第10話
エアコンでよく冷えたリビングの温度が、さらに低下した気がする。それくらい、母親の表情はこの部屋の温度を下げた。母親は、今まで私が見たことのないくらいの怒気を瞳に宿しており、それを真っ直ぐこちらに向けてくる。
「その男は、どういうつもりなの?」
「どういうつもりって……。現実的なことを考えたら、私が産んで育てるなんてことできないじゃん。」
「……。」
「彼氏も、私の将来のことを考えたときに、ちゃんと高校を卒業した方が良いって言ってくれたの。だから本当にこの子には申し訳ないけれど、諦めようっていうことになったの。」
「もし本当に百合ちゃんのことを考えてくれているんだったら、外泊をさせたりそもそも妊娠させたりする?っていう疑問はあるけど今はそれをさておき、どうしてその男はそのことの説明にうちにこないの?」
「だって私が彼氏に言ってないもん。母親がうちに来るように言ってるって。」
母親は額を押さえて大きな溜め息を吐いた。さっきから聞いていると、母親の怒りの矛先は亮太郎に向かっているようだ。そもそも、なんでそんなに亮太郎のことを悪く言われるのか分からない。
「相手はいくつの方なの?」
「26だけど。それが関係ある?」
母親はさらに大きな溜め息を吐いた。
「もうその人とお付き合いするのは止めなさい。」
「は……?」
吐き捨てるようにそう言われ、私はカチンときた。子供のことだって私と亮太郎の問題のはずなのに亮太郎だけ悪く言われて、挙句の果てに別れろ?亮太郎がどれだけ私のことを考えてくれているのか、この人には分からないのだ。
「なんでそんなこと言われなきゃなんないの?私が誰と付き合おうが勝手でしょ?」
「勝手じゃないわよ。そんな無責任な男と付き合って、誰が百合ちゃんの将来を考えているって言うの?」
「お母さんは亮太郎のことをよく知らないだけでしょ?!子供のことだって、一生背負っていくって言ってくれたもん!」
「口では何とでも言えるの。もし本当に百合ちゃんのことを好きでいてくれる人だったら、そもそも妊娠なんてさせないし、させたとしてもちゃんとうちに挨拶来るよ?」
「それは関係ないでしょ?それに、これは私と亮太郎の問題だから!本当の母親でもないくせに、首突っ込まないでよ!!!」
私がそう言った瞬間、乾いた音がリビングに鳴り響いた。左頬がジンジンと熱い。それでようやく、母親から平手打ちをくらったのだと気づく。
「暴力?サイテー。」
私はそう捨て台詞を吐いて、リビングから飛び出した。母親の顔は見ていない。自分の部屋の扉を勢い任せに開けると、クローゼットから旅行鞄を取り出して荷物を詰めた。
きっともう、私のことを大切にしてくれる人は、この世界で亮太郎しか居ないのだ。もう、この家には1秒でも居たくない。
荷物を詰め込んだ鞄を抱えて階段を駆け下りていると、母親がリビングから出てきた。
「百合ちゃん!どこに行くの?!」
「どこでもいいでしょ?!もう、あんたの顔なんて見たくない!」
「待ちなさい!」
階段から玄関へ向かうロビーで、母親から腕を掴まれた。離そうと腕を揺さぶるけれどびくともしない。
「痛い!離して!また暴力?!」
「離さない!!!」
般若のような形相の母親を初めて見た。これまで私の事をほったらかしにしてきたくせに、なんで今回はこんなにしつこいのか分からない。
玄関前のロビーで押し問答をしていると、玄関の扉が開いた。樹が帰ってきたのだ。彼は私たちの揉み合いを初めて見たためか、口を大きく開けて立ち止まっている。
「樹!お姉ちゃんを家から出さないで!」
母親の言葉に身体を動かされた樹は、玄関の扉の鍵を閉めた。そして両目に力を込めて、真っ直ぐ私を見つめて通せんぼをしてくる。その刹那、私は彼のことが憎くなった。
可愛くて可愛くて仕方のないはずの弟の樹なのに、何も知らずに私を責め立てる彼の瞳に、私は憎しみを覚えたのだ。
不倫の子供のくせに。あんたができたせいで、私のお母さんは苦しんでいたかもしれないのに。
「もう、離してよ!」
掴まれていなかった方の手で鞄を振り上げ、私はそれを母親にぶつけた。怯んだ母親は、私の腕から手を離す。それを見かねた樹が今度は私の腕にしがみついたけど、小学生の樹と私じゃまだ力の差が知れている。
