26 咲実が髪を切りたいと云い出し、わたしが
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咲実が髪を切りたいと云い出し、わたしが家で切ってやろうかと云うと、美容院に行きたいのだと云う。
「あのね、寄付したい」
「寄付?」
「ヘアドネーションがしたいl」
唐突な提案にわたしは咲実を二度見した。
「わたしの髪は染めたことが無いし、長さも大丈夫だと思うの。調べて欲しい」
「う、うん……。髪、切るの?」
「これくらい長ければ、ウィッグに使えると思うの」
わたしはネットを検索し、然るべきサーヴィスを受けられる美容院を検索した。咲実は独りで大丈夫だと云い、ショートカットになって帰ってきた。
「これ、ひとふさだけ、サクちゃんに」
渡された封筒を開け、束ねた髪を見る。つやつやと綺麗な焦げ茶色の髪。咲実の髪。
わたしは咲実の髪の短くなったあたまを撫で撫でした。撫でくりまわした。
「ショートカットもにーあうんやねー」
「ひとの髪で遊ばんといて」
咲実がけらけらわらった。
「サクちゃん、明日は十六日だよ」
あ、まただ。
思うまもなく全身が痺れて頸の脈がどくんどくんと聞こえる。金縛り。全身が浮かんでいる感覚。息苦しさ。あたまのなかをジリジリジリと侵食している金属性の耳鳴り。方向としておかしいのに、ベランダへの引き戸の、障子が見えている。障子の骨組みが、ぐにゃぐにゃに歪んでいる。天井から何か、沢山のものが垂れている。かと思うと、右の内耳で誰かが喋っている。枕元にびっしりと沢山の小さな目鼻のあるものが並んでいる。わたしの左手が、北の壁の方に引っ張られ、腰は相変わらず空中浮遊していて息が出来ない息が出来ない。わたしはいつまでこの幻覚に耐えなければならないんだろう。いつになったら、眠れるのだろう。
ぐっすりと、どっぷりと、沼のような眠りに浸かりたかった。この夏になってからずっと、それを切望しているような気がする。
苦しい、
寂しい、
厭なんだ、もう、苦しいばかりの夜は、厭だ、厭だ、いやだ──。
ふいに、布団の周りにいる何かがいっせいに消え去り、白いふたつの足が立っていた。
わたしは頸を捩じ曲げて見上げる。水色のペディキュア。白い服。
──サクちゃん眠れないの。
やわらかい声がした。
──それは、わたしが持っていってあげるよ。
つめたく細い指先が、両の瞼に触れた。すずやかな風がわたしの鼻腔を通り抜け、急に息が楽になった。
──これからはもう、大丈夫だからね。
すぅっと風が吹く。美しい水際のように。安穏にやわらかく落ちてゆく。
レモンのようにすずやかな空気が、全身に満ちてゆく。あたまのなかが優しく溶けるように、わたしは、深い深い深い眠りに落ちていった。
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