第42話 突然の異変
それはある日の朝、突然の事だった。
「……気持ち悪い…」
目が覚めて、一番に思ったのはそんなこと。
最近はようやく色々と落ち着いてきて、殿下のための新作を考えつつ、試作を繰り返す日々を送っていた。
ヴェレッツァの領民へ予定通りチョコレートを練り込んだ甘いパンと、チーズを練り込んだしょっぱいパン。それにビスケットを添えて配り終えて。
とても喜んでくれたと報告も来ているけれど、それだけじゃなくて。直接たくさんのお手紙がヴェレッツァ城に届いていると、毎日のように届けられている。
それを読みながら、ゆっくり紅茶を飲むのが最近の至福の時間だった。
なのに。
今は起き上がるどころか、指一本動かすのすら億劫で。
一言零したのはいいけれど、もうそれ以上言葉を発することすら出来なかった。
「カリーナ?動けるか?」
私の突然の異変に気付いたらしい殿下が、そう優しく声をかけてくれるけれど。
それに応える気力もないまま、力なく首を小さく横に振る。
「侍医を呼ぼう」
簡単に私の体に触れて外見的な異常がない事だけを確認した殿下は、すぐにそう言ってベッド脇のベルを鳴らした。
すぐに入り口の扉がノックされたと思えば、殿下がたった一言「侍医を呼べ」と。それだけを告げて。
扉の向こうの女官も、慣れた様子で「承知いたしました」と答えただけで、すぐに部屋から出ていく気配がする。
「カリーナ……触れていても、平気か…?」
心配してくれているのだろう殿下が、優しく優しく私の頭を撫でて。ゆっくりと髪を梳いてくれる。
それがどこか気持ちよくて、少しだけ気持ち悪さが和らいだ気がして。
「きもちいい……」
「そうか」
一言だけ零せば、どこか嬉しそうな安心したような声が降ってくる。
けれど、次の瞬間には。
「後回しに出来ぬ物だけ、こちらに持ってこさせるか…」
小さく小さく、独り言のように呟くから。
「だめ……」
私のせいで執務の時間を削るなんて、そんな事させたくなかった。
今は特に忙しくないとはいえ、それが殿下のお仕事でご公務で。
何よりまだ病気なのかも分からないのに、側にいてもらうのはなんだか申し訳なくて。
「だが…」
「だめ……」
小さくだけれど、確実に首を振って殿下を見上げれば。
淡い色の瞳が、心配そうにこちらを見ていて。
「……君は…変なところで強情だからな…」
けれどその顔は、今度は少し困ったように笑うから。
心配させているのも、困らせているのも、分かりすぎるくらいに理解は出来ていた。
できていた、けれど。
「なるべく早く終わらせて戻ってくる。それまでは、たとえ回復しても安静にしているように」
それでも折れてくれる殿下は、きっと私にすごく甘いんだろう。
ただ殿下のなるべくって、きっとものすごい速さなんだろうけれども。
「あぁ、そうだ。その代わりにカリーナ。一つ、約束しておくれ?」
「…?」
首を傾げる私に、殿下はサイドテーブルから何かを手に取って。
一つ一つ、小さなプレートを私に見せながら説明してくる。
「何か重大な問題が発生したときには、赤を。問題はないが体調が戻りそうにない時は、銀を。それと……」
何のことかと、先ほどから首を傾げ続ける私に。殿下は一度言葉を区切って。
そっと摘まんだ青いプレートを、私の手に握らせた。
「もしも……もしも何か喜ばしい事であれば、この青を。窓辺にいる小鳥に渡して、私の元へ届けるように」
小鳥……。
それは、陛下の能力ですよね?
手紙ではなく、そういった連絡手段があったんですか?
「兄上がいるからこそ、出来る事だ。私と兄上、それに母上と…今は義姉上も使っている。カリーナの分は、今度新しく作らせよう。基本私と共にいる事が多いからと、つい後回しにしてしまっていたな」
言葉にしなくても目線で伝わるのが、これほどありがたいと思ったことはない。
それと後回しになっていた理由は、たぶんそれだけじゃないと思うんですが…。
たぶんその辺りは殿下の優しさなんだろう。今それを追求する必要もないし。
なので私は頷くついでに目を伏せて、一つだけ手渡しされた青いプレートを両手で握りしめる。
この時の私は、たぶん頭も全く回っていなかったんだろう。
窓辺にいる小鳥たちに、私からのプレートは殿下のところに届けるようにと伝えている背中を見ながら。
そんな姿すら絵になるなんて、本当に綺麗な人だなぁ、なんて。
どうでもいい事を思っていたんだから。
どうして殿下が、わざわざ青いプレートを。
"喜ばしい事"があった時にしか、殿下の手に渡るはずのないその色を。
私の手に、握らせたのか。
その意味を、考える事すらしていなかったのだから。
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