第32話 拒絶と忠誠
「ここが、薄氷の英雄が降り立ち、そして自らの世界へと帰って行った場所か……」
感慨深そうに呟く殿下は、一度地面に触れたかと思えば。そのまま立ち上がって、はるか遠く。きっと空のさらに向こう。見知らぬ英雄様の世界へと思いを馳せたのだろう。
私にとって英雄様は、ある意味で伝説の中の人であり物語の中の人。現実味が全く無いとは言わないけれど、それでも殿下よりはきっと身近には感じられていない。
たとえ私の中にも、英雄様の血が流れているのだとしても。
「この場所で、かつてのヴェレッツァの王族に薄氷花が贈られたのだな」
「っ…。はい、その通りでございます……」
一瞬言い淀んだのは、本来知られているはずのない真実だからか。
もしくは、薄氷花という存在自体に何か秘密があるのか。
きっと殿下も考えたことは一緒だったんだろう。
疑問を解決しようと、あえて話題を変えずに話し続けていた。
「一度見てみたいと思っていたのだ。折角ドゥリチェーラの領地になったので、薄氷花が咲き誇る時期にまた訪れたいのだが?」
「薄氷花が咲き誇る時期、ですか…」
「あぁ。あの花は、いつ頃咲き始めるものなのだ?」
その言葉に、護衛のさらに後ろを歩いている人たちが動揺する声と気配が伝わってきた。
流石に気付かなかったふりをして、振り返る事はしなかったけれど。
果たしてこの話題そのものが出されては困るものなのか、それとも別の理由があるのか。
なんて考えていた私の思考は。
返された言葉に一瞬で塗り替えられた。
「分かりません。ここ二十年以上、薄氷花は咲いておりませんので」
「咲いていない…?どういうことだ?」
殿下が口にした疑問と全く同じことが、私の頭の中を巡る。
花が咲いていないなんて、一体どういうことなのか。
一瞬侵略後に引き抜かれてしまったのかと思ったけれど。
それにしては余りにも淡々と言葉を返された気がする。
「不思議な花ですので。何か条件があるのかもしれません。おかげで花の存在を知られることなく、今日までこの山は不毛の地と呼ばれておりましたので」
「不毛の地…。なるほど、だから手放したのか」
「おそらくはそうなのでしょう。不思議な事に、この土地では人が植えた作物は基本的に育たないのです」
「それでよくこれだけの人数が生活できているものだな……」
「薄氷花を植えた場所とは別の場所で、作物を育てておりますので。とはいえ必要分のみに留めてはおりますが」
つまり、花の影響なのか表向きは不毛の地。
そう断言できるということは、きっと試したことがあるから知っているのだろうけれど。
誰が何のために試したのかは、今は聞かない方がいい気がした。
「ではせめて植物画か標本などはないのか?」
「あいにくと、代々この地に住む者達は神聖な花と認識しておりましたので、形として残すようなことはしておりません」
「ほぅ…?では見た目が分かるのは、ヴェレッツァの王族が持つ印章のみと?」
「っ……そう、でございましたね…。えぇ、確かに」
「案ずるな。ドゥリチェーラとヴェレッツァの王族たちは、互いにその印章を知っている。それが建国から続く、二つの王族の在り方だ」
本来広く知られていては都合が悪い事なので、知る者は少数に留めるものなのだと。そう教わりはしたけれど。
王族同士が互いの印章を知っているのは、かなり珍しい事らしく。
だからこそ、お互いの信頼の証だとも言える。
とはいえそれを伝えておかないと、おかしな誤解を招く可能性もあったんだろう。
驚きに目を瞠った次の瞬間にはどこか納得したような顔をしていたので、もしかしたらここの人たちは知っている事なのかもしれなかったけれど。
「だが、二十年以上、か……。普通の植物であれば絶えてしまったと思っても不思議ではないが、そう言わぬのは何故だ?」
核心をつく言葉だったのだろう。
今までよどみなく答えていたお爺様の口が固く結ばれ、緩く首を振られた。
「答えられぬ、と?」
「……ご容赦くださいませ…。この地は確かにドゥリチェーラ王国の物となりましたが、我々がお仕えしてきたのはヴェレッツァの王族に対してのみなのです」
「たとえ英雄の子孫でも、花については詳しくは話せぬのか」
「ご不満でしたら、このおいぼれの首でも舌でもお好きに切り落としてくださって構いません」
「落とす気はない。が、まぁ……それほどの忠誠という事か」
それは明らかな拒絶と忠誠。
ヴェレッツァの王族以外は何人たりとも受け入れず、ヴェレッツァの王族以外には命を落としたとしても仕えないという、強い意志。
だから、こそ。
だからこそ、私という存在が鍵になる。
「なるほど、な。全く……公式には既に存在していないはずのヴェレッツァの王族に、今なお忠誠を誓うのは……生き残りがいる事を、知っているからか」
「っ…!?!?」
それは誘導でもなんでもなく。
ただの、断言。
それはつまり殿下から私に対する、彼らに真実を告げるための合図だった。
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