第50話 悪い夢
––––頭が痛い
デスクの一番上の引き出しを開けると、中には擬似夢日記のチップともう一つ別のチップが仕舞われていた。それを擬似夢ケースから取り出すと、中のチップをパソコンと接続させる。
データを読み込んでいる間に空のチップを用意すると、それも機械に差し込んだ。読み込みを終えたデスクトップには、膨大なデータが表示される。
各フォルダには日付や人名がふられている……
「パーティーの様子だけでいいか? いや、それだけだと伝わらない可能性が…… マーガレット…… うん、ここからだな。これと、これと…… 擬似夢日記のデータも差し込んだ方がいいか。よし、あとは……」
––––頭が痛い
ノアは擬似夢ケースをまじまじと見つめた。
「まさかこれが役に立つ日がくるなんて。ラベルも殆ど読めやしない」
ケースの文字は酷く色褪せていたが、よく見れば文字が書いてあった。
『或る男の夢』
ノアは全身鏡の前に立つと、前髪をグイっとかき上げた。鏡に映ったその左目は、機械的な緑色の光を発していた。
こめかみから延びるコードは先ほどの機器に繋げられている。
「義眼から直接データを抜くのは初めてかもな」
ノアは鏡の中の己に向けて話し始めた。
「エリック、エマ、逃げてくれ。僕はヴィクターの手引きでIDEOに向かう。追いかけるような真似はするなよ。それは僕の望むところじゃない。とにかく逃げて、生きてくれ」
––––頭が痛い
「予備の擬似夢はエリックが持っているだろう? 出来れば、立花氏やマーサにも分けてあげてほしい」
––––頭が痛い
「リリーの無事を心から願うよ。今日まで僕のわがままに付き合ってくれてありがとう。少しでも君たちを疑って、頼ることを躊躇した僕を許してほしい。君たちに出会えて良かった。本当に、ありがとう」
––––頭が痛い
ノアはそこで一呼吸置くと、一際真剣な眼差しで鏡の中の己を見つめた。
そして、鏡の中の誰かに向けて、話し始めた。
「それと、今、これを見ている君へ」
––––頭が痛い
「時間がないから、このメッセージのバグ処理は出来そうもない。少しばかり脳波を乱してしまうことを許してほしい」
––––頭が痛い
「ことの経緯は、十分に分かってもらえたと思う。これを見ている君が、IDEOの手先でないことを切に願うよ」
––––頭が痛い
「もしも君が僕の友を想ってくれるのなら、どうかこの擬似夢を警備隊第二団隊長のエリック・ロバーツに渡してくれ」
––––頭が痛い
「思い出して。これは全て悪い夢、君が生きるこの日々も。君は哀れなノア・クラークじゃない。本当の君を思い出すんだ」
––––頭が痛い
再びの爆発音と、ガラスの割れる音がした。今までとは比べ物にならない音の大きさから、おそらく火が夢屋の事務所まで回ってきたようだった。
ノアは音のする方を一瞥して、もう一度鏡の中の誰かに向き直った。
「おはよう、もう一人の僕。そして、さようなら……」
泣きそうな声で笑う、鏡の中の彼に、もう二度と会えないような気がした。
視界が一面真っ白になる––––
◆ ◆ ◆
***
「うああぁぁ!!!」
「うおっ!?」
叫び声を上げながら、俺は目を覚ました。
ここはどこだ?
今はいつだ?
俺は誰だ?
揺れる視界が次第に定まってくる。ここは裏路地のようだった。
そうだ、確か俺は、逃げていたんだ。
どこから?
誰から?
鼠が這いずり回る暗い路地には、ガラスの破片が散乱していた。そのうちの一つを、俺は震える指先でそっとつまんだ。
カメラの焦点が合うように、次第に視界が明瞭になる。そこに映し出されたのは、胸元まで伸びたボサボサの髪に、あばらが浮き出たみすぼらしい身体であった。
何だこれは? あの美しいブロンドは、アッシュグレーの瞳はどこだ?
違う…… ちがうちがうちがう。
これが本当の俺なんだ。
ショックでガラスを落とすと、足元にはタバコのケースと空のマッチ箱が落ちていた。
そうだ、俺は……
「な、なあ、大丈夫かよ?」
さっきから傍で様子を窺っていた人物が恐る恐る声をかけてくる。
薄汚れた鼠色の作業着、おそらく死体処理の係員だろう。ロッドでくたばったと思って近づいてみたら、そいつがいきなり叫び出したのだから驚くのも無理はない。
大丈夫だと言いたかったが、喉がカラカラでうまく声が出せなかった。俺は目で無事を訴えようと女性の顔を見た。
「……」
「ったく、驚かせんなよな。なああんた、夢遊病者じゃねえんだよな? いきなり襲いかかるとか無しだぜ」
「……エ、マ?」
「あん? おっさん、前にどっかであったことある?」
その答えはノーだった。だがしかし、俺は彼女のことをよく知っている。金と酒が大好きな赤毛の子、口は汚いが心の優しい女の子。
俺は彼女と出会っている。
擬似夢の中で。
「ノアが…… ノアが大変なんだ」
「……は?」
俺の言葉でエマはみるみる顔色を変える。
そうして今にも餓死しそうな俺の身体を容赦なく揺さぶると、怒りと焦りを隠さずにまくし立てた。
「お前、ノアに会ったのか!? あいつ今どこにいんだよ! 大変って何だよ、ふざけんなよ!!」
やっと呼吸が落ち着いたところだったのに、その揺れで俺はまた意識が朦朧とした。今日は何日なのだろう。あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。
早く、早くしなければ。
ノアが、危ない。
夢屋 鏡乃 @mirror_no
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