07. 非現実的な組み合わせ

 アタウッラ村に入ってしばらく進むと、泉からやや離れたところにひときわ立派な屋敷が見えてきた。バドゥルが手綱を引いて馬を止めた。周囲には村人が集まり始め、好奇のまなざしをこちらに向けていた。

 セシリアがバドゥルに馬から助け下ろされたところで、屋敷の入口から威厳のある老人が、従者に伴われて姿を現した。赤いチェックのグトラを頭に巻き、白い顎ひげを長く伸ばしている。茶色いビシュトには金糸の縞模様が施されていた。この人が首長であることはひと目でわかった。

「これはこれは、皇太子みずからお出ましとは驚きましたな。歓迎いたしますぞ」老人が言った。

「お出迎えありがとうございます、首長。このたびは私の友人を救っていただき、心より感謝します」バドゥルが応じた。

「ちょうど首都から戻る途中の商人があそこを通りかかって、倒れている西洋の若者を見つけたようでしてね。たいした怪我もなく、なによりじゃ」

 セシリアには首長の言葉は理解できなかったが、歓迎されていることは確かなようだ。

 バドゥルが言った。「首長、こちらはミス・セシリア・マクリーン、友人の妹さんです。セシリア、こちらは砂漠の民の首長アル=イブラヒムだ」セシリアに対しては英語で言う。

「アッサラーム・アレイクム。ようこそ、ミス・マクリーン。さぞかし心配されたことじゃろう」首長が言った。

「ワ・アレイクム・アッサラーム」セシリアはアラビア語で挨拶を返した。「兄を助けてくださって、ほんとうにありがとうございます」

「さ、おふたりともお入りくだされ。ミスター・マクリーンは、ちょうど朝食を召し上がっているところですよ。ぜひごいっしょに」首長がふたりを屋敷のなかへ導いた。

 美しい織物で壁と床が覆われた広い客間に、ジャスティンがいた。すでに寝床からは起き上がっていて、床に座り、アバヤに身を包んだすらりとした女性から、食べ物の皿を受け取っているところだった。少し熱っぽいような上気した顔をしているが、元気そうだ。

「ジャスティン!」セシリアは叫んだ。

 ジャスティンと砂漠の女性が振り返った。女性はとても美しい顔立ちをしていた。

「バドゥル、セシリア」ジャスティンがうれしそうに言って、立ち上がった。

 セシリアは兄に駆け寄って、その体を眺め回した。「ああ、心配したのよ、兄さん。怪我はないの?」

「ああ、かすり傷くらいだよ。軽い脳しんとうを起こしていたんだが、脱水症状がひどくなる前に、通りかかった村の人に運よく助けてもらったんだ。そして、こちらの……ハミダがいろいろと面倒を見てくれたんだよ」ジャスティンが砂漠の娘のほうに目を向け、なぜか照れくさそうに微笑んだ。

「アッサラーム・アレイクム。友人を看護してくれてありがとう、ハミダ」バドゥルが声をかけた。

「ワ・アレイクム・アッサラーム、皇太子殿下。恐れ入ります」ハミダが応じた。

「元気そうで安心したよ、ジャスティン」バドゥルが兄に言った。

「心配かけてすまなかった、バドゥル、セシリア。レースの結果は? 砂漠の村にも観戦した人がいるようなんだが、言葉が通じなくてね」

「アダムが勝ったわ。チームの勝利よ」

「よし、やった!」ジャスティンが満面の笑みを浮かべて腕を振り上げてから、ハミダのほうを見て言った。「勝ったよ、勝利ファワズだ」

 ハミダが心から祝福するように微笑んでうなずいた。ジャスティンはいつまでもハミダから視線を外さなかった。

 なんなのかしら。セシリアは少しむっとした。私がこんなに心配して、砂漠で迷子になるくらい必死に捜し回ったというのに、ジャスティンは砂漠の美女に介抱されて楽しく過ごしていたというわけね。

 セシリアが兄をにらんで黙っていると、バドゥルが威厳を保ちながらも笑いを含んだ声で言った。「すっかり元気を取り戻したようだな、ジャスティン。朝食を食べ終わったら、宮殿へ戻ろう。それとも、しばらくここに滞在したいか?」

「いや、戻るよ」ジャスティンが顔を赤らめて答えた。

 あたりまえだわ、とセシリアは心のなかで言った。チームのみんながどれだけ心配してると思っているのよ。

「今、殿下とミス・マクレーンの朝食を用意させておりますからな。どうぞごゆっくり」後ろに立ってにこにこしていた首長が言った。

「お気遣いありがとうございます、首長」バドゥルが応じ、セシリアに首長の申し出を伝えた。

 セシリアはバドゥルとともに客間の敷物に腰を下ろし、朝食をごちそうになった。

 山羊のチーズをのせて焼いたピタパン、フムスという豆料理、乾燥させたデーツ、アラビアコーヒー。料理には不思議な香りの香辛料やハーブがたっぷり使われていたが、とてもおいしかった。

「末娘のハミダは、薬草の勉強をしておりましてな。ミスター・マクレーンには、娘が煎じた薬がてきめんに効いたようじゃ」首長がコーヒーをゆっくり飲みながら言い、バドゥルがその言葉を通訳した。

「ええ、ほんとうに。なんだか、レースの疲れまですっかり取れたようです」ジャスティンが答え、コーヒーのお代わりを注ぐハミダをまたじっと見つめた。

 セシリアはデーツをゆっくり噛みながら、兄を横目で眺めた。ジャスティンたら、まさか砂漠の美女に恋してしまったんじゃないでしょうね。

 金髪で整った顔立ちをしたジャスティンは妹の目から見てもすてきで、女性ファンも多い。これまでに何度か恋人がいた時期もあったが、どの女性とも長続きはしなかった。ロードレースの選手とは、過酷な職業だ。シーズンの一月から十月までは練習とツアーが続き、ほとんど遊ぶ暇もない。〈ツール・ド・フランス〉出場という目的に向かって突き進むジャスティンが、恋愛を後回しにするのも当然だった。

