第36話 

紫苑たちがなんとか曼珠の園に戻り夏椿の会に出向いていた頃……。


 上ノ国の妖狐の里にある月天が住う屋敷では、鬼の当主である白桜はくおうと妖猫の当主である琥珀こはくが屋敷に訪れており張り詰めたようなただならぬ雰囲気が漂っている。


しかし、当のこの屋敷の主人である月天はそんないつもとは違う屋敷の雰囲気すらどうという気持ちもなく、ただ淡々とこれから使うであろう紙面に目を通している。


「月天様、妖猫の御当主であられる琥珀様とその側近の燈惚とうこつ殿が参られました」


月天は部屋の隅に跪拝して控えている白夜の方へ視線をやる。


「琥珀は月影の間に通しておけ、くれぐれも白桜達のいる桜の間には近づけぬように」


白夜に指示を出すと月天は再び紙面に視線を落としこれから始まる会合の準備を進める。


 今日これから行われる会合は百年以上続いた鬼の一族と妖狐の一族の確執を埋める大切な話し合いだ。表向きは双方の当主共に友好関係を結ぶことに前向きな姿勢をとっているが腹の中で考えていることは違う。


白桜は紫苑の腹違いの兄であり、月天にとっては紫苑と引き裂かれる原因となった忌々しい存在なのだ。


白桜は幼い頃から神通力や妖力が飛び抜けて高く人の歳にして五歳ほどで先祖返りの神童と呼ばれていた。実際、実力も現在の七妖の里の当主の中でも三本の指に入るほど圧倒的で今、正面からぶつかるのは得策ではない。


月天は紫苑と別れる原因となった百三十年前の事件をきっかけに、いつか来るであろう紫苑を再び自分の元に取り戻す日のために策を巡らせてきたのだ。


「……長かったがこれで煩わしい全てのことが済む」


月天は手元に散らばる文字がびっしりと書かれた紙をまとめると文机の端に置き、妖狐の里の花紋が入った黒羽織を着物の上から羽織る。


月天が立ち上がるとすぐに部屋の隅に控えていた極夜が月天の後ろに付き従い、会合が行われる黒百合の間へと向かった。


◇◇◇


 訪れた黒百合の間は普段は誰も使うことがない屋敷の中でも特別な部屋だ。


部屋の中に入ると壁や障子など部屋の中にある物全てが黒で仕上げられており、床を覆う畳すら墨を溶かしたような淡い黒さを放っている。


そんな異様な部屋の中央には既に五名の妖の姿がある、一人は鬼の当主である白桜だ。


黒い畳の上に美しい線を描いて垂れる髪は見る者を惹きつけて離さないようなくすみのない白髪だ。その真っ白な髪の隙間から覗く瞳は血のような深紅をしており黒一色の部屋の中で異彩を放っている。


白桜の少し後ろに控えるのはここしばらくの間曼珠の園で色々と揉め事を起こしていた蒼紫だ。もちろん、証拠など一つも残さずに姿を消したため今日の会合で蒼紫を追求することはできない。


蒼紫も今日は本来の姿を表しており、光の加減で群青色にも見える髪を耳の下あたりでゆるく一つに結ばれている。


白桜が夜の闇を照らす月ならば、蒼紫はどこまでも全てを覆い隠すような夜の帷のような存在だ。


白桜達と向かい合うように座っているのは妖猫の当主である琥珀と燈惚だ。


琥珀は目にも鮮やかな橙色の短髪でくるりと前髪をねじり上げているため、綺麗な額が見える。


瞳は翡翠を思わせるような澄んだ緑で、誰の目でも惹きつける華やかさはこの暗い部屋の中でさえ火を灯したような感覚に陥る。


琥珀の少し後ろに控える燈惚は琥珀とは違い目立った髪色や瞳の色ではないが、普通の妖ならば卒倒してしまいそうなこの部屋の中でも穏やかな笑みを浮かべておりある意味不気味な雰囲気さえ感じる。


残り一席は月天のための席であり、部屋に月天が入ってくると既に部屋の中で白桜や琥珀の接待をしていた白夜が音もなく極夜と共に月天の後ろに控える。


月天が席につくとすぐに白夜と極夜はいくつか巻物をそれぞれの当主の前に広げて置くと月天の少し後ろに控え会合の始まりを告げる。


「本日は遠路はるばる来ていただきありがとうございます。早速ですがお手元にあります巻物に協定に関する条件等をまとめさせていただきました。どうぞご確認お願いします」


白夜が告げるとそれぞれの当主の後ろに控えていた側近たちがすぐに巻物を広げそれぞれの当主が確認しやすいように取り計らう。


協定の内容を読み声を上げたのは意外にも妖猫の当主である琥珀だった。


「ここに書いてある女鬼の売買や身請け等は一切を禁ずる、ってもし女鬼と知らずにどこかの見世が買い取って女郎として働かせていた場合はどうなるの?」


琥珀は月天に向かい悪戯っ子のような笑みを浮かべて問いかけるが、月天の側に控える白夜によってすぐに答えを返されてしまう。


「その場合は売買に至った経緯を調査し、関係者を含め処罰の対象とします。女鬼に関してはこちらで保護したのちに本人の希望に沿った対応をします」


白夜が答えると今度はすぐに蒼紫が声をあげる。


「本人の希望に沿ったとは聞こえは良いですが、実際のところは外部の者には知るよしもありませんよね?女鬼が万が一でも曼珠の園に紛れ込んだ場合はすぐに我が里に連絡し身柄を受け渡していただきたい」


