第8話

 母親に亮太郎を家に連れてくるように言われてから、私は何と答えて自分の部屋に戻ったのか分からない。途中、樹に声をかけられたような気がするけど、空返事をして部屋に籠った。


 今、自分がどういう感情なのか分からない。いざ、お腹の中に子供ができていると知っても何も実感がないし、これからどうしたらいいのかさえ分からない。あんなに、高校中退する覚悟があると思ってきたけれど、怖くて震えている。


 高校を中退することが怖いんじゃない。これからの自分がどうなってしまうのかが怖い。でもとにかく、亮太郎に話をしなければいけない。


 私は亮太郎と明日会う約束をして、眠れない夜を過ごした。






 次の日の学校は、本当にだるかった。朝から行くのもだるかったから、昼から行った。それでもだるかったから、保健室で過ごした。保健室に私の様子を見に来た定年間近の担任からは、「そんなんじゃ留年するぞ」と小言を言われて、さらにだるかった。


 保健室で休んでいる私を心配するどころか、小言を言っていくなんてまるで本当にうちの父親と一緒だ。こっちがどうしてそうなっているのかなんて、全く考えようともしてくれない。


 別に、たださぼっているように見えるのであれば、それでいい。誰にどう思われようと、どうだっていい。


 放課後になると、亮太郎が車で迎えに来てくれた。私がだるそうにしていたから、「体調悪いのか?」って心配してくれた。それだけで、少しだるさがなくなった。


 コンビニで夜ご飯を買ってから、亮太郎の部屋に行った。玄関に入ると、風が通り抜ける。


「あれ。窓開けっぱで出てきてたの?」

「ああ、うん。空気の入れ替え。」


 今日は仕事が休みの亮太郎。部屋の掃除でもしていたのかもしれない。そういうところを見ると、結婚してもちゃんと家事とかもしてくれそうだよなあなんて思う。


 いつものように二人でまったりしながら、時間を過ごす。ただいつもと違うのは、そういう空気にならないようにすることだ。いつもなら亮太郎とイチャイチャタイムに突入することが多いけれど、今日はそういうわけにはいかない。だから、少しだけ亮太郎との物理的な距離をとりつつ、でも不自然じゃない位置で過ごすという何とも疲れる動作を繰り返した。


 そして、どのタイミングで亮太郎に話を切り出そうかと伺っているうちに、二人ともお風呂まで入り終わってしまった。後はもう、寝るだけだ。このまま二人で一緒にベッドへと入ってしまったら、いつものように始まってしまうことは明白だ。


「寝る前に、大事な話があるんだけど。」

「ん?どうした?」


 私のただならない雰囲気を察してか、亮太郎はソファーに座って居る私の隣に座ると、優しく肩を抱き寄せてくれた。


「……生理がきてないの。」


 俯いたままの私がぽつりとそう言うと、私の肩にある亮太郎の手がぴくりと反応した。驚かせるのは分かっていたけれど、その先の反応が怖い。


「……まだ病院には行ってないけど、妊娠検査薬は陽性だった。」

「そっか……。一人で悩ませてごめんな。」


 亮太郎はそう言うと、優しく抱きしめてくれた。お風呂上りの石鹸の香りと、彼の香りが混ざって私の鼻をくすぐる。優しくて泣きたくなる香りだ。


 言葉にならずに、首を振って「そんなことないよ」っていう意志を伝える。亮太郎は大きな掌で私の頭をゆっくりと撫でた。


「お金は俺が用意するから心配するな。一緒に病院に行こう。」

「亮太郎……。」


 彼の優しさに、私は瞳が潤んだ。普段泣くことなんて本当にないけれど、この時ばかりは、自分が思っている以上に不安だったんだと感じた。


「今日はこうして寝るかあ。」

「うん。」


 鼻をくすぐりあった後、ベッドへと移動してお互いがお互いを抱きしめる。そして、私と亮太郎の間に私たちの子供が挟まれているのかと思うと、なんだか変な感じだ。


「明日にでも病院に行くか。学校休めそう?」

「明日?」

「早い方がいいだろ?」

「そうだね。」


 まずは、病院に行かないことには始まらない。早速予定を立ててくれる亮太郎に頼もしさを感じる。この人となら、自分の人生を任せても良いかもしれない。亮太郎と結婚すれば、きっと幸せになれるはず。


 昨晩が嘘のように、亮太郎の胸の中で安心して眠ることができた。






 朝起きると、私は学校に電話した。具合が悪いから欠席すると伝えると、担任からは「さぼりじゃないだろうな」と言われた。少しむっとして「だったら連絡しないし」と私が言うと、「それもそうか。お大事に。」と言われて電話が切られた。


 デリカシーのないやつと朝から接していらいらする。ただでさえ、産婦人科に行くのに緊張しているというのに。私がスマホを睨みつけていると、亮太郎が「朝飯食べるぞ」とトーストとスクランブルエッグとサラダを準備してくれた。


 それを食べるだけで、あんなにいらいらしていた気持ちがすっと消えた。亮太郎は私の心の拠り所だ。


 朝ご飯を食べて身だしなみを整えると、私と亮太郎は産婦人科へと向かった。亮太郎が友達に聞いて良い産婦人科を紹介してもらったらしく、地元からは少し離れたところだったから、そこは少しだけ安心した。


 地元の産婦人科に行って知っている人に会ってしまったら、どんな噂を立てられるか分かったもんじゃない。


 車を走らせること30分くらいで、その産婦人科には到着した。中を覗くと、私のイメージしていたものとは少し違った。お腹の大きな人がたくさん居るのを想像していたけれど、ここには私みたいにまだお腹の目立たない人が多いようだ。


 一人でこの病院に来ている人も居るし、私と亮太郎みたいにパートナーと一緒に来ている人も居る。それを見ただけで、なんだかほっとした。妊娠したのって私だけじゃないんだって思えた。


 受付をして待合室で15分くらい待つと、私だけが診察室に呼ばれた。検査とかをするから、亮太郎は診断のときに呼ぶらしい。一人で検査を受けることに不安があるけれど、亮太郎が「大丈夫」と笑顔で言ってくれたから、私は意を決して検査を受けた。


 検査は初めてのことばかりで戸惑いの方が大きかった。尿検査はあると思っていたけれど、触診や超音波検査があるなんて知らなかった。女性のお医者さんだからなんとか受けることができたけれど、どうして誰も教えてくれないんだろう。


 一通りの検査が終わってから、亮太郎と一緒に診察室へと呼ばれた。うちの母親と同じくらいの年齢のお医者さんは、髪を1つに結っており、切れ長の目が涼やかで特徴的だ。白衣がとても似合っている。


 診察室の椅子に私たちが並んで座ったことを確認すると、お医者さんは私たちに向き直ってにこっと笑顔を浮かべた。


「検査をしたところ、妊娠9週目です。」


 それを聞いた瞬間、なんとも言えない感情が自分の中に湧き上がってきた。嬉しい気持ちとは違った高揚感と、どうしたら良いのか分からない不安感。そして、自分の身体の中に新しい命があることの不思議感だ。


「そうですか。」

「どうなさいますか?」

「中絶でお願いします。」

「彼女さんは?」

「えっ。」


 あまりにも自然な流れだったため、私は理解ができなかった。亮太郎もお医者さんも穏やかな表情をしている。だから聞き間違いかと思った。


「人工妊娠中絶。よく、考えられているかな?」

「中絶……。」


 出産のことも考えられていなかったけれど、中絶のことも考えられていなかった。ただただ、この妊娠をどうしたらいいのかとしか思っていなかったし、まさか亮太郎が中絶を望んでいるとも思わなかった。


 あんなに優しく包み込んでくれたのに、どうして?


「彼女さん、中絶のこともよく分かっていないようだから、1から説明しますね。」


 その後、お医者さんは丁寧に妊娠出産のことや、人工妊娠中絶のことを話してくれた。私はその話を聞いていたけれど、もう心ここにあらずだった。


 そのお医者さんの話の中で分かったことは、この病院自体が妊娠中絶を主に行っているクリニックであるということだ。亮太郎がここに連れてきたということは、そういうことであると烙印を押された気持ちになった。


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