第2話
白い空間から、気が付けば井尾はどことも知らない場所にいた。
周囲に生えているのは、見たこともない多数の木、木、木。
東北の田舎で育った井尾だったので、井尾はそれなりに木については詳しい。
しかし、現在こうして周囲を見た限りでは井尾の知っている木は特に何もない。
「異世界、か。これってやっぱり本当なんだろうな。……あー……これからどうすればいいんだ?」
白い空間で水晶による精神の強化のおかげで、このような状況であっても極端に動揺したり、騒いだりといったようなことはない。
不思議なほどに落ち着いてはいるものの、だからといってこの状況で一体どうすればいいのかといった思いがあるのも事実。
「何より、どうせ異世界に転移させるのなら色々と道具も渡して欲しかったんだけど。……ステータス」
一応、本当に一応、異世界に来た身として呟く井尾だったが、ステータスの類が表示される様子はない。
その後も何とか自分の能力値を表示されるように頑張ってみるが、五分ほど頑張り続け……結局何も出せないということで、諦める。
一応水晶からある程度……本当にある程度の知識は与えられているものの、それは本当に大雑把なもので、井尾がこちらの世界について理解していないことは圧倒的に多い。
「この服も違う。……いやまぁ、日本にいたときの服装だったら、それはそれで不味いけど」
学校帰りだった以上、井尾の服装は学校の制服だった。
正直なところ、何故井尾は自分が死んだのかは分からない。
強引にインタビューをしようと思った相手が近付いてきたところで記憶が途切れている以上、恐らくそこで事故か何かに遭ったのだろうと、想像することは出来たが。
「ともあれ、この服装はいいとして……問題は杖か」
服装は動くのに特に問題がないので、山の中で動くのにも支障はない。
そういう意味では、やはり高校の制服ではなかったことに安堵する。
しかし、荷物らしい荷物は他に何も持っていない状況だ。
何よりも一番厄介なのは、井尾の才能である流星魔法を使うのに必要な杖の類がないということだろう。
流星魔法については大雑把な知識しか持っていない井尾だったが、それでも魔法を使うのに魔法発動体と呼ばれる物が必要なのは分かる。
しかし山の中に放り出されて今の井尾は、特に何も杖らしい杖は持っていない。
それはつまり、井尾の才能であり……何より、現在それしか頼りになるだろう流星魔法を使うとことが出来ないということを意味していた。
「まずは山を脱出……いや、違うな。水とか食料か?」
具体的にこの山がどのような場所か分からない以上、下山するのにどれくらいの時間がかかるのかは分からない。
そうである以上、時間がかかってもいいように食料と水を用意しておく必要があった。
(普通なら混乱してもおかしくはないんだけど、全く普通だな。この辺も……多分、あの水晶の力のお陰か)
周囲の様子を確認しながら、井尾は巨大な水晶について思い出す。
水晶によって精神や心といったものが変えられたのは、井尾も理解している。
しかし、もし日本にいたときの自分のままであった場合、今この状況でどうなっていたか。
間違いなく混乱し、泣き叫び、喚き……といったような真似をしていただろう。
あるいは絶望から自殺していた可能性も否定は出来ない。
そうである以上、今こうして自分が生きているのは悪い選択肢ではないのは間違いなかった。
「さて、とにかく水か。……それにしても、まず生き延びるというのがかなり厳しくなりそうだな」
自分を励ますためにも独り言を呟きつつ、井尾は足を進める。
とはいえ、具体的にどこに向かえばいいのかといったような目的がある訳ではない。
敢えて挙げるとすれば、やはり水のある場所……川か湖か沼といったところか。
「でも、沼の水はちょっと嫌だよな」
川や湖ならそれなりに飲める水というイメージがあるが、沼となると濁っていて、とてもではないが飲めた水ではないという認識があった。
それを言うのなら、湖や川の水も本来なら何らかの濾過をして飲む必要があるのだが。
ただ、井尾は以前山に近い場所に住んでいるクラスメイトの一人が、川の水は上流ではそのまま飲める、それどころか美味いと言っていたのを思い出す。
この山に川があった場合、そのまま飲めるのかどうかは分からないのだが……と、そんな風に考えながら歩いていた井尾の耳に水の流れる音が聞こえてくる。
「ラッキー。っていうか、あの水晶がせめて水とかには困らないように川の近くに転移させたのか?」
それが正解なのかどうかは井尾にも分からなかったが、それでも川が近くにあるというのは井尾にとって幸運だったのは間違いない。
茂みの向こう側から聞こえてくる水の流れる音に誘われて歩き出し……
「グエッ、グエッ、ギャババババ」
その足が、茂みの向こう側から聞こえてきた声に止まる。
茂みの向こうから聞こえてきたのは、明らかに水の流れる音ではなかったからだ。
何らかの生き物……それもただの鳴き声といった訳ではなく、笑い声のようにも感じられる。
そんな声を聞きつつも、井尾はその場で踵を返すといった選択肢はない。
この世界で生きていかなければならない以上、少しでも情報が欲しいというのが正直なところなのだ。
