第6話 雪解け
翌日、由依と当たり前のように一緒に学校へ行き、当たり前のように一緒にお昼ご飯を食べ、当たり前のように一緒に帰った。
『また後でね、倉木くん』
そう言って由依は彩人と別れた。
「また後で……?」
彩人は由依が残した言葉を反芻させながら帰路についた。「また後で」とはどう言う意味なのだろうか。
家に着いたのは四時頃で、今朝干した洗濯物を取り込んだり、シャツにアイロンをかけたりしていたら五時を回った。
「そろそろ買い出しに行かないとな」
最近買い物をサボっていたせいで、まともな食材がなかった。これでは今日の夕食も明日の朝食も食べるものがない。
出かける準備をしているとピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。インターホンの画面を確認するとそこには由依が映っていた。
「え、なんで先輩が……」
「重いから早く入れて」
「あ、はい」
何が重いんだろうと思いつつドアを開けるとスーパーの袋を二つ抱えた由依が立っていた。
「はい」
そう言ってスーパーの袋を渡され、由依はお邪魔しますと言いながらさっさと家に入っていく。
呆気に取られながらもなんとか正気に戻った彩人がようやく口を開く。
「先輩、なんで僕の家知ってるの?」
「凛ちゃんに聞いたのよ」
手を洗いながら由依が答える。この調子だと他の余計なことも言ってそうだなと思いつつも一応納得する。
「それで、なんのご用で?」
「夕ご飯はどうするつもりだった?」
「今から出かけて食材を買いに行くつもりでしたが……」
「そう、ならちょうどよかった。今から作るから待っててくれる?」
「え、作ってくれるんですか」
「そう言わなかった?」
まさか由依が自分のために夕飯まで作ってくれるとは。彩人は単純に驚きを隠せなかった。それと同時に、自分にここまでしてくれる理由が見当たらないので、軽い恐怖も覚えていた。
「……毒とか盛りません?」
彩人がそう言うと、
「あなたは私のことなんだと思ってるの……」
と、呆れと軽蔑を孕んだ視線と共に由依が言った。
「美人な先輩が急に押しかけてきてご飯作ってくれるっていうんですから怪しさ満点なんですって」
「はあ……。まあいいわ、とりあえず作るから座ってて」
「あ、いえ、僕も手伝います」
さすがに由依だけにやらせるわけにはいけない。そう思った彩人は手伝うことを志願したが、
「あなたは待っているのが仕事、わかった?」
と、凄みのある声でそう言われて彩人は「はい」と言うしかなかった。
トントントン。
ザクザク。
グツグツ。
何かを切る音、何かを煮込む音、そんな音たちがキッチンから聞こえてくる。久しく聞いてなかった音だ。家族で暮らしているときも両親ともに帰りが遅かったので、自分で料理することが多かった。
寂しいと思ったことはあまりなかったが、他の一般的な家庭の食卓がテレビで流れると少しだけ虚しい感情を覚えていた。
だがそれも中学生までの話で、高校生になって一人で食事を食べることが当たり前になった今、そう思うことはなくなった。
彩人がそんなことを考えていると由依が食器を運んできた。
「そろそろできるわよ」
「すみません、ちょっとぼーっとしてて。運ぶの手伝います」
「ありがと」
食器を運ぶのを手伝い、二人とも席についた。
「肉じゃがは、あざとくないですか?」
食卓に並んだのは、肉じゃが、ほうれん草の胡麻和え、味噌汁に白いご飯という和食の中の和食で、これまたシンプルで美味しさに差が出るラインナップである。
「後輩の男の子の家にご飯作りに行くなら肉じゃがって相場が決まってるのよ」
「それどこ情報ですか……」
「まあなんでもいいじゃない、早く食べて」
「じゃあ遠慮なく、いただきます」
一口食べると、昔肉じゃがを作ってもらった懐かしさが彩人を包み込んだ。お肉はホロホロでじゃがいもはホクホク、にんじんも柔らかく食べやすくて味が染み込んでいる。まさにお袋の味だな、と彩人は思った。そして間違いなく今まで食べた肉じゃがの中で一番美味しい。
「毎度過去一を更新してくるのやめてくれません?もう肉じゃが自分で作れませんよ」
「気に入ってもらえて何より」
そう言って由依が微笑む。
こうして誰かと食卓を囲むのはいつぶりだろうか。
由依の料理が美味しいというのもあるが、人と食べるのはこんなにも美味しく感じるものなのか。
久しく抱いていなかった感情が彩人の心を温める。
その感情がなんという名前なのか彩人にはまだわからない。
それでも確かにその感情は彩人の中に芽生え始めていた。
涙が流れるまで、そう時間はかからなかった。
