34.木之下瞳子は雨宿りした日を振り返る
昔の恥ずかしい思い出というのは、ふとした瞬間に思い出してしまうものなのかもしれない。
学校から帰って、「疲れたー」なんて言いつつベッドに飛び込む。制服がしわになってしまうのを心配するところなのだけれど、あたしはそのままリラックスしてしまった。
そうすると勝手に頭の中で過去を振り返ってしまう。
それは学校のこと、通っていた水泳のこと、それから、俊成と葵のこと。
和やかな時間が過ぎていた。思いだすだけで思わずほっこりしてしまう思い出ばかりで、なんだかんだ言いつつもあの頃は三人で仲良くしているだけで楽しかったのだ。
思い出に浸っていると頬が緩む。しかし急に表情が固まってしまう。
楽しいことが多かったのは確かだけれど、中には恥ずかしい記憶もあったのだった。
※ ※ ※
あれは確か、小学四年生の頃。下校中に急な雨に降られてしまったのだ。
「いきなりどしゃ降りにならんでもいいだろうに! 朝の天気予報じゃ何も言ってなかったぞ!」
「ひゃあっ! 冷たーい!」
「喜んでる場合じゃないでしょ! ほら葵、さっさと走りなさいっ」
下校はいつもあたしと俊成と葵の三人だった。まだ家まで距離があるっていうのに大雨が降ったのだ。
ランドセルで頭を守りながらも制服は濡れてしまっている。このままじゃ風邪を引いてしまうかもしれない。そんな時に俊成がこう言ったの。
「ここの神社でちょっと雨宿りさせてもらおう」
あたしと葵はその提案に賛成した。このままでは家に着く頃には制服どころかランドセルの中身だって大変なことになるかもしれなかったから。
鳥居をくぐり、拝殿の屋根で雨をやり過ごす。雨音が強くてちょっと声が聞こえづらかった。
帰り道で見かけるものの、この神社にはあまり来たことがなかった。お正月で行く時の神社はもっと遠くの場所だったから。小さいというのもあってあまり立ち寄らなかったのだろう。
「ふぇー、びしょびしょになっちゃったねー」
葵の艶やかな黒髪が彼女のシミ一つない白い肌に張り付いている。まだ子供っぽさがありながらも、雨に濡れたその姿に同性ながらも色気を感じてしまう。
当時の俊成もそう思っていたのか、そんな葵に見入っていたのを憶えている。ものすごくもやもやしたんだから。
まったくもう! 小さい頃から優しかったけど、俊成にはたまにエッチなところがあったんだと思う。葵の胸が大きくなり初めてから、俊成の視線が葵の胸に向いていることが多くなったから。あの時はあまり深くは考えていなかったけれど、俊成にも邪な気持ちがあったんでしょうね。男子って胸が大きい女子が好きだもんね!
……こほん。それはいいのよ。俊成だって巨乳がタイプってわけでもないみたいだし? ふふっ。
「教科書とか大丈夫かな?」
俊成は上着を脱いでからランドセルの中を確認する。まだ夏服に衣替えしていない時期だったっけ。降り始めというのもあって濡れた上着を脱いだら幾分かマシになった。
そんなことを俊成に言われてあたしと葵は上着を脱いだのだ。少しひんやりするものの、濡れた服を着ている不快感が和らいだ。
「いつまで降るのかしらね」
ハンカチで濡れた髪の毛を拭いながらぽつりと言う。雨がザーザーと大きな音を立てていたから聞こえないかなって思った。でも俊成はちゃんと聞いてくれる。
「すぐには止みそうにないね。さすがにずっと降りっぱなしってわけでもないと思うけど」
俊成の返答に「そっか」と答える。当分は雨宿りをしないといけないらしい。
「くちゅんっ」
葵のくしゃみだった。俊成が心配そうにしている。ハンカチはあってもタオルなんてないから、濡れたせいで体の体温が奪われつつあった。
びしょ濡れになった上着を脱いだからといって暖かくなるわけでもない。雨のせいか空気も冷たくなっていて、このままじっとしていると確かに風邪を引いてしまうかもしれなかった。
「そうだ! いいこと思いついた!」
葵の顔がぱあっと明るくなる。直感的にそのいいことはあたしにとってはいいことではない気がした。
「わっ!? ちょっ、葵ちゃん!? こんなところで何をっ!」
「あ、葵!? あんた何やってるの!」
戸惑う俊成に続いてあたしも焦った声を出してしまう。
なぜなら、葵が着ていた服をぽんぽん脱いでいってしまっていたから。この頃はまだ羞恥心が曖昧だったのだ。今これを本人に言ったらものすごく恥ずかしがってしまうのだろうけど。
スカートまで脱いでしまった葵は下着姿となった。いくら木に囲まれている神社とはいえ思いきりが良過ぎる。
「葵ちゃん……。外では服を着た方がいいよ」
「えー、別にトシくんと瞳子ちゃんだけしかいないし。それに寒くなった時は誰かとくっついて温め合うんだよ」
どこからの知識なのか。葵は自信満々と言わんばかりに胸を張っていた。
「だからほらトシくんも脱ご? 私と温め合おうよ」
「え……、えっと……」
困った顔をする俊成だけれど、こうなった時の葵は自分の意見をなかなか引っ込めない。そして俊成も案外押しに弱いのだ。
弱々しくしていたのでは抵抗にならない。俊成は葵に服を脱がされていって、こちらも下着だけとなった。
「トシくんあったかーい」
「あ、はは……」
葵に抱きつかれて困った顔のままの俊成だけど、喜んでいるのがなんとなくだけどわかってしまった。わかってしまうと一気に頭が沸騰する。
「あたしもやる!」
