第6話 幸せな時間

 数日前に交わした会話の通り、早くお仕事が終わった殿下はセルジオ様を伴って、私のお城の仕事場である部屋までやってきた。


「なるほど。確かに甘い匂いが充満しているな」

「大丈夫ですか…?」

「言ったであろう?これはカリーナが作っている菓子の匂いだ。媚薬ではない」


 そう言って殿下は、お菓子作りの時はまとめている髪に顔を近づけたと思えば。


「ふむ…。カリーナから甘い匂いがするのはいつもの事だが、これはこれで……」


 食べたくなるな、と。


 私にしか聞こえないように小さく小さく呟いて、離れて行く。


「で、殿下…!?」

「ふふ。そのように愛い反応は、私を喜ばせるだけだぞ?我が妃?」


 呟かれた耳を思わず手で覆って、顔を真っ赤にして見上げた先で。


 それはそれは楽しそうに、殿下は微笑んでいらっしゃって。


「か、からかわないでくださいぃぃ…!!」


 今のはわざとだ…!!確実にわざとだ…!!

 私が恥ずかしがるのを見て楽しんでいる顔だ…!!


「殿下……」


 後ろからセルジオ様が呆れた顔をして殿下を見ていることに、気付いていないはずがないのに。

 呼ばれた殿下は振り向くこともせず、むしろふっと笑ってみせて。


「お前の望み通りだろう?セルジオ」


 勝ち誇ったような声で、そう告げる。

 手は私の髪から頬へと移動して、ゆっくりとそこを親指で撫でながら。


「えぇ、えぇ。確かに望んでおりました。殿下にもいつか愛し愛される女性を、と」

「ではそれが叶ったのだから良いではないか」

「そうですが……。……あまりにも、妃殿下がお気の毒で…」

「その言葉は聞き捨てならんぞ?」


 ようやく後ろを振り返った殿下に、今度はセルジオ様がにっこりと微笑んで見せて。


「そのように意地悪をされてばかりでは、いつか本気で怒られてしまいますよ」


 そんな風に言い放つ。

 二人の攻防は、気安い仲だからこそだと分かっている。だから私も安心して見ていられるけれど。

 こんなことを殿下に面と向かって直接言えるのは、本当にセルジオ様だけだと思う。

 私も流石に、ここまでは言えない。


「む……加減は心得ている」

「殿下の場合は頻度の問題では?」

「それに関しては私にも理由がある。…が、それはセルジオではなくカリーナと話すべき事柄だろうな」

「へ……?」


 二人の会話に、突然私まで巻き込まれて。

 二人分の視線を一気に浴びることになるなんて思っていなかったから、つい反射で体が強張ってしまった。


 たぶんそれに殿下は気づいたんだろう。

 ちょっとだけ、苦笑してみせて。


「だが、まぁ。今すべき話ではないからな。邪魔をしたいわけでもないから、私達には構わずカリーナは続けてくれ」

「え?あ、はい」


 くるりと殿下に体を反対側に向けられたと思えば、少しだけ肩を押される。

 促されるまま、私は調理台へと歩いていって。

 途中のまま放置されていたお菓子作りを再開させた。


「しかし……カリーナに与えてから、この部屋には一度も足を踏み入れたことはなかったな…」

「殿下はその必要がありませんでしたからね。本来であれば今ですら、必要ではないのですが……」

「必要性の有無ではない」

「えぇ、存じております。何より甘い香りの強いこの場所に、殿下自ら足を運ばれるという事が無いようにと――」

「お前たちがを思い出させないようにと、必要以上に配慮していたのは知っている。その点については感謝もしている」

「もったいないお言葉でございます」

「だがカリーナに関してのみは、今後そこから切り離していい」

「妃殿下のお作りになる物に関しましては、例外という事ですね」

「あぁ」

「承知いたしました。そのように周知させましょう」


 生地を作ったり焼いたりしている間に、二人の間で交わされている会話。

 殿下が言葉を濁したのはきっと、甘い匂いが媚薬を連想させるからという事なんだろうけれど。

 私も、それが気がかりだった。だからなるべく、甘いものは作らないようにしていたわけで。

 実はそのせいもあって、果たして今回のお菓子作りが成功するのかどうかちょっと心配だったりもする。


 とはいえ殿下の様子を見ていると、特別我慢しているわけでもなさそうで。

 むしろ部屋に置かれていたソファにゆったりと座っている姿は、宮殿の私室にいるときくらい落ち着いていて。

 だから匂いは大丈夫なんだろうと、ひとまず置いておいて。


 問題は、味の方。


 殿下と結婚するより前から、甘いお菓子なんてほとんど作らなくなっていたから。

 個人的なおやつとしてすら、作らなくなって久しいのに。

 本当にこの組み合わせが合っているのかどうか、自信がない。



 でも、きっと。


 殿下はそんな私の不安にすら、気付いていたんだと思う。



 だって……。


「セルジオはまだジェルソミーノの味を知らぬからな。折角なので、茶と菓子をここで振舞ってやってはくれぬか?」


 そう言った殿下の本当の狙いは、お茶会で初めてこれを口にする貴族令嬢の方々より先に、感想がもらえるだろうからという事だと思うから。


「よろしいのですか?」

「むしろそのために連れてきたのだ。たまにはこういう方面でも役立ててやらねばな?」

「殿下……まさかそのために、私に毒見をさせなかったのですか…?」

「当然だ。一度味を知ってしまっていたら、他の者を連れてこなければならない」

「……妃殿下のお作りになる物を、殿下が簡単に下賜するとは思っておりませんでしたが…」

「だからお前だけを連れてきたのだ。他の者達になど、緊急時でなければくれてやるのも惜しい」


 …………ここは……私は喜ぶべきなのでしょうか…?それとも殿下をたしなめるべきなのでしょうか…?


 思わずそんなことを思いながらセルジオ様を見上げれば、目が合った濃い青の瞳が少しだけ困ったように目じりを下げて。


「諦めてください、妃殿下。殿下のご寵愛は、留まるところを知りませんので」

「……喜ぶべきですか?驚くべきですか?呆れるべきですか?」

「カリーナ。そこは喜んではくれぬか?」


 思わず口にしてしまえば、今度は殿下からそう言われてしまって。



 不思議だった。



 ここは執務室でもないし、宮殿の私室でもないのに。


 まるで当たり前のように、昔から知っていたかのように、こんな風に会話を交わせていることが。



「ふふっ…」


 思わず笑みを零せば、目の前の乳兄弟たちは二人顔を見合わせて。

 そして同時に、ふっと笑った。



 立場だってあるし、決して平等な関係ではないかもしれない。


 けれどここにいる三人には、確かな絆があるのだと。


 そう思わせるのには、十分な時間を共に過ごしてきたから。



 幸せだと、思った。



 出来ることならこの幸せな時間を、これからもずっと、もっともっと長く、過ごせますように。


 そう願わずにはいられないほど。


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