第224話 忘れ去られるということ
◆
その朝もいつも通りの朝だ。
剣聖府の食堂が閑散といているのは、今の時間帯は弟子たちは稽古をしているからである。おかげでゆっくりと食事ができる。
片腕の不自由はもう少しも感じない。粥を匙で口に運び、塩漬けされた木の実を三つかじる。最後に牛の乳を器で一杯飲むと、見ていた食堂の料理人の女性が、お茶を入れた焼き物の器を持ってきた。
「決闘をされるそうだけど?」
いつもは何も言わない女性がそんなことを言ったが、噂でしょう、と応じておいた。何か言いたげだったが、女性は元の調理場へ戻っていった。
俺はお茶をゆっくり飲み、席を立つと稽古のための道場へ行った。
渡り廊下を進むところで、道場の方で複数の足音がして、弟子たちが姿を現した。
全員が俺に気づき足を止め、次には廊下の両側に並ぶ。
別に足を速めてもよかったが、全員に自分の姿を見せておくべきではないか、と思い直した。
ゆっくりと歩を進め、列をなす弟子を一人一人、じっと見た。
怒りの表情のもの、悲しみの表情のもの、無表情のもの、笑う者もいる。
一番最後に立っているのは呂だった。
「これが最後かな」
呂の言葉に、「かもしれん」とだけ返しておいた。
最後になる気はしないが、最後という奴はいつも、唐突にやってくる。
道場に入る。換気のために窓がすべて開けられ、朝の光がいっぱいに差し込んでいる。風が吹き込むと、それにははっきりと冬の匂いが含まれている。
稽古のための棒は取らず、腰から刀を抜いた。
敗者の剣。
剣聖の後継者の証。
ゆっくりと型を繰り返す。
無数の流派を、ここでこの身に叩き込まれた。
既に失われた技を再現し、復元したこともある。
体の動きは悪くない。
感覚は指先まではっきりとしていて、刀の先まで通っているような錯覚。
どれくらいの時間が過ぎたか、汗にまみれている自分がいる。
呼吸が少し荒くなった。ふぅっと細く長く息を吐き、刀を鞘に戻した。
道場から浴場へ行き、簡単に汗を流した。
食堂の方から喧騒が聞こえるのをよそに、自分の部屋へ戻る。
部屋の真ん中で、静けさに包まれ、膝をついて床に座り、刀を目の前に起く。
目を瞑る。
何も見えなくなる。まぶたの裏の闇ではない闇だけを見据える。
呼吸はすでに落ち着いている。規則正しく、しかし浅い。脈は間隔が広く、脈と脈の間に自分自身が転がり落ちそうになる。
深い集中の中で、俺は普段は見えないものを見ようとした。
そんなに簡単に見えるものではない。
容易に見ていいものでもないのだろう。
扉が叩かれる音がした。
「お時間まで一刻です」
呂が俺につけてくれた、少年と言ってもいい年齢の弟子の一人の声だ。
俺は目を開き、一度、深呼吸した。
返事をしてから、着物を着替えた。青地に黒線の衣をまとう。
愛用している刀を腰に吊るす。
全てが整うと普段以上に落ち着く自分がいる。
扉を開けて外へ出ると、そこでは少年が立ち尽くしている。
名前は、宇だったか。
「お前の仕事はここまでだ。稽古に戻れ」
そう声をかけると、宇はまっすぐに俺の目を見てきた。
「先生に剣を教わることができると、思っていました。無理なのですか?」
「俺に剣を教わろうと、呂に教わろうと、剣は剣だよ」
「でも、統括より先生の方が強いのでしょう?」
こういう純粋さが、昔は俺にもあった。そのことはもう、忘れていたはずだったが、こうして思い出すこともある。
「強い奴に教わらないと強くなれない、というほど単純でもないさ。研鑽を積め、宇。努力と時間で、才能や素質を破壊するような気持ちでな」
宇が俺の最後の言葉に真面目な顔でうなずく。
