第3話
「あ」
「ギャビ?」
投石を外した井尾は、その石が飛んできた方を見たゴブリンと視線が交わる。
そうしてお互いが数秒沈黙し……
「う、うおおおおおおおおっ!」
そんな沈黙の中で、真っ先に我に返ったのは井尾。
井尾と視線を合わせていたゴブリンも一瞬遅れて我に返り、手に持っていた木の枝を井尾に向かって振るってくる。
……なお、残りもう一匹のゴブリンは鹿のモンスターの死体を殴り続けるのに集中しており、井尾の存在にも全く気が付いた様子はない。
井尾にしてみれば不幸中の幸いといったところだろう。
ゴブリンが自分に向かって振るってくる枝の一撃を、井尾もまた近くに置いてあった枝で受け止める。
そうして受け止めれば、ゴブリンの一撃は井尾よりも威力が低い。
これは井尾の身体能力が高いのではなく、単純にゴブリンの身体が小さいからこそ、総合的な力では井尾が勝るといった形になったのだ。
茂み越しに枝で殴り合う……という表現をすれば、どこか間の抜けた光景にも思える。
だがそれをやっている井尾は、自分が殺されないようにするために真剣であり……だからこそ、枝をバランスの崩したゴブリンの頭部に思い切り振り下ろす。
ボグッ、という鈍い感触が枝越しに伝わってくる。
恐らくゴブリンの頭蓋骨を砕いた感触だろうと思うと一瞬だけ嫌な気分に襲われたものの、水晶に強化された精神のおかげと、何よりもまだゴブリンが一匹残っていることからそのことを考えるような暇はない。
「う……うおおおおおおおおおおおおおおおおっ! 死ねぇっ!」
二匹のゴブリンを倒し、最後の一匹となったゴブリン。
そのゴブリンは未だに石で鹿のモンスターの死体を殴っていたものの、さすがに自分のすぐ近くで大声が上がるとそちらに気が付き、振り向いた瞬間、その頭部には井尾の振り下ろした枝が叩き込まれた。
「ギャッ」
そんな悲鳴と共に倒れるゴブリン。
そして三匹のゴブリンが死んだのを確認した井尾もまた、その場に座り込んで荒く息を吐く。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
水晶のおかげで、ゴブリンを殺すという行為に罪悪感はない。
罪悪感はないものの、それでも生まれて初めての命懸けの戦闘であった以上、井尾もかなり精神的な疲労を覚えていた。
そのまま数分。
ようやく息を落ち着いてきたところで、井尾は目の前に存在する三匹のゴブリンの死体と、鹿のモンスターの死体を見る。
「魔石とかを取り出すにも、解体しないといけないのか。……そっちの鹿のモンスターも」
当然ながら、井尾は動物の解体をしたようなことはない。
以前TV番組で猟師の特集を見た覚えがあったが、それも多くの場所を省略されており、目の前のモンスターの解体の役には立たなかった。
ましてや鹿のモンスターはともかく、ゴブリンは小さいとはいえ人型のモンスターの死体だ。
そうである以上、解体は自分で考えながらそれを行う必要があった。
「解体するのは……これしかない、か。けどこれって本当に解体出来るのか?」
地面に落ちている錆びた短剣を目にし、そう呟く。
錆びている以上、研ぎ直すといったような真似をしなければ普通に使うのは難しそうだ。
とはいえ、研ぐといったような真似は井尾もほとんどしたことがない。
経験としては、料理で使う包丁を皿の裏で研ぐといったような真似をしたことがあるくらいだが、そのような経験が現在の状況で役に立つ訳がない。
「取りあえず……死体のことはあとでどうにかするとして、水でも飲むか」
嫌なことは後回しにし、川の水を飲む。
本来なら川の水をそのまま飲むのは非常に危険だ。
しかし、鹿のモンスターやゴブリンがここにいたということは、恐らくこの川は水場として使われているのだろうと判断するのは難しくはない。
また、初めての命懸けの戦闘によって緊張し、喉が渇いているのも事実。
そのまま掌で水を掬い、飲んでみる。
「美味い」
自分で思っていた以上に緊張して喉が渇いていたのだろう。
井尾が一口飲んだ川の水は、ただの水といは思えないほどに美味く感じた。
井尾は日本の東北の田舎街に住んでいた。
田舎だけに、水道水は都会の水よりも美味いというはな聞いたことがあったが、井尾はそれを自覚したことはない。
つまり、美味い水というのが当然となっていた井尾だったが、そんな井尾が飲んでもこの水は美味いと素直に思えたのだ。
そうして気が付けば、一口二口ではなく何度もその水を飲んでいた。
生水を飲んで腹を壊すといったようなことには全く気が付かないまま水を飲み続け、そして満足したところで顔を上げる。
「ふぅ。……綺麗な場所だよな」
季節的に春くらいなのか、山の木々には青い葉が茂っており、太陽の光で薄らと煌めいているようにすら見える。
川の流れる音が耳に心地よく、それこそここはリラックスするにはちょうどいい場所だった。
……ただし、近くにゴブリンや鹿のモンスターの死体がなく、鉄錆臭が周囲に漂っていなければの話だが。
