123.赤と青の感情

「今日は時間を作ってくれてありがとう」

「う、うん……」


 時間を作ったというか、作らされたというか……。美穂ちゃんの真っすぐこっちを見つめての「ありがとう」に、私はどう返答しようかと困ってしまった。

 夏休み初日。トシくんと美穂ちゃんの期末テスト勝負の結果、私は勝者である美穂ちゃんとデートすることになった。

 デートとはいえ彼女は女友達だ。ただどこかに遊びに行くのだろうと思っていたら、場所は私の家を指定された。

 そんなわけで家に遊びにきた美穂ちゃんを自室へと案内した。トシくんと瞳子ちゃん以外の友達を部屋に入れるのっていつ以来だろうか。

 それにしても、と。ぺたんと座る美穂ちゃんをまじまじと見てしまう。

 キャミソールにキュロットスカートの組み合わせ。肌の露出はあるけど落ち着いた色合いと彼女自身の雰囲気でとても大人っぽい印象を与えてくる。

 小さい頃は男の子みたいな恰好をしていたのに、今ではびっくりするくらいかわいらしい服に身を包んでいる。変な言い方だけれど、綺麗になった。


「何?」

「う、ううん。なんでもないよ。暑かったよね、飲み物取ってくるから待ってて」


「お構いなく」という彼女の言葉を背にして部屋を出た。

 なんだか緊張するなぁ。ジュースを取り出そうと冷蔵庫を開けたらやけに涼しく感じる。

 今日はお父さんもお母さんも外出している。静けさに寂しさを覚えてしまう。こういう日こそトシくんや瞳子ちゃんといっしょにいたから。


「すー、はー……」


 冷蔵庫を閉めてから深呼吸。ちょっとだけ速くなった鼓動を落ち着かせる。

 大丈夫。私は緊張する状況でも平静でいられる。

 後ろで隠れているばかりの私じゃない。ちゃんと前へ出られるようになった。私は強くなったんだから。


「お待たせ美穂ちゃん。適当にオレンジジュースにしちゃったけどいいかな?」

「もちろん問題ない。いただきます」


 テーブルの上に飲み物を置くと、美穂ちゃんは早速とばかりに手を伸ばした。涼しい顔をしていたと思ったけれど、やっぱり喉が渇いていたみたいね。


「それでどうするの? デートって言っていたし、何かして遊ぶ?」


 明るい声で尋ねる。できるだけいつもの調子を心掛けた。

 でも、美穂ちゃんの目は真っすぐに私を射抜くようで。少しだけだけど、表情が強張ったのが自分でもわかってしまった。


「そうね。久しぶりに将棋をしよう」

「え、将棋?」

「うん。宮坂とは長い間してなかったと思って」


 私の記憶でも美穂ちゃんとは小学生以来将棋を指し合った覚えはなかった。クラブ活動していたのが懐かしいな。

 トシくんと瞳子ちゃんとはたまに指したりするけれど。美穂ちゃんも続けていたのかな? 彼女とは中学生になってから少しずつ距離が離れていたように感じていた。


「わかった。準備するね」


 駒と盤を用意する。今ではトシくんにも対等に渡り合える実力があるのだ。自信はある。

「お願いします」と言い合って久しぶりの勝負が始まった。


「……」


 先手は美穂ちゃん。一手目で角道を開ける。私はそれに応じていく。

 将棋の勝利条件は王様を取ること。簡単に言ってしまえばその一言で充分だ。そのため他の駒を使って王様を守ることが重要になってくる。

 守りをしっかりと固めてから攻める。私の手順としてはそれが一番多い。美穂ちゃんもそうだったはずだ。


「……っ」


 だから、急戦を仕掛けられるなんて思ってもみなかった。

 美穂ちゃんは自分の王様の守りなんて知らないとばかりに私に攻め込んでくる。囲いを作り切れていないせいで不格好な戦況へと突入していく。

 らしくない戦法……てわけでもないのかな。

 興味ない素振りかと思えば、攻める時はこっちがドキリとするくらいの思い切りの良さ。なんて、将棋のスタイルと性格は違うか。


「宮坂」

「はいっ」


 心を読まれたのかと返事が裏返りそうになる。

 美穂ちゃんは盤面から目を離してはいなかった。目線を下に向けたまま口が動く。


「宮坂と木之下、二人で高木の恋人になる……。それを最初に言い出したのは宮坂だよね」


 美穂ちゃんの一手。パチリという音以上に、私の頭に大きく響いた。

 急な問いかけ。ううん、急でも、ましてや問いですらない。これはずっと前から彼女の中で確信となっていたのだろう。


「どうしてそう思うのかな?」


 声は震えることなく、私は笑ってみせる。美穂ちゃんの返答も淡々とした調子だった。


「ただの消去法。高木からはまずそんな発想は出ない。木之下は白黒決着をつけるタイプだから。あたしの中で宮坂だけがどんな結論を出すのかわからなかった。だからこそ、一番可能性があると思った」


