第48話 プレゼント2


「……リリー?」


 一歩踏み出すと、床板のきしむ音だけが悲しく響いた。


「リリー、僕だよ」


 彼女の白肌はもはや青白く、まるで生気が感じられなかった。


「返事をして、リリー」


 彼女の右手にはカッターナイフが握られていた。今も流れつづける血は、彼女の左手首から流れているようだった。


「起きてよ、リリー。紅茶を淹れてあげるって、約束したろう?」


 彼女はスキャナを装着していた。ノアはそこでやっと、少しの理性を取り戻す。


「……何で」


 ノアの擬似夢は一日に一度見れば十分な効果であった。昼寝の時にまで見る必要はないはずだ。もしかして、リリーも共感夢を見たのだろうか。

 エリック達と同様、リリーにも共感夢は見ないようにきつく言っていた。ヘルパーと一緒に見たとも考えにくい。


 ダメもとで緑色に点灯しているスキャナを強制終了させてみる。すると意外にも、それはあっさり停止した。

 共感夢ではない。

 ノアは差込口からチップを取り出すと、心臓が止まるほど息をのんだ。


「……は?」


 あまりの出来事に思考が追い付かない。

 そのせいで、ものすごい勢いで階段を駆け上がる音がしても反応が出来ずにいた。もしもそれがこの騒動にかこつけた物取りであったなら、ノアはあっけなく襲われていただろう。

 しかしそれは物取りなどではなく、ノアが一番会いたいと思っていた人物であった。


「ノア!」

「……マー、サ?」


 マーサはノアの背後のリリーを一目見て血相を変えた。しかし叫んだり狼狽える様子も見せなかった。急いでリリーの元へ駆け寄ると、その細い手首を触り、胸に顔を押し当てる。


「大丈夫、まだ息はあるわ」

「マーサ、リリーは、リリーは……」

「落ち着いて、ノア。メディカルバッグを持ってくるわ。ここをしっかり押さえていて」


 マーサはリリーの左肘の辺りにハンカチをきつめに巻きつけると、部屋を飛び出した。

 言われた通りにそこを押さえながら、ノアはふとサイドテーブルの上のに気がついた。

 手のひらサイズの黒い小箱に真っ赤なリボン、傍らには二つ折りのメッセージカードが置いてある。それと全く同じものを、ノアはつい先日受け取っていた。

 左手で止血をしながら、右手でそれを開いた。聞こえてきた自動音声は、他でもない……

 ノア自身の声だった。


≪リリーへ、今日という特別な日にこれを贈るよ。もう苦しまなくていい、安心して行っておいで≫

 

 短い音声メッセージは、少しの間をおいて何度も繰り返された。三度目の繰り返しで我慢の限界が訪れ、ノアは感情のままにメッセージカードを握りつぶした。

 自分そっくりの声が≪苦し……≫と、息の根が止まったかのようにぷつりと途切れる。

 

 贈り物はどう考えてもリリーが見ていた擬似夢チップのことである。リリーはノアからの贈り物だと信じて、期待に胸を膨らませてを見たんだ。

 ホワイト家の擬似夢を。

 あの、安楽夢を。


 今朝見た夢の内容がフラッシュバックする。

 くすくすという笑い声。

 のっぺらぼうの皆が言う。


 裏切り者はだ~れだ?


「裏切り者は……」


 その時……


「……ノ、ア?」

「っ、リリー!!」


 今にも消え入りそうなリリーの声に、ノアは縋りついた。抱きしめたい気持ちを必死に抑え、身じろぎするリリーに「動かないで」と言い聞かせる。


「リリー、今マーサが来るからね。大丈夫、もう少しの辛抱だ」

「……ノア、あの、夢は……」

「僕が贈ったんじゃない。誓うよ、僕が君に安楽夢を贈るなんて、そんなこと、絶対に––––」

「わか、ってる」


 ノアは伝えたい思いを喉の奥に抑え込んで、リリーに喋らせてやろうとした。息も絶え絶えに、それでもリリーはこれだけは言わねばと唇を震わせる。


「あれは、貴方の、夢だった。でも、カードの声は、貴方じゃない。そう、でしょ?」

「ああ、その通りだよ」

「やっぱり、ね。……ふふ、耳だけは、いいんだから」


 そのタイミングでメディカルバッグを担いだマーサが戻ってきた。慣れた手つきで止血を済ませ、輸血パックを繋ぐ。


「マー、サ」

「大丈夫ですよ、マーサはここにいます」

「わ、たし…… 死のうとなんて、して、ないわ」


 マーサもノアも一瞬固まった。リリーは必死に意識を保たせながら訴える。


「ノアの、声じゃないって、それで…… 抵抗した、の。そしたら、手首を、切られて……」

「お嬢様、少し落ち着きましょう」

「リリー、君を襲ったのは––––」

「わ、たし、抵抗したの」

「うん、そうだね」

「死にたく、なかった」

「うん」

「生きたかった…… 生きようと、した、の」

「うん」

「これからも、ノアと、みんな、と…… わたし…… 生きた……」

「……リリー?」


 リリーがそれ以上口を開くことはなかった。彼女の赤い唇がどんどん青ざめていく。


「リリー、嫌だよ、目を開けて」

「ノア」

「リリー、リリー、死んじゃダメだ! リ––––」

「ノア!!」


 初めて聞くマーサの怒声にノアはびくりと口をつぐむ。


「大丈夫、脈はあるわ。落ち着いて」


 涙が出そうになるのを必死に堪えて頷いた。

 今ここで自分が焦ったところで何も出来ないと悟り、ノアは必死に情報を整理しようとする。


「……そういえば、マーサは何故ここに?」

「実は昨晩、吹雪で電車が止まってしまって。近くの宿で一泊して、今朝になってまた向かおうとしたのよ。そうしたら今日来てくれる予定だった友人から『吹雪の影響で行けそうにない』って連絡が来てね。それで急いで引き返したのよ」

「それじゃあ、リリーは一体誰に襲われたっていうんだ」


 本物のヘルパーは今日ここに来ることが出来なかった。だが、誰かが今日ここへ来て、リリーの朝食を用意して食べさせたという動かしようのない事実も存在した。

 リリーに怪しまれることなく家政婦の仕事をこなせるに、ノアの声をメッセージカードを作る……


「裏切り者は……」

「え? 何て言ったの、ノア?」

「……いいや、何でもないよ」

「ノア、ここは私に任せて。リリーお嬢様は必ず助けるわ」

「……」

「貴方にしか出来ないことがある。そうじゃない?」


 マーサはノアをただの擬似夢クリエイターだと思っているはずだった。IDEOの闇も、それをノア達が暴こうとしていることももちろん知らない。しかし、彼女は何かを確信しているようにノアを見つめた。

 行かなければならない、そう自分に言い聞かせても、足が言うことを聞かなかった。リリーはこのまま目を覚まさないかもしれない。これが彼女と過ごす最後の時間になるかもしれない。

 愛していると、伝えることも出来ずに。


「ノア、私を信じて。行きなさい!」

「っ…… 頼んだよ、マーサ」

「ええ」

「リリー、またね」


 傷口を刺激しないよう、そっと額にキスをした。

 しかし、眠り姫が目覚めることはなかった。

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