「倉木くんはよく頑張ったと思うわ」
そう言って由依は彩人の手を握った。
「小さい頃から全部一人でやってきて、なかなかできることじゃない」
由依の言い方は優しかった。普段の厳しさからは想像もつかない、彩人を包み込むような優しい言い方だった。
「あなたは偉い、頑張ったと思う」
ずっと誰かに言って欲しかった言葉。
求めていた言葉。
誰かに褒めて欲しくて全部一人でやってきたわけじゃない。そうするしかなかったからやってきたのだ。
それでも心の奥底で何かがすり減っていくのを感じていた。
すり減っていくばかりでそれが回復することはない。
いつの間にか彩人は感情を押し殺していた。
これ以上すり減ることのないように。
だからこそ、由依の言葉は響いた。
なぜだか許してもらえたような気分になった。
由依の優しさはどこまでも彩人の荒んだ心を包み込んだ。
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「すみません、もう大丈夫です」
そう彩人が言うと由依は「そう」と言って手を離した。結局彩人が泣き止むまで握り続けてくれた。
「夕飯、冷めちゃったわね。温め直してくる」
「僕も手伝います」
そうして温め直したご飯を食べ、洗い物を済ませたところで彩人が言った。
「それにしても先輩、一人暮らしの男子高校生の家に一人で来るなんてなかなかチャレンジャーですよね」
「な、なによ」
「大方凛に『あいつチキンだからなにもできませんよ』とか言われたんでしょうけど」
凛のことだ、有る事無い事吹き込んでいるに決まっている。
「正直さっきのがなかったら何かはしてましたね」
「な、何かってなによ!」
「何かは何かです」
真顔でそう言うと由依が真っ赤な顔で持っていたタオルを投げてきた。
「なに考えてんのよ!バカ!変態!」
「なるほど、先輩は激しめのをご所望でしたか」
「そんなわけないでしょ!もう!知らない!」
少しからかい過ぎてしまったのか、由依の機嫌を直すのに少々時間を取ってしまったが、なんとか許してもらえた。
「もう大丈夫みたいね」
由依が呆れたような言い方で少し笑いながら言う。
「はい、ご迷惑おかけしました」
「それで、美人な先輩に夕飯を作ってもらって少しは部活に入らない理由を話す気になったかしら」
そうだ、由依はそれを聞くためにわざわざ来たのだ。彩人は今更のように思い出した。
「……正直、迷ってるんです」
「迷ってる?」
「はい。先輩になら言っていい気もしてるんです」
由依は無言で見守る。
「でも、先輩と僕ってまだ知り合って一週間も経ってないじゃないですか。それなのに一年以上付き合いのある奴らにも話していないことを話してもいいのかなって、そう思ってしまうんです」
「……なるほどね」
知り合って数日の異性の後輩をここまで気にかけてここまでしてくれる人なんてそうそういないだろう。そんな人にも話していいのか悩んでいる自分に腹が立つ。
「倉木くんは、人に頼り慣れてないんだと思う」
由依が発したのは怒りでも悲しみでもない慈しみの言葉だった。負の感情をぶつけてもおかしくない場面なのに由依はどこまでも自分のことを案じてくれている。ますます自分が情けない。
「小さい頃からなんでも一人でやってきて、周りに頼りたくても頼れない場面が多くて、だから自分でやるしかなくて」
彩人は黙って聞いていた。
「だから、人に頼っていい場面に出くわしても躊躇するのよ。頼り方を知らないから」
由依は続ける。
「もっといろんな人に頼っていい。親が難しかったら友達でも先生でも、もちろん私でも」
悪戯っぽく微笑む由依を見て、彩人はこの人には敵わないなと思った。
「というわけで週末付き合いなさい」
「今の話の流れからどうしてそうなるんです?」
「私のこともっと知ってもらうために決まってるじゃない」
「決まってるんですね……」
「ついでに連絡先もね」
「もうお好きにどうそ」
さっきまでの優しいモードから一転、女王様モードに戻ってしまった由依に翻弄される彩人だった。
夜もだいぶ遅くなったので、由依を駅まで送ることにして、一度家を出る。駅に着くまでは他愛もない話で盛り上がっていた。
由依のことを駅まで送って家に帰るともう十時を過ぎていた。
「だいぶ濃い時間だったな……」
誰かと食卓を囲むことも人前でなくことも久しぶりの経験でなんだか落ち着かない気分になっていた彩人は、寝る準備を終えるとすぐ寝てしまった。
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