第3話 水車と深夜、それぞれの想い
◇水車3
敗戦からしばらくの間は、世界中が混乱していた。
カタツムリは人類に完全菜食主義を強制した。動物への虐待も禁止した。戦争に負けた人類にそれを拒むことはできなかった。
菜食主義にはいくつかの段階がある。肉や魚を食べないが、卵や乳製品は食べるゆるめのベジタリアン。卵はもちろん、乳製品やはちみつも食べない厳格なベジタリアン。さらに食事はもちろんのこと、衣食住すべてにおいて動物起源のものを避ける完全なベジタリアン。毛や革の製品は作らないし、使用しない。カタツムリが人類に要求したのは完全なものだった。
世の中は急激な転換を余儀なくされた。
畜産業は壊滅した。漁業は滅びた。もちろん肉屋と魚屋はすべて廃業に追い込まれた。乳製品を作っていたさまざまな会社が倒産した。毛皮のコートやウールの服や革靴が世界から消えた。多くの食堂が閉店した。続けたければ完全菜食の店に生まれ変わるしかなかった。
そして僕は、そんな世界で新しく食堂を開こうとしていた。
大学には行かない。完全菜食主義の食堂を作って生きると家族に向かって宣言した。
父はいいともだめだとも言わなかった。小さな水道工事の会社を経営している父は、僕に跡を継げと言ったことはない。無口で本音がわかりにくい人だ。母が死んでから、無口さに拍車がかかっている。
「がんばって、お兄ちゃん!」
妹は単純に応援してくれた。
「これからも料理は全部僕が作るよ。美味しい野菜料理を研究したいんだ」
「お兄ちゃんすごい。私、食べるよ!」
風鈴が瞳をキラキラさせて言った。少し頭が弱いが、かわいい妹だ。
「たっぷり食べて、感想を聞かせてくれ」
季節は春だった。
プロの料理人を目指すと宣言したその日、僕はたけのこと春野菜をいろいろと買ってきた。
たけのこの穂先は軽く茹で、スライスしてお刺身にした。根元はさいころに切り、油揚げとともにお米に乗せて炊き、たけのこご飯を作った。
野菜は天ぷらにしようと思って仕入れていた。うど、ふきのとう、アスパラガス、せりを揚げる。春の山菜はほろ苦くて美味しい。父と妹に揚げたてをふるまった。
「美味しい、美味しいよ、お兄ちゃん」
妹は大げさに喜びながら食べてくれた。
父は黙って食べ、お酒を飲んだ。
もちろん僕も食べた。たけのこご飯の塩気が強すぎると思った。今度はもう少し薄味にして、上品に仕上げよう。
せりには衣が厚くつきすぎてしまった。天ぷらはむずかしい。
料理を作るのは好きだ。美味しいと言ってもらえるとうれしい。
がんばって、料理の道を進もう。お金を取って家族以外の人に食べてもらうには、まだまだ修行が必要だけど。
◇深夜3
カタツムリとの戦争で私の好きな食堂は全滅した。
父とよく通った立川の焼き肉屋は廃業していた。上野のインド料理店はベジタブルカレー専門店に衣替えしていた。新宿の天ぷら屋にいたっては、街ごと消滅していた。都心は光線の集中攻撃を受けたのだ。新宿西口の超高層ビル街はもはや存在していなかった。
ラーメンも滅びた。父は蕎麦派だったが、私はラーメンが好きだった。ひとりでラーメン屋に入れる女の子は少ないが、私は平気だった。ラーメン激戦区立川には私が美味しいと思うラーメン屋が何軒もあったのだが、そのほとんどが廃業していた。営業を続けている店があっても、野菜出汁のラーメン屋に変わっていた。豚骨も鶏がらも煮干しも使っていないスープ。こんなものはもうラーメンではない、と私は思った。
私は美味しいものを求めて何日も街をさまよった。
天ぷら屋は営業しているところも残っていたが、海老天もシロギス天もメニューから消えていた。野菜の天ぷらだって嫌いじゃないけど、それだけでは嫌だった。
中華料理店では、野菜の餃子やレタスのチャーハンを食べた。何か物足りなかった。
私は入る店入る店に失望し続けた。
無性に肉が食べたかった。
もちろんどこのスーパーマーケットに行っても、デパートの地下食品売り場に入っても、肉は売っていなかった。魚も卵もないし、チーズすら売っていない。
私はすさまじい飢餓感に襲われた。この大都市東京に、私が求める食品が何もないのだ。
豆類でたんぱく質は取れるし、ごはんもパンも食べられるし、野菜や果物はどこでも売っているから、空腹になるということはない。
でも私は常に飢えていた。
カタツムリめ。どれだけ憎んでも憎み足りない・・・。
動物の虐待が禁止され、釣りも狩猟も禁じられた。野山で野生動物が増えているとニュースは報じていた。
イノシシがものすごい勢いで増殖しているらしい。山に入る方は注意してください、とアナウンサーが言っていた。キツネやタヌキやサルやシカやウサギも増えている。テンやムササビを見つけるのもむずかしいことではなくなったという。
野生動物を傷つけてはいけません。ハイキングを楽しむには厳重な注意が必要です・・・。
カタツムリのせいで、ずいぶんと時代が変わった。
今や地上の主人は人間ではない。野生動物が勢力を増している。
街や農地を動物の侵入から守るために、電気柵で囲わなくてはならなかった。その電気柵も、カタツムリに許可を得なければ設置することができない。むやみな設置は動物の虐待と見なされた。
私は思った。山に行けば動物が群れている。こっそりと肉を食べることもできるんじゃないか、と。
深い山の中で密猟ができないか、私は本気で考え始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます