第263話 もう一人の剣聖

     ◆


 無姓の公爵の本屋敷で正装に着替え、私は父と一緒に屋敷を出た。供のものが二人ついている。一人は腰に剣があり、足の運びなどを見ると相当に使いそうである。

 剣聖府の建物は時間からか、静まり返っていた。朝稽古は終わっている時刻である。

 門で供の者は足を止め、中に私と父だけで入った。

 建物の中に入ったところで、呂が待っていた。意外なことに彼も正装だった。剣聖府統括だが、彼も他の弟子と同様、青地に黒線が正装である。

「今日のお具合は?」

「少しはよろしいようです。お客人があるからでしょう」

 そんな父と呂のやり取りを、私は黙って聞いていた。

 顔を隠すために幕が顔の間に垂れているのだが、周囲はよく見えた。

 呂は私を前にしても少しも動揺せず、しかし廊下を進むうちに通りかかる剣聖の弟子たちは胡乱げにこちらを見た。それでも丁寧に頭を下げる。

 三人で奥へ進み、「では」と扉の一つの前で、呂が一礼し、離れていった。

 父が扉を軽く叩き、小さな返事を聞いてから中に入った。私もそれに続き、そっと扉を閉める。

 室内には窓があり、今はそこは開いている。風がささやかに吹き込んでいる。

「意外に元気そうだな」

 寝台に歩み寄りながら父がそう言うのに、「形の上ではな」と嗄れた声が応じた。

 私も進み出て、そっと頭につけていた幕を外した。

「久しいな、時子」

 寝台に横になっていた剣聖が、億劫そうに体を起こした。

「ここへ来るということは、決意したということで良いのだな?」

 剣聖は全く余計な話をするつもりはないようだ。

 私はその強い意志を前にして、頭に思い描いていた気遣うような言葉、台詞を、全部、忘れることにした。

「はい。決意いたしました」

「剣聖になれるわけではない。むしろ、剣聖を争うのかもしれない。それでも良いのか?」

「はい」

「あの男は強いぞ」

 そう言った時、確かに剣聖は嬉しそうに笑った。

「覚悟しています」

「瞳・エンダーという男でな、どうやら病にかかったという話もある。何の苦労もなく、時子、お前が剣聖を継ぐかもしれない。ただ、争う覚悟は持ち続けよ。良いな?」

「承知いたしました」

 よかろう、と剣聖が寝台を降り、意外に機敏な動きで壁際に置かれていた木箱を取りにいった。

 私の前にそれが置かれ、蓋が開けられる。美しい布に包まれていたのは、剣だった。

 幅が広く、長い。大剣である。

「覇者の剣、ですな」

 覗き込みながら、父が言う。

 覇者の剣、というものは私も知っている。

 剣聖の証明である、古くから伝わる剣だ。

 剣聖の後継者の証明である、敗者の剣と対になるものだった。

 閃がこちらを睨むように見た。

「これを時子、お前に託す。決した誰にも口外せず、私がこの命を失った時、初めて覇者の剣の所在が不明になる、とする」

「混乱するでしょう、大勢が」

 そう言ったのは父で、私が何をしていたかといえば、目の前の剣、まだ鞘に収まったままのそれを、じっと見ていた。

 ここまで引きつけられる剣は、今までになかった。

 手に取りたい。

 振るってみたい。

 たとえそれで自分が破滅するとしても、私はこの剣を取るために、稽古を続けてきたと思える。その確信がある。

 そっと手を伸ばし、私は剣を箱から取り出した。

 鞘をそっと外し、現れたのは透き通るように美しい刃だった。

 片手で支えられなくはないが、やはり重い。

 戦い方が限定されるが、決して使えないわけではない。

 魅入られたように、私はその刃が光を跳ね返す様をじっと見ていた。

「お前の手元へ、秘密裏に届けよう、時子。それ以上は何も言うまい」

 私は頷いて、鞘に剣を戻して、箱に元通りに納めた。

 それを剣聖が布で包み箱に蓋をするのを見ながら、それ以上、と彼が表現した、言葉にしなかったことは何だったのか、と私は思いを巡らせた。

 これを受け取れば、お前が剣聖だ。

 そういうことを言いたかったのか。

 それとも、いずれは避けて通れないだろう、剣聖を争う戦いが何を意味するか、言葉にしようとしたのだろうか。

 それから剣聖は父と短く会話をし、寝台に元のように横になった。覇者の剣の入った箱は元の位置に置かれて、あまりにさりげないので、そこに極めて重要なものがあるとは、誰にもわからないだろう。

 去り際に私は剣聖の手を取り、「もう一度、ご指導を受けたいと思っております」と言ってみたが、剣聖は憮然としたように「一度と言わず、十も二十も稽古をつけてやる」と唸るように言った。

 私はまた幕を被り直し顔を隠すと、父に続いて部屋を出た。

 どこにも寄らず、呂にも挨拶をせずに父は私を伴って剣聖府の建物を出た。

「お前が負けることを、覚悟しておくべきかな」

 父は帰り道に、そんなことを言った。

「負けるというのは死ぬことだと、自分に言い聞かせるのは、なかなか辛いものだ」

 私が何も言わないのに、父は少し笑い混じりでそんなことを言ったけど、やはり私はうまく言葉を返すことができなかった。

 負けることは、死ぬこと。

 それは剣術家の絶対だ。剣を取った時から、最後にやってくるのは敗北であり、十中八九はそれは死ということになる。

 私は親不孝かもしれない。

 剣を極めたいという自分の願望は、父を裏切っている。きっと、母や兄も。

 でも私は私だった。

 誰に止められても、私は剣を手に取っただろう。

「申し訳ありません」

 強張った声でそう答える私に、「気にするな」と父は言った。

 この日から長い日々が過ぎ、剣聖はこの世を去った。

 葬儀の後に追悼会があり、その場に私は透と一緒に参加した。

 その追悼会に、いつの間にか天帝府へ戻っていた剣聖の後継者が出席する予定だ、と聞いたからだ。

 その日も私は幕で顔を隠し、透について天帝府の有力者たちの間を巡り、そしてついにその剣士と対面した。

 実に気さくで、何も気負ったところのない、妙な雰囲気の男だった。

 これから自分が剣聖になるという自負があるようでもないし、あまりにも自然体で、剣士という感じがしない。

 しかしどこかに間違いなく、超一流の剣士のそれがある。

 視線の配り方、姿勢、眼差し。

 私はこの男と、剣を交えることになる。

 命を懸けた勝負。

 生きるか、死ぬか、それしかない勝負。

 怖いとは思わない。

 ただ目の前にいる、この剣士を倒したい、という一念が胸の内で沸き起こり、私は危うく手が震えそうだった。

 私は心の内で、この世を去った師に感謝した。

 私の人生の最も輝かしい場面に私を導いてくれたのは、師匠だった。

 栄光が待っているか、破滅が待っているか、それはわからないが、私の人生には眩いばかりの光が差すのだ。

 まだ何も知らない片腕の剣士の前を離れる時、私は軽く頭を下げた。




(外伝:もう一人の剣聖 了)

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