水晶から貰った大雑把な情報ではなく、あくまでも自分の目で見て耳で聞いたような、そんな情報を。
(見つかりませんように)
茂みの向こうにいる存在に見つからないようにと願いながら、そっと茂みを動かして向こう側を見る。
するとその茂みの向こうには、三匹の生き物が存在していた。
背の高さは井尾の腰程度と小さく、緑の皮膚をしており、その顔は醜い。
(ゴブリン)
井尾の頭の中に、自然とそんな単語が思い浮かぶ。
そのゴブリンたちは、手にした武器……錆びた短剣や尖った木の枝、鋭く尖った石を持ち、地面に倒れている鹿と思しき存在の前で聞き苦しい笑い声を上げては、すでに死んでいるだろう鹿と思しき相手に攻撃を繰り返していた。
鹿と思しきという表現は、地面に倒れているのが井尾の知っている鹿とは違う場所がいくつかあったためだ。
井尾の知ってる鹿は足首の周りにトカゲや蛇のような鱗を持っていたりはしない。
その様子から、恐らくモンスターなのだろうというのは井尾にも理解出来た。
(だとすれば、魔石は持ってるはずだよな)
動物とモンスターの違い。
それは色々とあるが、最も大きさ差異は魔石の有無だ。
とはいえ、モンスターの中でもゴーレムであったりアンデッドの中には魔石を持っていない種類もいるので、モンスターは絶対に魔石を持っているといった訳ではないのだが。
この辺の知識は、水晶から与えられた大雑把な知識の中にも存在していた。
そして魔石はこの世界において最大の資源となる。
日本でいう、電気や石油と同じ……あるいはそれよりもさらに重要な資源。
(とはいえ……)
茂みの中から、死んだ鹿と思しき存在に笑いながら攻撃しているゴブリンを見て、井尾は迷う。
ゴブリンの魔石が資源となるのは間違いない。
また、鹿も普通の鹿ではない以上はモンスターの可能性があり、そうであれば魔石があるだろうし、何よりも鹿肉は日本にいるときに食べたことがあったが美味かった。
食料も水もない現状、出来ればゴブリンを倒して鹿のモンスターの死体も欲しい。欲しいのだが、だからといって今の状況でゴブリンに勝てるかと言われれば、その答えは否となる。
水晶によってこの世界に転移した井尾は、当然のように武器を持っていない。
井尾の持つ唯一の才能である流星魔法も、魔法発動体……一般的には杖がない以上はどうしようもなかった。
武器を使うとなると、それこそ地面に落ちている石かその辺から生えている木の枝を折って棍棒として使うといったような手段しかない。
(あれ? これ、いけるか?)
無理だという思いからそう判断したものの、石を投擲してゴブリンを一匹、もしくは二匹を倒すことが出来れば、残りは棍棒を使ってゴブリンも何とかなるかもしれない。
(よし、やろう)
頭の中で計算し、そしてあっさりと井尾は決断する。
この辺りの即断即決も、水晶による精神強化と影響してるのだろう。
一旦茂みから離れ、地面に落ちている石を集め、棍棒に丁度いい枝を何とか折る。
本来ならもっと頑丈な枝が欲しかったのだが、そのような頑丈な枝はノコギリの類がない以上、折るにも今の井尾の力では難しい。
「折った場所は尖ってるから、武器として使えないこともない……よな?」
半ば自分に言い聞かせるようにしながらも、井尾は先程の茂みに戻る。
離れていたのは十分程度だったが、もしかしたらもうゴブリンがいなくなってるかもしれない。
少しだけそんな不安に襲われた井尾だったが、幸いなことに三匹のゴブリンは未だに鹿のモンスターの死体に攻撃を続けては、何が面白いのか笑っていた。
「ギャッギャッギャ!」
聞き苦しい笑い声に眉を顰めつつ、井尾は自分がまず最初に攻撃すべき相手を選ぶ。
ゴブリンが持つのは、それぞれ錆びた短剣、木の枝、鋭く尖った石。
そんな中でやはり一番危険なのは、錆びた短剣を持つ個体だった。
曲がりなりにも短剣は武器だ。
そして錆びているということは斬れ味が鈍いということを意味しているものの、そんな刃で切られた場合、衛生的な意味で不味い。
だからこそまずは短剣を持つ個体を狙うと決め、次に木の枝を持つ個体、そして最後に石を持つ個体。
そう判断すると、井尾は枝がすぐ拾える位置にあるのを確認し、そして石を掴むと音が出ないように注意しながら、上半身の動きだけで投擲する。
投擲された石は茂みを突き抜け、真っ直ぐゴブリンの方に向かい……そして井尾の狙い通り、錆びた短剣を持っていたゴブリンの頭部に命中する。
「グ……」
何が起きたのかも分からず、意識を失って地面に崩れ落ちるゴブリン。
他の二匹のゴブリンは、そんな仲間の姿に気が付いた様子もなく鹿のモンスターの死体に向かって攻撃を続けていた。
(よし、次!)
まだ気が付いてないうちにもう一匹。そして上手くいけば、もしかしたら三匹全てを投石で倒せるのではないか。
そんな風に思い……そして、それが井尾にとっての邪念となり、身体が力み……二度目に放たれ石は、ゴブリンに命中することなくあらぬ方向に飛んでいくのだった。
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