第225話 確信を現実に
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呼吸を読むも何もない。
時子がぐっと腕に力を込めた時には、体ごと覇者の剣を振り回し、叩きつけるような斬撃が来た。
勢いも重さも、受け止めるのは危険だと見抜けない奴はいない。
足を送って時子の右側へ踏み出す。死角の方へ抜けるが、もちろんこれで決着するはずもない。
俺が繰り出した刀の切っ先は、おそらく見えないはずだった。
見えないはずが、まるで見えているように、刃が届かない。
振り回した大剣の勢いに、小柄な体が引きずられているようだった。しかし完璧に制御されている。
次の斬撃が来る。
受けることはできない上に、加速している。
ややこしい技だ。
仮に俺に両腕があれば、勢いを殺して絡め取ることもできたかもしれない。
舌打ちしながら距離を取ろうとする俺を、時子が追尾。
横薙ぎが斜めに変わった次には、縦回転に変わっている。
半身になって避ける。
いや、これは誘いだ。
本命はそれに続く斜めの一撃。
こちらは半身になって足が揃っている。
避けられるか。
体を逆に捻り、足を送るが、遅い。
自分から刃に身を晒すようにするしかない。
切っ先と体がすれ違うのは一瞬だ。
倒れこみ、転がり、起き上がる。
胸に痛みが走る。切られたが、浅い。
時子も動きを止めている。
睨みつけてくる彼女の左肩が赤く染まる。
俺の方からも刃を差し込み、強引に避ける間合いを作ったが、時子は傷を負うのも覚悟で俺を倒しに来た。
度胸比べだったが、わずかに俺が有利だったらしい。
呼吸を整えるのはほんの瞬き一回、次の瞬き一回の間に、俺の意識は完全に切り替わった。
刀を構える。
もう時子の技の一つは見えた。覚えたと言ってもいい。
彼女に次の切り札がなければ、切ることは容易い。
剣聖が剣聖の証を預ける剣士が、その程度のわけがない。
見ている前で、時子が剣を掲げ、切っ先をこちらへ向け、柄を握った両手を頭の横まで上げる。八双などと呼ばれる構えだ。
なるほど、力押しでくるか。
その細い体にどれほどの力があるのかは知らないが、叩き切るという意思だけはわかる。
俺はまっすぐに立ち、刀の構えを変える。不規則な下段。
踏み出すのは同時。
一直線に袈裟切りが向かって来る。
下から振り上げる斬撃を返す。
踏み込みは互角。速度も、間合の支配も、まったくの互角だ。
すれ違い、何かが床に転がった。
それは鉢金で、時子の額から落ちていた。
両断されたそれを見ている余裕などない。
俺は右の頬が濡れてくるのを感じる。
時子はこちらをまっすぐに見ているが、額の真ん中から血が一筋、鼻筋を流れていた。
息は止まっている。
赤が視界を埋め、そのまま視界が閉ざされていき、見えるものはやはり幻だけ。
刃が俺を切り裂くのを、感じ続ける。
俺の刃は、どうやら届かないらしい。
どこかで何かを捨てる必要がある。
時子がまた、八双に構えを変える。
勝負、ということだ。
彼女も俺の動きを、その限界を、決して到達できない勝負の分かれ目を、見ているだろう。
確信があるはず。
勝負において確信こそが陥穽ということも、やはり見ている。
油断はない。
冷静に過ぎる、冴え渡った刃のような意識で、俺の敗北を彼女は見ているはずだ。
俺もまたその敗北を見ている。
どこかに抜け道がある。
どこかに自分が生きる筋はあるはずだ。
必死だった。
時間にして、火花が散って消える、それだけのこと。
彼女は確信を現実に変えるために。
俺は確信を現実にさせないために。
動き出す。
答えは出た。
間合が消える。
斬撃。
真っ直ぐだ。
そこにしか道はない。
最短距離に最速の一撃。
剣を振りかぶる、その余地さえない。
両者に動揺がなかった。
無音。
視線がぶつかっても、どちらも気圧されたりはしない。
殺すこと。
殺されること。
どちらにも大差はないと思えた。
大剣が俺の左側から迫ってくるとき、俺の刀はただ一筋の光となった。
止まらなかった。
刃が肉を貫く手応え。
勢いが止まらない大剣が、俺の左肩、腕を切り落としたその傷跡に、食い込み。
体がぶつかっていく。
刃が肉を引き裂く手応えは、両者にあっただろう。
時子の顔に動揺が走る。
俺の右肘が畳まれ、右肩から勢い良く時子の胸に衝突。
反動で彼女の右肩を貫き通していた刀の刃が、鎖骨を粉砕し、肩の上へ抜け、解放される。
体が跳ね、背中から倒れこむ。
俺の左肩に食い込んでいた刃はその手を離れた。
立っているのは俺だ。
覇者の剣が血に塗れて、床に転がっている。いや、今もその上に、大量の血が降りかかっている。
俺はまだ持ったままだった刀を床に突き立て、その手で左肩を押さえた。
手は生温い粘り気のある液体に包まれる。
床では放心した様子で時子が仰向けに倒れ、天井を見ていた。すでにその顔は蒼白に変わっていた。
誰かが何かを叫ぶ。
駆け寄ってくるのは剣聖府にいる医者で、どこで見ていたのかと思ったが、たった今もハンヴァード公爵が何かを叫んでいる。口の動きでそれはわかるが、声は聞こえない。
何も聞こえない。
医者の助手が俺に何かの声をかけてくるが、やはり聞こえなかった。目の前にいるのにだ。
俺の右手を引き剥がし、傷口を見て、他の助手と言葉を交わしている。無音だが、怒鳴り合っているようにも見えた。
俺の視線は自然と、帝の方に向いた。
帝は椅子に腰掛けたまま、こちらを見ている。
全く動揺のない、平然とした顔。
王者の佇まい。
人が殺しあったところ、人が血を流しているところを目の当たりにしたとは思えないほど、平静のままだった。
人形を見るように、実験を観察するように、計算式を眺めるように、俺を、俺たちを見ているその眼を、じっと見据えた。
感情はない。
医者が俺の右肩の傷を縫い始める。
時子は、と思うと、担架に乗せられ、運ばれていった。
床には覇者の剣が残されている。
俺が勝ったのか。
勝ったから、どうなった?
ゆっくりと帝が席を立った。
俺は拝礼もせず、ただ立ったまま治療を受け、それを見送った。
静かな世界だ。
何も聞こえない。
急に全てが白くなった。真っ白い世界。天井もなく、壁もない。
地平線まで、真っ白だ。
あの山、神に至る峰の、どこまでも続く果てしない雪原。
誰かが俺の名前を呼んだ。
吹雪。
濃密で、全てを覆い尽くす吹雪が、景色も、音も、全てを塗り潰した。
体が翻弄され、見えるのはただ、純白のみ。
体がただ凍えていく。
内側から、緩やかに、しかし確実に。
(続く)
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