 返答はしない。それを答えとするかのように、美穂ちゃんはふっと息をついた。


「それって美穂ちゃんに関係あることなのかな? あくまで私達三人の問題であって。美穂ちゃんが気にするようなことでもないよね」


 パチリと駒を置く音が響く。敵陣に入った銀将を成るかどうか、瞬きする間だけ迷って、結局成らずにそのままにした。


「関係ない。あたしには関係のないこと」


 美穂ちゃんが追撃する手を強める。


「でも、聞く権利はあると思う」


 私の手が止まる。攻めるにしても守るにしても、難しい局面に入った。

 彼女にたじろぐ様子はない。私も退く気はない。

 私と美穂ちゃんは顔を上げずに盤面へと意識を集中させる。言葉の応酬は止まらない。


「そうだね。そうかも」


 駒を動かそうと手を伸ばしては引っ込める動作を繰り返す。次の一手も返答も決まっている。なのに踏ん切りがつかない。

 ただ真っすぐに想いを伝えるのとはまた違った勇気が必要だった。ここにきてトシくんと美穂ちゃんのすごさを思い知らされる。頭ではわかっていたつもりでも、実感として向かい合ってみれば想像以上に勇気が必要だった。


「美穂ちゃんが今でもトシくんのことが好きなのは知っているよ。見ていればわかるもの」

「……うん」

「だから、前に瞳子ちゃんが言ったと思うけれど、今でも本気なら美穂ちゃんの邪魔はしないよ。私も、瞳子ちゃんもね。その答えを出すのはトシくんだから」


 攻めに転じる一手を、美穂ちゃんはすかさず受け流す。


「それはない。あたしが高木に何かをするだなんて、無駄なことだってわかっているから。たくさん思い知らされたから。……だからもう、そんな風には彼を見られない」


 はっきり、きっぱりと。美穂ちゃんは自らの言葉で言い切った。

 思わず顔を上げて彼女を見てしまう。すると目が合った。


「今回の期末テストでの勝負でよくわかった。高木がどれほど宮坂と木之下が好きかってことが。あたしに入る余地はない。よく、わかった」


 淡々と、でもどれほどの感情が乗せられていたのか。私には測ることはできないけれど、気持ちが伝わるほどには大きなものだった。


「それじゃあ、どうするの?」


 美穂ちゃんのトシくんに向ける好意はわかっていた。中学時代、彼女が他の男子と付き合っている時でさえトシくんを見ていたのを知っていたから。

 だから、どこかで行動を起こすと覚悟していた。

 その時は向き合おうと。瞳子ちゃんと二人で決めていた。彼女が本気ならぶつかっていくと決めていたのだから。


「どうもしないよ。あたしが何かすることはないし、できるわけもない。ただ知りたいだけ」


 彼女は厳しく私を見据える。


「宮坂は木之下と決着をつける気がある? もし負けたとして大人しく諦められるの?」


 黙ったまま美穂ちゃんを見つめる。視線の厳しさは変わらない。


「こうなった以上、高木に全部丸投げするのは無責任だと、あたしは思う」


 そう言ったきりしばらく美穂ちゃんは口を開かなかった。パチリパチリと、駒を打つ音が響くだけの時間が続いた。


「……諦められるかは、わからないよ」


 パチリと、彼女の攻めを受ける。


「私が言い出したことでも、ちゃんと瞳子ちゃんとは話し合ったの。どんな結末になったとしてもお互い恨みっこなしだって決めたの」

「じゃあさ、宮坂は高木と木之下がいなくなったら耐えられるっていうの? 二人が離れても今みたいに余裕な顔をしていられるの?」


 トシくんと瞳子ちゃんがいなくなる?