私は一瞬で樹を吹き飛ばし、彼は玄関で尻餅をついた。母親は咄嗟に樹へと駆け寄った。そして、私はそんな二人を見下げながら言う。
「うちの父親と不倫して樹までつくったあなたに、私のことをとやかく言われる筋合いないから。」
「え?!」
母親が驚いて目を大きくしている間に、私は玄関を開けて外に駆けだした。背中で「百合ちゃん待って!」という母親の声と、樹の大きな泣き声が聞こえてきたけれど、私はただひたすらに走った。
息切れをした。それでも私は一心不乱に走った。亮太郎さえ傍に居てくれるならもうそれでいい。高校を卒業してほしいって彼が言ってくれたから、鞄の中には制服を押し込んできた。
高校くらい自分で卒業してやる。バイトだってしてるし、奨学金とかもらえばなんとかなるはずだ。それよりももう、あの家に帰りたくなんてない。あの人たちと一緒に居ると、自分が惨めになるばかりだ。生まれてきたことを否定されているようだ。
傾き始めた太陽が照り付ける中、どれくらい走ったのか分からない。気づいたときには、亮太郎のアパートの前に立っていた。せっかくシャワーで洗い流したはずの汗が、尋常じゃないくらい噴き出ている。
何も連絡せずに亮太郎の家へと来てしまったけれど、彼は今仕事中のはずだから大丈夫だろうと思ったけれど、黒のヴェゼルが停まっているのが目に入った。あれ?亮太郎って今、仕事中だよね?それとも、休憩中に帰ってきたのだろうか?
合鍵で玄関を開けることもできるけれど、亮太郎が中に居るなら呼び鈴を鳴らすのがマナーだろうと思いブザーを指で押した。すぐに出てきてくれるかと思いきや、玄関へと近づいてくる気配すらない。寝ているのかなと思い、もう一度ブザーを押す。
すると今度は玄関へと近づいてくる人の気配がした。それでほっとしたのも束の間だった。
「はい。」
「え?」
出てきたのは、矢野さんだった。矢野さんも私が突然訪ねてきたことに、驚きを隠せていない。なぜ、こんなに驚いているのだろうと嫌な直観が働く。
「亮太郎は……。」
私がそう言うと、矢野さんは「あー……。」と歯切れの悪い言葉を出した。いつもはオールバックにしている矢野さんの茶髪は降ろされている。そして、亮太郎の家だというのに、なぜか矢野さんは下はパンツ1枚で、上は裸にシャツを羽織っただけの格好だ。
頭の中でガンガンと警鐘音が鳴る。きっともう、ここは大人しく帰った方が良い。ここで踵を返さないと、取り返しのつかないようなことになる気がする。でも私は、どうしても「じゃあまた」と言うことができなかった。
だってもう私には、亮太郎しか居ないのだ。
矢野さんの身体しか見えないほど開けられた玄関の扉に手を伸ばして、ぐいっと身体を部屋の中へと近づけると、部屋からは強い香りが漂ってきた。そして、乱れた声が聞こえてくる。
「いや、百合子ちゃんは、今日は帰った方がいいかも……。」
花瓶の中でしおれた花のように力の無い声を出す矢野さんは、いつもと違う。まるで、自分が全部悪いとでも言いたいような顔だ。
「亮太郎、中に居るんですよね?」
力強くそう言うと、矢野さんは身を乗り出して私が部屋の中に入ることができないように立ちはだかった。それが余計に、私の猜疑心を刺激する。
「百合子ちゃんは目にしない方がいい。」
「でも、聞こえてますけど。」
「……それも含めて。聞いただけならまだ確信にならないでしょ?」
部屋の中から、強いほうじ茶のような焦げ甘い香りがする。たまに亮太郎の部屋で嗅ぐことのあった匂いだけれど、今日はそれと比べ物にならないくらいの強さだ。
「……分かりました。帰ります。」
そう言うと、一瞬だけ矢野さんの身体の緊張が弛んだ。私はその隙を逃さずに、ぐいっと身体を玄関の扉の隙間へと押し込め、するりと部屋の中に入った。「百合子ちゃん!」と焦った矢野さんの声を背中に聞きながら、ベッドのある方へと足を進める。
キッチンと部屋を隔てている扉を開けると、そこはさらに強い匂いが充満していた。テーブルの上には、葉巻のような吸い殻が転がっている。そして、ベッドの上には獣と化した亮太郎と、矯正をあげている美琴が居た。
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