 そのジャスティンが、砂漠の首長の娘に恋をする……まさか。エキゾチックな顔立ちと魅惑的な黒い瞳をしたハミダは確かに美しいけれど、本気で恋をしても実るはずがない。スコットランド人の自転車選手と砂漠の首長の娘。あまりにも非現実的だ。

 ふと、自分のことを考える。満月の下でのバドゥルとの口づけ。砂漠の国の皇太子とスコットランドの娘。考えるのもばかばかしいほど非現実的だ。あれは、皇太子のちょっとした気まぐれにすぎない。一夜の夢として、忘れてしまおう……。

 はっと気づくと、バドゥルが首長に何か言っていた。朝食も済んだので、ジャスティンを連れて帰るために馬を一頭貸してほしいと頼んでいるようだった。

 首長はうなずいて立ち上がったが、部屋を出ていこうとするバドゥルを、両手を上げて押しとどめた。


「少しお待ちくださいますかな、皇太子殿下。アタウッラ村をご訪問していただくなどめったにない機会ですから、少々ご相談させていただきたい。お時間は取らせません」アル=イブラヒム首長が言った。

 バドゥルは一瞬間を置いてから答えた。「いいでしょう」

「お客人にはしばらくのあいだ、席を外していただきたい。ハミダ、おふたりに庭と家畜小屋を見せてさしあげなさい」首長が言った。

 ハミダが立ち上がってうなずき、ジャスティンとセシリアが問いかけるようにバドゥルを見た。

「首長から少し話があるそうだ。ハミダに庭を案内してもらってくれ。すぐに終わる」

 三人が出ていくと、首長が扉の外の廊下に向かって合図をした。十人ほどの男たちが部屋に入ってきた。村の長老たちのほか、商店や牧畜を営む人々のリーダーらしい比較的若い者たちもいた。みんなバドゥルに丁重に挨拶したが、硬い表情をしている。

 バドゥルがふたたび敷物の上に座ると、首長が向かいに座り、ほかの者たちはその後ろに二列に並んで腰を下ろした。

「じつは、例のリゾート施設の件なのですが」首長が切り出した。「建設を中止していただきたいのです」

 その件だろうと予測はしていたが、〝中止〟という言葉にバドゥルは驚いた。

「前回の会議では、砂漠の部族も賛成派が多数だったはずだ。だからこそ、この計画を積極的に進めてきた。すでに建築家が具体的な設計図も出している。首長もご覧になったはずだ」

「ええ、拝見しました。それが問題なのです。オアシスのそばに大きなホテルを建てた場合、周囲の農地は三分の一ほど削られるとのことでした」

「その代わり、ホテルの売上から利益が得られるし、観光客が増えてみやげもの屋も儲かる。大きな経済効果が期待されるはずだ」バドゥルは言った。

「設計図には、これまで知らされていなかったみやげもの屋の通りがつけ加えられていました。どうやら外国の製品を売る店らしい。そんなものをつくられては、地元のみやげものが売れなくなります。そのうえ、さらに農地が削られます」

「素朴なみやげを好む人もいるはずだ。多くの観光客を引きつけるには、外国製品を扱う店も必要だろう」

「ですが、われわれは多くの観光客を望んでいないのです」首長が言うと、何人かの村人が同意のうなり声をあげた。「村の静かな暮らしが壊されるのではないかと危惧する者が増えています。初めは村の活性化に期待して賛成していた者たちも、具体案を知るにつれて考え直すようになりました。そこで、今一度会議を開いて、中止を含めた計画の見直しをしていただきたいのです」

「そうはいかない」バドゥルは強い口調で言った。「この国には観光の目玉となるリゾート施設がどうしても必要だし、この村のオアシスは中東一美しいと私は思っている。あさってには、投資家たちを集めたパーティーも開かれる。今さら計画を中止するわけにはいかない」

 村人たちのあいだにざわめきが広がった。

 首長はそれを制してから言った。「そこをなんとか、皇太子殿下のいつもの柔軟なご姿勢でお願いしたいのです」

「無理だ」バドゥルは突っぱねた。

「完全な中止でなくともかまいません」長老のひとりが発言した。「ただ、巨大なホテルはやはりこの村にはそぐわんと思うのです」

「ぜひとも、今一度の話し合いを」別の長老が祈るように手を合わせて言った。

「殿下」羊飼いらしい男が突然立ち上がった。広い肩幅と挑戦的な目をした二十代前半くらいの若者だった。「話し合いなんてまだるっこい手続きが面倒だってことなら、ひとつ勝負しようじゃありませんか」

「何を言い出すのだ、ガッサン」長老のひとりがいさめた。

「話し合いで決まらないことは、剣で決める。砂漠の民の伝統ですよ。砂漠の村に足を踏み入れたからには、皇太子にもここのルールに従っていただきたい」ガッサンが挑むように言った。

「血気にはやっても何も解決はせんよ、ガッサン」首長が落ち着いた声で言った。

「殿下が勝てば、リゾートホテルでもなんでも好きなようにつくればいい。俺が勝てば、計画はすべて中止だ」ガッサンがしつこく続けた。

 まわりに座っていた若者たちの一部が歓声をあげた。

「そいつはいいや」

「ガッサンは村じゅうでいちばんの剣の達人だからな」

 バドゥルは、不適な笑みを浮かべる若者の目をしっかりととらえた。「……いいだろう」

 周囲がどよめいた。

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