白夜と極夜は紫苑のことを知っていながら何食わぬ顔で進言する蒼紫を鋭い目つきで睨みつける。


白夜と極夜が一瞬気を昂らせたのをいなす様に月天は手に持った扇子でとんとんと軽く膝をたたく。


「蒼紫殿の言うことももっとも。しかしこちらも譲歩を見せているのだ、そちらも少しはこちらを立てるくらいの度量の広さを見せてもいいのではないか?それとも当代の当主はここまで譲歩しているにも関わらず我を通すほど狭量なのか?」


月天は嘲るように口元を僅かに引き上げるとすぐに手に持つ扇子で口元を隠す。


協定の内容はほとんど鬼の一族に優位な条件ばかりだ。


そもそも鬼の一族と妖狐の一族の確執を生み出したのは月天の身勝手な振る舞いのせいだったのだから譲歩するのは当たり前とも言えるのだが……。


百年前の事件の全貌を詳しく知らない他所の里からしたらこれだけ譲歩している妖狐の里に対してこれ以上の要求をすれば今度は鬼の一族に対するあたりが強くなる可能性がある。


(さすがは妖狐の当主、私ごときの考えなど全てお見通しというわけですか……)


蒼紫が月天の言葉に反応し一瞬空気を澱ませたがすぐに白桜の声がかかり蒼紫は不穏な空気を霧散させる。


「我が配下が失礼した、協定の内容はこのままで構わない。協定の施行日は俄の初日に合わせると言うことで構わないな?」


「あぁ、俄の初日からで構わないとも。俄の二日目にある本祭には両当主とも参加していくのだろう?」


月天が琥珀と白桜の方を軽くみると両者とも頷き返す。


「俺は俄の初日から参加させてもらうよ!俄の三日間は曙楼を総仕舞いつけてんだ!」


琥珀が屈託のない笑みでそういうと後ろに控えていた燈惚がぎょっとした顔をして琥珀を見る。


「琥珀さま、三日も屋敷を空けるとなると奥方さま方がなんとおっしゃるか……」


「それはお前がどうにか上手いこと誤魔化しておいてよ、俺だってたまには羽目を外して遊びたい!」


琥珀と燈惚のやりとりを聞いて白夜は燈惚にひっそりと奥方さまへの連絡はこちらで上手くやっておきますので……と告げる。


「白桜殿は本祭の儀式の時だけ参加ということで?」


月天が白桜にそう言うと蒼紫が白桜に変わって答える。


「白桜様と私は俄の当日より曼珠の里に入らせていただきますが、公式行事に参列するのは本祭の儀式のみでお願いします」


「初日から園の中を歩かれるとなると案内が必要では?私の側近の白夜か極夜をお付けしようか?」


月天が蒼紫の提案を受け入れる素振りをしつつも、しっかり監視役に白夜か極夜をつけようとするが思いもよらない形で返される。


「ご配慮いただきありがたく思いますが、既に曼珠の園の中でも番付上位に入る見世の者に案内を頼んでいますのでお心だけいただいておきます」


蒼紫が先ほどまでと打って変わってどこか余裕のある笑みを浮かべてそう返すとすぐに極夜が口を挟む。


「それはそれは準備が早い、番付上位となると月紗楼あたりで頼まれたのですか?」


「いいえ、幻灯楼にちょうど今日正式に依頼の書状を送らせていただきました。もちろん、この協定が締結されればの話ですがね」


極夜は蒼紫から思わぬ見世の名が出てきたことで一瞬瞳を揺らすがすぐにいつも通りの表情を繕う。


「幻灯楼ですか、俄初日は幻灯楼のお職花魁は夢幻楼へ登楼することになっているので案内をするとなると夕方以降になると思いますよ?」


「あぁ、そうなんですね。詳しい時間など分かるまでは下の里にある別邸に滞在しておりますので問題ありません。ご心配ありがとうございます」


蒼紫と極夜のやりとりが終わると白夜は白桜と琥珀の方を確認して、これ以上話すことはないことを確認すると会合の終わりを告げる。


「では、この度の会合を持ちまして妖狐と鬼の一族間の協定を締結させていただきます。琥珀様と燈惚殿、証人としてのご参加誠にありがとうございました」


白夜と極夜が深々と頭を下げると廊下に面した障子戸がすーっと開き、顔立ちの整った侍女たちが白桜や琥珀を誘導する。


琥珀たちはすぐに侍女に従って部屋を出て行き、最後に残った白桜が部屋を出る際、集中していないと聞き逃してしまいそうな小さな声でぽつりと呟く。


「時は来た。妹は返してもらう」


白桜はそう呟くとそのまま振り返ることもなく部屋を出て行った。



席に座ったままの月天は最後に白桜が残した言葉を聞いて、会合の間ですら一瞬も揺らぐことのなかった妖気を昂らせ手に持つ扇子をぐしゃりと片手で真っ二つに折る。


「白夜、極夜。分かってはいると思うがあいつらに自由に園の中を歩かせるな。それと紫苑は俄の初日に召し上げてそのまま私の部屋に囲う」


白夜と極夜は久々に見る月天の静かな怒りを感じ取り一礼するとすぐにその場を後にして己に課せられた仕事に取り掛かった。

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