26 咲実が髪を切りたいと云い出し、わたしが

    *   

 

 咲実が髪を切りたいと云い出し、わたしが家で切ってやろうかと云うと、美容院に行きたいのだと云う。

「あのね、寄付したい」

「寄付?」

「ヘアドネーションがしたいl」

 唐突な提案にわたしは咲実を二度見した。

「わたしの髪は染めたことが無いし、長さも大丈夫だと思うの。調べて欲しい」

「う、うん……。髪、切るの?」

「これくらい長ければ、ウィッグに使えると思うの」

 わたしはネットを検索し、然るべきサーヴィスを受けられる美容院を検索した。咲実は独りで大丈夫だと云い、ショートカットになって帰ってきた。

「これ、ひとふさだけ、サクちゃんに」

 渡された封筒を開け、束ねた髪を見る。つやつやと綺麗な焦げ茶色の髪。咲実の髪。

 わたしは咲実の髪の短くなったあたまを撫で撫でした。撫でくりまわした。

「ショートカットもにーあうんやねー」

「ひとの髪で遊ばんといて」

 咲実がけらけらわらった。

「サクちゃん、明日は十六日だよ」

 

 

 あ、まただ。

 思うまもなく全身が痺れて頸の脈がどくんどくんと聞こえる。金縛り。全身が浮かんでいる感覚。息苦しさ。あたまのなかをジリジリジリと侵食している金属性の耳鳴り。方向としておかしいのに、ベランダへの引き戸の、障子が見えている。障子の骨組みが、ぐにゃぐにゃに歪んでいる。天井から何か、沢山のものが垂れている。かと思うと、右の内耳で誰かが喋っている。枕元にびっしりと沢山の小さな目鼻のあるものが並んでいる。わたしの左手が、北の壁の方に引っ張られ、腰は相変わらず空中浮遊していて息が出来ない息が出来ない。わたしはいつまでこの幻覚に耐えなければならないんだろう。いつになったら、眠れるのだろう。

 ぐっすりと、どっぷりと、沼のような眠りに浸かりたかった。この夏になってからずっと、それを切望しているような気がする。

 苦しい、

 寂しい、

 厭なんだ、もう、苦しいばかりの夜は、厭だ、厭だ、いやだ──。

 

 ふいに、布団の周りにいる何かがいっせいに消え去り、白いふたつの足が立っていた。

 わたしは頸を捩じ曲げて見上げる。水色のペディキュア。白い服。

 ──サクちゃん眠れないの。

 やわらかい声がした。

 ──それは、わたしが持っていってあげるよ。

 つめたく細い指先が、両の瞼に触れた。すずやかな風がわたしの鼻腔を通り抜け、急に息が楽になった。

 ──これからはもう、大丈夫だからね。

 すぅっと風が吹く。美しい水際のように。安穏にやわらかく落ちてゆく。

 レモンのようにすずやかな空気が、全身に満ちてゆく。あたまのなかが優しく溶けるように、わたしは、深い深い深い眠りに落ちていった。

 

       

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る