第244話 遊びではない
◆
剣聖は書類に視線を落とし、素早く筆を動かしながら声を発した。
「何人を切ったか、覚えているか?」
世間話にしては剣呑だが、冗談めかした口調だった。
「いえ、覚えていません」
「離宮の中で死んでいた兵士の数は三〇〇を超えている。もちろん、お前が全員を切ったわけではなく、衛兵と反乱部隊が各所でぶつかったようだ」
どう答えることもできなかったが、三〇〇もの兵士が命を落とすのは、そうそうなかったことだろう。
この国はすでに戦争も紛争も抱えていない、安定した、平和の中にいたのだ。
しかしこうして混乱が起こった以上、争いは人々のうちに様々な形で消えずにあったと言える。
「しかし殿下にも困ったものだ。トランヴィンスキ侯爵を信用されたのだろうが、裏目に出た。そもそもからして、迎え撃つにも手勢が少ないのだ」
愚痴らしいが、俺は答える言葉を持たなかった。
書類を別のものに変え、剣聖は書類を作りながら、話を続ける。
「事態は一部の公爵の間で自明だったそうだ。陛下と殿下が狙われる。そのための土壌はすでに出来上がっていて、準備も万端だった。それを悟っていた殿下が、わざとその火薬みたいなものどもに、火をつけた。結果、火薬は盛大に火を吹き、天帝宮と離宮を合わせて五〇〇以上の命を巻き込んで、そして消えた」
「どこの貴族ですか?」
そう問いかけると、「興味があるのか」と剣聖がこちらを見た。
黙って視線を返すと、その視線は書類に落ち、言葉だけがこちらに向けられた。
「ファルスト公爵、オルシッタ公爵の手の者が多く関与している。しかし両家ともが関与を否定して、今は穏便な形での尋問と、容赦のない拷問を、相手によって使い分けて締め上げている。すぐに内実は明らかになるだろう」
「タガケ侯爵は?」
「あの侯爵は、たまたま激発しやすいとして目をつけられただけだが、ファルスト公爵と協力して天帝府守備隊や禁軍から参加者を募っていた。まぁ、死んだがな」
「俺が切りました」
ふぅん、というのが我が師の言葉だった。
それだけだ。それ以上の言葉はない。
「その刀は捨てろ」
急に話題が変わった。俺は無意識に腰の刀に手を添えていた。
「その刀は、私があの男に与えたものだ」
剣聖の言葉に、俺は瞠目する思いだったが、かろうじてそれをぐっと堪えた。
「いい技を使うと思ったが、お前ごときに切られるとは、そこまでの剣士だったのかな」
淡々とした口調で、また一枚、剣聖が書類を脇へ退け、新しい紙を手元に引き寄せる。
「どうやって切ったか、説明できるか? 覚えているか?」
問いかけられて、記憶を念入りに探った。
「剣を切られました。例の両者の力を利用して剣を折る技です。しかし、まさに切るような鮮やかさでした」
反応は、鼻を鳴らすことだった。
「剣を切る技など、実戦で使うものではない。あのような姑息な技を本筋に使うなとあれほど言ったのに、あの男は実戦の場でもそれを使ったか。愚かなことだ。甘い。遊びではないのだがな、戦いも、剣術も」
どこまで言葉にするべきか、俺は迷った。
尽・トランヴィンスキの剣術は、完璧だった。
それに俺が対抗できたのは、何故か。
迷いのない決断と、ほとんど破滅願望に近い大胆さ。
折れた剣で刀を受け流せたことも、そうしながら間合いをゼロにできたことも、今になってみると奇跡だった。
むしろ何故、尽がそれを予測しなかったのか、それが不思議だった。
刀の一撃で短剣が砕かれたことが脳裏に浮かんだ。短剣ごと俺を切れたのではないか。
俺を殺す気が無かったのか?
手加減して無力化できると?
本当の狙いはあの少年で、俺などはただのおまけ、添え物だっただのか。
「刀は捨てろ。良いな?」
「はい」
俺は一礼して、部屋を出ようとした。
「お前、書類を作るのは好きか?」
全く無関係のような声が投げかけられ、俺はそちらを見た。剣聖はまだ視線を紙に落としている。
「書類作りは好きか? そう訊いている」
「いえ、字を書くのは好きですが、あまり上手ではありません。何の書類でしょうか」
誰にも歓迎されん書類だ、と彼がこちらを見て、口元に皮肉げな笑みを見せた。
「剣聖府に招いたもので、死んだものの遺族へ宛てた書類だ。見舞金は百歩譲って嬉しいだろうが、私の書状など、いらんだろうな」
そんなことまで剣聖自らがしているのは、今、初めて知った。
どう答えることもできずにいると、剣聖は身振りで俺に退室するように促した。
廊下へ出て、どっと疲れた気がした。腹も減っている。体力もまだ完全ではないようだ。
自分の部屋に一度戻り、着替えをした。
着替えているうちに、自分が戦場から生きて帰ったことが、徐々に理解されていった。
刀は壁にかけた。すぐ横に、本当の俺の剣がある。
昨夜は、あの少年の供をするということだったので、本来の剣を拵えが実戦的すぎると思い、置いていったのだ。服装もわざと天帝府でありきたりの着物だった。
自分の着慣れた着物で食堂へ行く。俺が入ると、食事をしていた弟子の数人がやってきて情報を交換することになった。
剣聖とその弟子のおよそ八〇は天帝宮を襲った反乱軍一五〇〇にぶつかった。激しい闘争の末、最終的には禁軍の参戦と無姓の公爵が指揮する急編成の隊の参戦により、反乱軍は武装解除に至っていた。
弟子たち八〇人のうち、三〇名ほどが命を落とし、一〇名は重傷らしい。
今、食堂で俺と話しているものも、傷を負っているものが多い。
剣聖府は大きな役目を果たしたが、また大きすぎる犠牲も出していた。
弟子の一人が「これで剣聖府は十五年は後退したな」と寂しげに言ったのが、耳に残った。
剣聖府はありとあらゆる剣術や戦闘術を収集し、まとめ上げ、高め、継承していくことが本来の趣旨だった。弟子たちはそれぞれに技術や発想、構想を持つ、ある種の記録である。
それが多く失われたことは、人命の損失以上の意味があると言えないこともない。
間違った発想かもしれないとは思うが、人によって技を伝えるのが剣聖府の常だった。
人命よりも技術の価値を優先する。
人命に代わりはあっても、技の練度には代わりはない。
この発想はどうしても、どこか異質だった。
異質だったが、俺を生かした技術は、あるいは、俺の命よりも優先されるのかもしれない。
誰かに技を受け継がせれば、俺は無意味な存在になるかもしれないとも、想像できた。
あるいは俺よりも強い誰かが現れれば、俺の価値は本当になくなる。
いつの間にか俺は一人で食事をしていて、そのことに気づいても、寂しいなどとは感じなかった。
食事を終えて部屋に戻り、俺は今度こそぐっすりと眠った。
あれだけ人を切っても、俺は眠れるのだ。食事もできる。
おかしい。
全てがおかしい。
俺はきっと、普通ではないのだ。
しかし、いつから?
(続く)
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