 想像してしまった瞬間、目の前がチカチカと眩んでいく。フラッシュバックみたいにここではない別の映像が流れる。

 つらかった記憶……。そう、つらいと感じていた記憶が私を絞めつけてくる。


「く……はぁ……っ」

「宮坂!? 大丈夫? オレンジジュースを飲んで。ゆっくりだよ」


 気づけば美穂ちゃんが私を支えてくれていた。差し出されたオレンジジュースに口をつける。ぬるい液体が喉を通ったころにはちゃんと意識を取り戻せた。


「いきなりごめんね。それと介抱してくれてありがとう」

「ううん。あたしのせいだよね。余計なことを言ったから」


 眉尻を下げて落ち込んでいる。彼女の人の好さが思わず顔を出していた。

 真奈美ちゃんや、ましてや瞳子ちゃんでさえこんな厳しさを私には向けないだろう。彼女の言動は決して妬みや嫉みからくるものじゃない。


「ふふっ」

「何笑っているの?」

「美穂ちゃんって不器用だなって思って」


 美穂ちゃんはしかめっ面になる。付き合いの長い私達にしかわからないほどの変化だ。それをわかることがちょっとだけ嬉しいということは本人には言えないよね。


「将棋の続き。体に問題ないならやろう」

「うん。負けないよ」

「こっちのセリフ」


 お互い勝負にのめり込んでいく。そうさせてくれることが彼女の優しさだった。



  ※ ※ ※



赤城美穂。私……、私達とは小学一年生から付き合いのある女の子だ。

 クラスが同じだったわけじゃない。トシくんがつれて来た女の子。彼に声をかけられたのがきっかけ、というのが関係の始まりだった。

 トシくんが手を差し伸べてくれた。それは私と瞳子ちゃんと同じで、正直言うとものすごく警戒していた。

 彼女もトシくんを好きになってしまうんじゃないかって、そう思っていた。結果的にはそうだったんだけど、彼女がそう想いを抱くのは思った以上に後のことだった。

 出会いを考えれば美穂ちゃんとトシくんが友達になるのは当たり前のことだった。

 そう、それはとても当たり前のことで。嬉しそうにしている美穂ちゃんを当たり前のように見てきた。

 最初から仄かな想いはあったのだと思う。けれどそれを形にするのは時間がかかって、難しかったんだって思う。私と瞳子ちゃんはそれをよくわかっていなかったんだ。

 気持ちを伝えることが難しいとはわかっていた。でも溢れる気持ちを形にするのはどうしようもなく簡単で、自然なことだって思い込んでいたんだ。


 ――それも勘違い。本当の私は美穂ちゃんの気持ちがよくわかっていたはずだったんだ。それに気付くのがどうしようもなく遅かった。私はただ甘えていれば良かっただけだったなんて、あまり考えたくはない。



  ※ ※ ※



「今日は付き合ってくれてありがとう」

「ううん、こっちこそ楽しかったよ」


 白熱した将棋での勝負は私が勝った。序盤は美穂ちゃんの勢いに押されてしまってばかりだったけれど、落ち着いて自分のペースに持ち込んでいくうちに逆転できた。その分長考も多かったせいで随分と時間をかけてしまった。

 おかげでたくさん話もできた。美穂ちゃんも言いたいことを言ったみたいでスッキリとした顔をしている。今度彼女を誘うことがあれば私からになるんだろうな。

 玄関で見送る間際、言い残したことがあったと彼女は普段通りの無表情な顔で振り返る。


「高木は男として好きだったけれど、宮坂は女として好きだよ。そこそこ良い奴だしね。……気に食わない部分があるのも事実だけどね」


「気に食わない部分」と言ったあたりで目線が下がったのは見なかったことにしよう。彼女なりに褒めているはず。だよね?


「まあでも、応援するなら木之下かな」

「美穂ちゃん!? さっきの言葉はなんだったのかな? ねえ?」


 くすくすと笑われてしまう。う~、納得いかないよ。


「がんばれとは言わないよ。胸が苦しくなるくらい悩むんだろうしね。ただ、高木に甲斐性があるのなら、選択肢は広がるのかもね」

「トシくんの、甲斐性……」

「待っているだけじゃ後悔する。知らないままでいるのは後悔する。後悔しないように生きるのはもちろん、後悔を振り払うのも難しいよ。本当にね」


 美穂ちゃんは背を向けて玄関のドアに手をかける。私に顔を見せないまま続きを口にする。


「それでも、宮坂は後悔のないようにね。それだけは応援してる」


 そう言い残して美穂ちゃんは帰っていった。

 しばらく誰もいなくなった玄関を見つめていた。本当に見つめていたのはここじゃないどこか……、はっきりと自覚した過去であり、未来のことだ。


「後悔なんてしないよ……絶対に……」


 誰にも聞かれることのない決意。聞かれてはならない後悔の声だった。


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