葵とは仲良しだけれど、俊成が絡むとそういうわけにもいかなくなる。あたしだって俊成を取られるのは嫌なのだ。
立ち上がって勢いよく服を脱ぐ。こんなことがなければ恥ずかしくてできないようなことだけど、あたしに退く気はなかった。
キャミソールなんて心もとない。恥ずかしさを誤魔化すみたいにすぐ俊成に抱きついた。肌と肌が密着する。葵の言う通り、確かに暖かかった。
俊成と触れ合っているとほわほわしたような温かい気持ちになる。それは体を温めるよりも気持ちがよかった。
「と、瞳子ちゃん……」
やっぱり俊成の抵抗は弱々しい。たぶん喜んでくれているのだ。そう思うとなんだか嬉しさが込み上げてくる。
「トシくんはあったかいね。瞳子ちゃんもそう思うよね?」
「そうね……」
今回の葵は俊成を取り合っているつもりはなかったみたい。ただ純粋に体を温めようとしているだけのようだった。そのつもりじゃなければ葵だってケンカ腰になっているはずだから。
神社の境内で抱き合う三人の男女。あの時は小学四年生だったとはいえ、すごいことしてたんだなって思う。
あたしと葵は温もりを求めて俊成に肌を擦りつける。雨音が激しい。あたし達は隔離されているかのような気分になる。このままでいられるのならそれでもいいかとも思う。
もう、早く雨が止んでほしいとは思ってなかった。むしろこのまま俊成の温もりを感じられるのなら、もう少し止まなくてもいいだなんて考えていた。
でも、あたしのその考えは途中で中断されてしまった。
「瞳子ちゃん?」
俊成が首をかしげる。そりゃあ急にあたしが立ち上がったのだから気にしてくれたのだろう。
だけどそれどころじゃなかった。
あたしの背中に冷たい汗が流れた。切羽詰まった。とてもいけない状況だった。
顔が熱くなる。もう猶予なんてなかった。
あたしは走った。「瞳子ちゃん!?」という俊成の戸惑いの声を無視して走った。形振りなんて構ってられなかった。
とにかく俊成には知られたくない。身を隠せる場所を探す。茂みがあった。そこでいい。
あたしは茂みの裏へと体を滑り込ませた。水泳で培われた瞬発力を無駄に生かしてしまった。
「お、おしっこ……っ」
そう、あたしは催してしまったのだった。
なんだかあの空気の中で尿意を感じてしまったことにものすごい恥ずかしさを感じてしまったのだ。しかもこの神社にトイレが見当たらない。それがあたしに焦燥感を与えてしまった。
早くしなきゃ。でもトイレがない。捜してる暇もない。でもしなきゃ!
そこであたしは外で済ませるしかないと思ってしまった。いろいろと切羽詰まってしまって考えが回らなかったのだ。
外で済ませてしまうだなんて俊成には恥ずかしくて言えない。とにかく俊成にだけは見られたくなかった。知られたくなかったのだ。
茂みの裏は屋根のない場所なのでもちろん体は濡れてしまう。濡れて冷えたからかぶるりと震えてしまう。もう我慢できないっ。
……とても恥ずかしい話だけれど、あたしは外でおしっこをしてしまった。
それだけで済めばよかった。恥ずかしいけれど自分の中だけでしまっておける話だから。
「瞳子ちゃん急にどうしたの!?」
……あたしの中でこの記憶が根深く残っているのは俊成のせいだ。
心配してくれたのだろう。突然走り出してしまったあたしを追いかけてくれた。それは嬉しいことだ。でもこれは察してほしかった。この時ばかりは追いかけてほしくなかった。
「あ」
「あ」
あたしを追いかけて茂みの裏まで来てしまった俊成。もちろん目撃されてしまう。女子はその……急には止められないのだ。つまり、終わるまでバッチリ見られてしまった。
「……」
「……」
俊成は気まずそうに目を逸らして、やっぱりあたしの方へと視線を戻した。その目は真っすぐだった。
俊成の表情が真剣なものになる。そうして口を開いた彼の言葉は――
※ ※ ※
「いやああああああああぁぁぁぁぁぁぁーーっ!! ……はっ!?」
思い出とシンクロしてしまってあたしは叫び声を上げていた。我に返って余計に恥ずかしくなる。
あの時、俊成が何を言おうとしたのかはわからない。今みたいにあたしが叫び声を上げてしまって聞けなかったからだ。
聞きたいような、聞きたくないような……。ていうかこんなこと思い出したくなかったっ。
顔が熱くてしょうがない。まさか俊成も思い出したりなんてしてないわよね?
気分を変えたくなって制服から部屋着へと着替える。この部屋着は俊成のお古だ。もう小さくなったからと言って捨てようとしていたものを彼からもらったのだ。これは葵にも秘密にしている。
「えへへ」
これを着ると俊成に抱きしめられているみたいに感じる。あの時はあたしが俊成に抱きついていたけれど、どうせだったら俊成に抱きしめられたい。
心がほわほわする。とっても恥ずかしい記憶だったけど、この温かい気持ちを思い出させてくれたし、やっぱりいい思い出なのかもしれない。
「……」
今の関係。未来はどうなるかわからない。本当に不安なことばかり。ぐるぐると考えなくてもいいことも考えてしまう。
葵は魅力的な女の子だ。それだってまだまだすごくなる。どうなるかわからなくてもそれは確信できていた。
「俊成……。お願い、あたしを見て……」
あの時のまっすぐとした瞳で。そうやって見てくれたらあたしは安心できるから……。
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