第十四章 ③

 世界は薄暗かった。

 世界は冷たかった。

 世界は正しかった。

「目は覚めたかい? 馬鹿野郎」

 檻を隔て、こちらに声をかけたのは警察官のレインだった。痛みに耐えるように顔をしかめている。

「……ああ。今、目が覚めた」

 ゼルがまぶたを開ける。

 もう、どこにも彼女はいない。

 ここは警察署内の留置場で、ゼルは壁に背中を預けて倒れるように座っていた。コートや戦闘服の類はなく、粗末な灰色の服を着ている。当然、機操剣をふくめた武装も没収されていた。

「しっかし、厳重だな、これ。こっちは怪我人なんだぜ。ちょっとばかし、大目に見たっていいだろうよ」

 ゼルの両腕両足は鎖で拘束されていた。これでは寝返りも打てない。

 留置所の中でも、一等に凶悪な犯罪者のための〝特別室〟。フレンジュの死体を抱えて狂ったように笑っていたゼルを発見したのは、レインだった。あれから、まだ一週間も経っていない。

「カタチだけなら、騎士団の連中を皆殺しにしたんだ。僕が動かなければ、今頃敵討ちでもされていただろうね。安心しなよ。もう少しで出られるから」

「そうか……」

 ゼルの返事に、とうとうレインが激昂する。

「どうして、君がいながら彼女が死んだ!? どうして、君がいながら護れなかった!? 君はなんのために僕の提案を蹴った? 君ほどの力があって、どうして!」

 静かな留置場にレインの声は耳に痛いほど響く。なのに、なんて言っているのか分からない。どう言葉を返せばいいのか迷った。

 家の食糧庫にあったビーフジャーキーは腐っていないだろうか。新聞は溜まっていないだろうか。

「二度目でも、慣れないものだなー」

「いつまで悲観しているつもりだ。まだ、なにも終わっちゃいないんだぞ。赤獅子騎士団が君に目を付けている。もう、これまでのようにはいかないんだぞ」

「レイン」

 名を呼ばれ、情に脆い警察官は目を見張る。

「あのとき、パンチカードを渡してくれてありがとう」

「……今、それを言うときじゃないだろう」

 ゼルの目は虚ろだった。留置所の床よりも暗かった。

 今にも壊れそうなゼルの耳に、規則正しい音が届く。

 レインが廊下の向こうを睨み付け、腰の機操剣を引き抜いた。トリガーに指をかけ、奥歯を強く噛む。

「物騒なのだ」

 冷えていた空気が、さらに凍えを増す。

 視界の端で、赤い炎が揺れていた。

 レインが猟犬の形相に顔を歪める。

「実家に飢えた虎がいれば、誰だって銃を構えるだろう。それと同じだ、ベニアヤメ」

 いつものように赤い着物を纏い、いつものように笑みを浮かべ、瀟洒会同盟の会長はゼルの前に現れた。今日は私兵達はおらず、一人だった。心なしか、楽しそうなようにも見える。

「ゼルをここから出すのだ。それが、汝の上に立つ人間の判断なのだ。それが、政治というものなのだ」

「僕がここで君と刺し違えれば、全ての道理は丸く収まるはずだけどね」

 今にもトリガーを引きそうなレインを、ゼルが手で制した。

「止めろ、レイン」

「ゼル! 君はどっちの味方だ!?」

 レインの叫びに、ベニアヤメがやや小馬鹿気味に言った。

「ゼルはわっちの犬なのだ。ゼルを護れるのは、この世界でわっちただ一人なのだ。これは当然の結果なのだ」

 レインが信じられないと目を見張る。

 戦友に睨み付けられ、ゼルは小さく首を横に振った。

「レイン、剣を下ろせ」

 二度目の忠告に、レインが忌々しそうに舌打ちを飛ばす。そして、機操剣を振るった。重く鋭い音が廊下の奥へと駆け抜ける。

 ゼルを閉じ込めていた鉄格子がアスパラガスのように切断された。レインは中へと入り、ゼル目掛けて機操剣を振り下ろす。

 一振り、鎖が切断された。どのような剣技か、輪っかの部分まで外れて地面に落ちる。錆びた鈴音に似た、虚しい音だった。

 ゼルは手を胸の前で合わせながら手首の関節を鳴らした。

「悪いな、レイン」

「謝るな。ゼル」

 レインが肩をすくめた。

 ゼルの背中を割と強めに小突く。

「ただ、僕を失望させないでくれ」

「……足を撃たれた時よりも痛いな」

 廊下へと出たゼルを、ベニアヤメが嬉しそうに出迎える。何故だろう。腹を空かせた猛獣の住処に裸で来てしまった気分だった。

「久しぶりなのだ、ゼル。会えて嬉しいのだ」

 ゼルは返事をせず、手足の調子を確かめる。撃たれた右足の調子があまりよくない。当分は走るのを控えよう。

「……血が足りねえ」

「豚箱の食事では足りなくて当然なのだ。こういうときは、やっぱり肉を食べるに限るのだ。レインも来るのだ? 警官の薄給じゃ発狂しそうなほど美味い肉をご馳走するのだ」

 ベニアヤメの提案を、レインは鼻を鳴らして一蹴する。

「生憎と、僕は肉を食べるときはナイフとフォークを使いなさいと八人の姉から教わっていてね。剣を握らないと安心して椅子にも座れない食事は勘弁願いたい」

「なら、無理に誘わないのだ。さあ、一緒に行くのだ。ゼル」

 それは歳の離れた恋人同士に見えなくもない。

 ゼルの足取りは、腰から下が泥沼に沈んでいるかのように重い。

 ただ、その背中を眺めるレインの表情は複雑に強張っていた。まるで、怪物と遭遇してしまったかのように。

 この街に、怪物は何匹いるのだろう?

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