そんな四匹のモンスターの死体が、この場所の光景を台無しにしていた。
「いつまでもこうしている訳にはいかないか。まずは……うん、鹿のモンスターの方を解体した方がいいな」
新鮮な死体という意味では、井尾が殺したばかりのゴブリンの死体の方が新鮮だろう。
しかし、どうせ肉を食べるのならゴブリンではなく鹿の肉を食べたいと思うのは人として当然だった。
「とはいえ、どうやって解体するかだな。……やっぱりこの短剣しかないんだよな」
はぁ、と息を吐きながら、井尾は短剣を手にする。
「えーと、本来なら川の水で死体を冷やす……んだったか?」
日本にいたときに漫画か何かで得た知識だったものの、鹿のモンスターはかなりの重量がありそうなのは間違いない。
「今にして思うけど、ゴブリンが三匹でどうやってこの鹿のモンスターを殺したんだろうな?」
井尾が知っている知識――主に日本で読んだ漫画とかが元ネタだが――では、ゴブリンというのは大抵が最弱に近いモンスターだ。
とてもではないが、このような巨大な鹿のモンスターと正面から戦って勝てるとは思えない。
「そうなると、罠とか? いや、それっぽいのはない。……とにかく、まずは解体をするか」
今はまだこの世界に転移してきてからそこまで時間が経っていないので、空腹という訳ではない。
先程水を飲んだのも空腹を感じないことに多少は影響しているのかもしれないが。
ただし、この山から下りるにも下りようと思ってすぐに下りられる訳ではない。
そうなると、やはり食料はあればあっただけいい。
「問題なのは、これをどうやって食うかだよな。……くっ、硬い……」
取りあえず錆びた短剣を使って、鹿のモンスターの足を切断しようとする。
やはりもも肉といったような場所が一番食べ応えがあると判断したからなのだが……同時に、内臓は度重なるゴブリンの攻撃によって完全に潰れており、裂けた皮膚や肉から半ば液状に近い状態になった内臓が漏れ出ているのが見えたから、というのも大きい。
心臓付近にあることが多い魔石も、この様子では恐らく内臓と一緒に破壊されているだろう。
そう判断したために、取りあえずそこまで傷を負っていない足の部分から切断しようとしたのだが、肉や骨以前に体毛と皮が硬い。
これで実は短剣が錆びていなければ、もしかしたらあっさりと切れたのかもしれない。
しかし錆びている短剣は当然のように切れ味が悪く、切るというよりは叩き切るといった感じで何とか解体をしていく。
本来なら皮を剥いでから肉を切断するのだが、井尾にはその辺の知識がないので、余計に解体が難しくなっていた。
それでも何とか鹿のモンスターの死体と格闘すること、数十分。
半ば力づくではあったが、ようやく鹿のモンスターの足を切断することに成功する。
「いまさらだけど、この錆びた短剣で切断して大丈夫なんだよな? というか、一体どうやって食うかも問題か」
ライターやマッチといった代物を持っている訳ではない以上、井尾がこの肉を食べる方法としては生で食べるしかない。
食べるしかないが、そのような真似をすれば高確率で腹を壊すだろう。
とはいえ、餓え死にしないためにはその肉を食べるしかない。
あるいは木の実や果物、山菜、野草……といったような食材を調達するしかないが、山にあまり詳しくない井尾としては、どれが食べられるのかどうかは分からない。
ましてや、食材と思しき植物があってもそれが地球と同じとは限らない以上、食べるのには勇気がいる。
そういう意味では、鹿のモンスターもまた同様に地球と同じように食べられるとは限らないのだが。
「それでも、やっぱり試すのなら肉の方がいい……って、マジか!?」
肉を確保したのはいい。
だが、もっと多くの肉を確保するべく鹿の解体を進めようとした井尾だったが、遠くの方から走ってくる数匹のゴブリンの姿を見た瞬間、鹿の足を持ったままその場から逃げ出す。
「ギギギ、ギャギャギャ!」
井尾が逃げ出した光景を見て、ゴブリンたちもその存在に気がついたのだろう。
逃げた相手ということで、それが自分たちの方が強者だという認識になり、本能に突き動かされるように井尾を追う。
とはいえ、ゴブリンの身体は小さい。それはつまり足も短いということを意味しており、走る速度という点では井尾の方が勝っているということを意味していた。
……もっとも、井尾は井尾で片手に錆びた短剣、もう片手に鹿の右後ろ足の部位を持っており、何より井尾本人の身体能力は精神と違って強化されている訳ではなく、あくまでも日本にいたときと同じでしかない。
そんな訳で、実際のところは決して井尾が一方的に有利といった訳ではなかったのだが……それでもここで捕まれば井尾は自分がどんな目に遭うのかを知っているので火事場の馬鹿力を発揮したのか、無事ゴブリンから逃げ切ることに成功するのだった。
実際には、ゴブリンが鹿のモンスターの死体を見つけてそちらに意識を向けた、というのも大きかったのだが。
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