地下に囚われる者
その世界には広大な海を覆う三つの大陸が存在した。その中で最も古く、広大で、かつ多彩な文明が栄えるユートリア大陸は、連なる山脈から地下の大洞窟、氷の入江に至るまでを〈ヒト〉が支配していた。
ユートリア大陸の西方に位置する城塞都市アラン。その荘厳な石造の街全体には特殊な魔法が掛けられている。
都市に入るには特別な許可が必要だった。石畳の街はとうの昔に廃墟となっており、この都市に〈ヒト〉が近づくことは滅多にない。窓を塞いでいた板は朽ち果て、風が寂しく街路を吹き抜ける。
街の中心には立派な古城が立っていた。バルコニーから見える城塞の壁。白い大理石の床。城の内部では白髪の最上級魔術師が暮らしている。〈ヒト〉の世に二十人しかいない最上級魔術師の一人である彼は三年の任期で都市の警護を命じられていたのだった。
アランの城には地下へと続く秘密の階段があった。白い壁の内。暗く湿った地の底。地下の牢獄では、鎖に繋がれた老婆が横たわっている。爪や髪は無造作に伸びて捻れ、老婆の垢にまみれ皮膚にたかる蚤やウジが床を飛び跳ねた。
ヒューヒューと、か細い呼吸を繰り返す老婆は死にかけていた。もはや指の一本も動かせず、視力を失った白い瞳のみが、何かを求めるようにピクピクと左右に動いた。
彼女は人間だった頃のことを思い出していた。父と母の笑顔。大泣きする幼い弟に寄り添う犬の頬の温かさ。およそ物心ついた頃から、十五歳の誕生日を迎えるその日までの平和な日々を、彼女は何度も何度も頭の中で繰り返した。
この世界に来る前の事を彼女は覚えていない。突然現れた見知らぬ世界で訳も分からずただ呆然と座り込んでいた彼女を取り囲んだ黒いローブの男たち。放たれた声と光。全身を殴られ蹴られる痛み。目が覚めた時には既に彼女は地下の奥底で鎖に縛られていた。
以来一二八年間、彼女は地下に閉じ込められている。
憤怒の魔女と呼ばれて。
「クライン殿、あの魔女は後どのくらい生きるのだ?」
「はて、そうですな。どれほど延命魔法を駆使しようとも、もってひと月といった所でしょう」
「そうか」
城のバルコニーで優雅に紅茶を啜るゴートン・シャルナードは、街を囲む壁を遠目に眺めた。薄くなった黒髪を後ろに撫で付け、鈍色の背広を瀟洒に着こなしている。
クラインは白い髭を触りながら渋い顔をした。
「そちらの方は、本当に大丈夫なのでしょうな?」
「もちろんだ。これまで通りやればいい」
ゴートンはやれやれと肩をすくめた。城の屋根では大きな羽を折り畳んだ巨鳥の雛がギーギーと鳴いている。その黒い羽を見上げながら、クラインは不吉な予感に指先が冷たくなった。
憤怒の魔女が入れ替わるのは、およそ百三十年ぶりのことだった。当時の状況は文献でしか残っておらず、つつがなく継承を行える保証などは何処にも無い。
万が一にも失敗すれば、いったいどんな厄災がこの世に降りかかるか分かったものではない、とクラインは腹の底が冷えて固まるような圧迫感を覚えていた。
「ゴートン殿、私も継承の場に参加させては貰えないだろうか?」
クラインは懇願するようにゴートンの鋭い目を覗き込んだ。
「駄目だ、あなたにはこの城に留まり、魔女の最後を見届ける義務がある」
「しかし、彼女はもはや脅威になり得ませぬ。むしろ、これから現れる新たな魔女の方が脅威たり得るのではないのですかな?」
「脅威は現存する魔女の方だ。最後の最後にどんな厄災をもたらすか検討もつかぬだろうに。それと比べれば、新たに現れるであろう魔女など赤子に等しい」
「それはどうであろうか。新たに現れる憤怒の魔女の事を、我々は何も知りませぬ。どれほど凶悪で、抜け目がなく、狡賢い輩が来るか、分からぬではありませぬか?」
「魔女は継承時、魔法の存在も知らぬ無垢の状態で現れると文献にも書かれているであろう」
「いや、果たして本当にそうなのだろうか?」
「しつこいぞ、クライン・アンベルク。実際、九年前の暴食の魔女の継承の儀も何事もなく終えたではないか」
ゴートンは眉を顰めると、ティーカップを乱暴にテーブルに置いた。
クラインは苦い顔をして黙り込む。
「それほど心配ならば、魔女の頭を覗いて見れば良い。そうすれば、当時の継承の様子もわかるであろう。数名ならば上級魔術師をここへ送ってやることが出来るが、どうする?」
「ゴートン殿、ご配慮に感謝致します。ですが、憤怒の魔女の頭の中はどうしても覗けないのです」
「そうか、ならばこの話はもう終わりにしよう」
ゴートンはカップの底の金色の液体を飲み干した。心地良い風が東方の山脈から壁を越えて黒い髪を揺らす。
「……せめて、我が弟子を同行させては貰えんだろうか?」
クラインは顔を上げると、絞り出すように低い声を出した。
ゴートンはその頑固な老人を呆れたように見つめる。
「分かった、善処しよう」
「感謝致します」
ゴートンはやれやれと苦笑いをすると立ち上がった。
クラインも立ち上がり、慇懃にお辞儀をする。
屋根の上から二人を眺めていた巨鳥の雛は、翼を広げると青い空に飛び上がった。
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