俺は奴の肩を叩いでやってから、流血の間の方へと足を踏み出した。
宇はいつか、俺に肩を叩かれたことを忘れるだろうか。忘れたと思った時に、不意に思い出すだろうか。
どうでもいいことか。
剣が失われるように、この世界の様々な場面も、あっけないほど簡単に失われていく。
誰にも記憶されないことばかりが、この世界にはある。
流血の間の控え室に入るが、無人だった。足を止めずに抜け、流血の間に入った。
やはり無人。
壁際で俺は膝を折り、目をつむって、わずかに上体を前に傾げた。
呼吸を意識して、整える。
感覚を全て遮断し、自分の内面のみを見続ける。
人の気配がしても、俺は何もない地平を見ていた。
「陛下の御入来です」
その声に、俺は顔を上げる。
向かいの壁際に、美しい男装の女性がいる。
時子だ。
腰には覇者の剣があった。不釣り合いなほど大きい。
彼女はこちらを見ず、陛下が座るのだろう、椅子の方を見ている。
俺もそちらに向き直った。
鉦が打たれ、俺と時子が頭を下げる。
足音が複数して、「面を上げよ」という声がする。
椅子には帝が座り、その左手の椅子には皇太子がいた。陛下の右にはハンヴァード公爵。
しかし三人ともが正装ではない。
つまりこれは公の場ではないのだ。
「剣聖を決めると聞いている」
陛下の声に、俺も時子も微動だにしない。
「しかし何故、お前たちは殺し合うのだ? 無駄なことではないのか? それともこれは、公の決闘の形の、お前たちの私闘なのか?」
「それは違います」
陛下を相手にしているのに、はっきりと、堂々と時子が答えた。
「剣聖の名誉は守られるべきだと存じます。今、ここにいる二人のどちらかが破れて倒れ、どちらかが戦い抜き生き残らなくては、剣聖の名誉は無意味なものとなります」
「剣聖の名誉とは何か」
「強者である、ということだと愚考します、陛下」
お前はどう思う?
陛下がこちらを見た。
「決闘だろうと、私闘だろうと、構いません」
俺の言葉に、わずかに陛下が目を細めた。
「剣聖の名誉などというものに、興味はなさそうだな」
「ありませんね。剣聖の名誉など、虚像でしょう」
「ではなぜ、お前はこの場に来た? 瞳・エンダー」
俺は無礼を承知で、視線を斜め上に向けた。
なぜ、この場に来たのか。
「楽しみだから、ではないですかね」
「楽しみ? そこの娘を切ることが、か? それとも、お前が斬り殺されることがか?」
変な問いかけだったが、そうか、帝という立場の者も言葉遊びはするのだ。冗句を飛ばすこともある。
俺は形だけ笑みを浮かべて見せた。
「俺は剣術を見るのが楽しみなのです。勝つも負けるもなく、まずは剣術を見たい。それだけのことです」
ふざけた男だ、と陛下はわずかに微笑んだようだ。
好意的な笑みだった。
「好きに始めよ。ここで見届けることとしよう」
俺と時子は合図もなく同時に一礼した。
立ち上がり、向かい合う。
時子が鉢金を取り出し、額にそれを巻いた。
いよいよか。
俺は一度だけ、目を瞑った。
生死の境に立つことを、何度も繰り返してきた。
また同じだ。
違うのは、目の前にする剣術が違うということ。
今までで一番、手強い相手だろう。
俺は瞼を上げ、刀の柄に手をかけ、ゆっくりと抜いた。
時子も時間をかけて剣を引き抜いた。両刃で幅の広い大剣は、彼女には不釣り合いだが、完全に御せる技量があるのは引き抜く動作だけでわかった。
油断したら、それまでだ。
合図はやはりない。
お互いに一歩、踏み出した。
始まりだ。
(続く)
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