞳子は目線で垣内先輩を示した。綺麗な青の瞳に見つめられて変になったのか、先輩は体をくねらせる。先輩相手に悪いとは思うけど変な動きだ。
「……構わない」
目をつむり頷く野沢くん。心なしか眼鏡の奥から諦めの感情を帯びている気がした。
瞳子も小さく頷いてから口を開いた。
「野沢先輩は人をまとめること、人の上に立つのは葵が一番相応しいと思っていますよね」
「……」
疑問ではなく断言。それに対しての返答はなかった。
「ずっと葵がすごいって知っていたのに声をかけなかった。葵には他にやるべきことがあるはずだ、なんて言い訳をして自分から関わろうともしてこなかった」
まるで野沢くんの心を見透かしているようで、瞳子の真っ直ぐとした青の瞳を見れば、そうじゃないと否定もできなかった。
「本当は一番認めている人……、生徒会長に相応しいと思っているのは葵でしょう? それでもあたしを指名したのはただ見てほしかっただけですよね? ちゃんと評価している自分を、正しいことができる自分をアピールしたかっただけです」
野沢くんが誰にアピールしたかったのか。さすがに俺にもわかった。
「俊成もそうです。本当に指名したかったのは佐藤くんですよね? でも彼には将棋という才能があったから。それを間近で見てきた野沢先輩は生徒会に入れたくはなかったんです」
淀みのない言葉。まるで的確に野沢くんの心の声を言い当てているかのようだ。
「……」
野沢くんは沈黙を保っている。心の隙を見せないと言っているようで、その無言が雄弁に語っているようにも感じられた。
瞳子が言った通りなのだとしたら、野沢くんは女子なら葵、男子なら佐藤を一番に評価しているってことか。
瞳子と俺は二番目……二人の代わりってことか……。
「俊成とあたしを評価してくれているのは嘘じゃないんでしょう。でも、わざわざこんなところに呼び出す程度の評価でもない。ただ周りを納得させるだけの、あなた自身の評価を上げたいだけの推薦なのだとしたら……」
瞳子の目が険しくなったわけじゃない。しかし空気が張り詰めていくのを感じられ、今にも破裂してしまいそうなほど膨らんでいくように思えた。
「……迷惑です」
これまでとは裏腹に、最後のこの言葉は一番弱々しかった。
急速に萎んでいく緊張感。瞳子はうつむいてしまい、これ以上の言葉はないようだった。
「……」
……そりゃあ、気に入らないよなぁ。
ちゃんと自分を知らないくせに、見てこようともしなかったくせに、いきなり評価してやっているからと推薦された。でもそれはきっと、後釜を埋めたかっただけのことだ。
もっと評価している人がいて、その人を選ばなかったのは思いやりがあってのことってか? それは代わりに選ばれた人に対して思いやりが欠けていないだろうか。
結局、野沢くんは自分の一番に対して何もしてはいない。その気持ちを聞いてもいない。勝手に自分で判断して、勝手にそれぞれの道があるからと候補から排除して、勝手に瞳子と俺なら面目が立つだろうと侮った。
野沢くんは生徒会長として立派にやってきた人だ。がんばっている背中を、小学生の頃から見ていた。だから高校生になってみんなから尊敬されるのも納得できるし、俺自身彼のことをすごい人だとも思っている。
でも、正直好きにはなれなかった。
野沢くんからは常に敵視されていて、まともに話せたことがない。姉の野沢先輩から良いところを聞いてはいたけれど、俺の前ではその面を見せてはくれなかった。
敵視されてはいないだろうが、瞳子も似たようなものだったのだろう。瞳子と葵で野沢くんへの印象がかなり違っていたから。
これまでがあって、今回のこの扱いだ。先に葵に声をかけていたなら二番目だろうとも納得できたのだろう。でも野沢くんは周りの目を意識してだろうか嘘をついた。いや、嘘ではないにしろ全部を口にしなかった。自身を良く見せるためのダシに、俺達は使われたのだ。
そんな彼の言葉を信じるのは、無理ってものだろう。
「……そうだな。その通りだ」
野沢くんは目を伏せたまま頷いた。
彼はそれ以上語らなかった。理由は瞳子の想像通りと肯定しているつもりなのだろう。
そうやって他人の考えに任せているばかりだから、自分の考えが一向に伝わらないのにな。
「俺は生徒会長ってなら、葵よりも瞳子の方が向いてると思うよ」
「え?」
重くなっていた空気を無視して、俺は瞳子へと言葉を放っていた。
何を驚いているのか、瞳子の目が真ん丸になっている。美人さよりも可愛さが勝った表情になったな。
「瞳子は大勢の人がいたとしても一人一人の顔をちゃんと見てくれるだろ。誰か困っている人がいたら真っ先に飛び込んでいける人だ。バランスを取るのが上手いから前に出てもサポートに回っても心強い」
口にするのはただの感想だ。これまで瞳子と付き合ってきたから、当然知っていることでしかない。
「これは瞳子のすごいところで、葵がマネできないところだよ。葵は人を乗せるのが上手いけれど、生徒会長として良くも悪くも見渡せるだけの視野はまだないと思うし。何より集中しすぎると周りが見えなくなるタイプだ」
「葵がダメならあたしだって……」
「そんなことないだろ」
だって、瞳子と葵で決定的に違う部分があるんだから。
「瞳子は文武両道で、なんでもできるって思われがちだけど、たくさん失敗を経験してきたからね。多くの失敗を知っている人は強いって、俺は思う」
木之下瞳子は完璧超人ではない。なぜか周りでそう思っている人がいるが、そんなことはないって幼馴染の俺は知っている。
「野沢くん」
瞳子に向けていた顔を野沢くんへと向ける。
「ああ」
「生徒会役員の件、また日を改めて返事させてもらってもいいですか?」
「……構わない」
瞳子の手を引いて席を立つ。目をパチクリさせている彼女が新鮮で、抱きしめたくなるほど可愛かった。
「木之下」
退室する前に野沢くんから声がかけられる。手をつないだまま俺達は振り返った。
「すまなかった。はっきり言われて目が覚めた。……迷惑、かけたな」
「いいえ。春姉は先輩のことをいつも褒めてました。気に入らないと口にしたことは撤回しませんが、先輩のことが嫌いってわけじゃありませんから」
「高木も……気分を害させたな。すまなかった」
「別にいつものことなのでいいですよ」
「うっ……」
なぜか胸を押さえる野沢くん。さっきまでポーカーフェイスだったのにどうしたんだろう?
「えっと……ま、またね?」
「はい。お騒がせして申し訳ありませんでした」
「垣内先輩ごめんなさい。あたし失礼なことを口にしてしまいました……」
「い、いいのいいのっ。むしろ先輩相手でも意見を言える子じゃないとね! うんうん!」
垣内先輩はすごくフォローしてくれるなぁ。役員にこういう人がいたからこそ野沢くんは会長として上手く仕事をできたのかもしれないね。
一時は緊張感に包まれたけど、最後はお互いぺこぺこ頭を下げていた。生徒会室を出た瞬間にどっと疲労に襲われてしまったのは瞳子にも内緒だ。
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