第38話 裏切り者1


 バルコニーに出ると、ヴィクターはノアに背を向けて立っていた。

 カーテンを閉めて窓を閉じてしまうと、パーティー会場の喧騒が一気に遠のいた。静まり返った冬の夜だけがそこにある。降り始めた雪の音がしんしんと聞こえてくるようだった。


 ヴィクターがおもむろに振り返ったかと思えば、操り人形の糸が切れたかのようにがくんとその場に崩れ落ちてしまった。

 ノアは咄嗟に手を伸ばし、ヴィクターの腕を掴んだ。彼が持っていたグラスが宙を舞い、ノアのタキシードにシャンパンの雨が降り注がれる。胸元に輝く黒真珠にしゅわしゅわとシャンパンの泡が弾け、これはもう使い物にならないなと心の中でため息を吐いた。

 不快さと困惑を露わに、ノアはヴィクターを見た。


「お怪我はありませんか。どこか具合でも?」

「……ま」

「は?」

「ま…… まぁじでビビったああぁぁ」

「は?」


 理解がまるで追いつかず同じことを繰り返してしまう。

 掴んでいる腕は力が抜けているようにダランとし、膝は生まれたての小鹿のようにガクガクと震えている。婦人たちを射止めていた甘いマスクは何処へやら、眉をこれでもかと八の字に下げ、瞳にもあの獰猛さは感じられない。

 一瞬レオの変装かとも思ったが、いくらレオでもこの身長差は埋められないとすぐに思い至る。変装でないのならば、これがこの男の本性ということか?


「あんな目で見なくてもよくない? 死んだ魚みたいな目してさぁ。ああもう寿命縮んだ。無理、もうほんっと無理。こんなん心臓いくつあっても足んないって」


 ヴィクターは念仏のようにブツブツと唱えている。そうすることで不安と恐怖を追い払おうとでもしているようだ。


「いきなり何の話でしょう」

「あ、そうだよね。そりゃそういう反応になるか。あーどっから話せばいいかな、でも時間だってないし単刀直入に言うしかないよね」


 独り言が多いのはこの男の癖のようだ。はじめは聞き逃すまいとしていたノアだが、必要そうな言葉だけに集中することにした。


「えっと、まずはそうだな。俺はあんたの味方だ」

「あの、本当に何のことを––––」

「時間ないって言ったよな? 

「っ……」


 ヴィクターは「ありがとね」と言って立ち直り、服についた汚れを叩いている。途端に形勢は逆転し、ノアは震える身体を必死にそうさせまいとしていた。

 味方だと言われて「はい、そうですか」と信じるほど馬鹿ではない。しかし、この男にどこまでの情報を握られているのか、それは確かめねばならない。

 どう返せばいいか考えあぐねていると、ヴィクターが口を開いてくれた。


「大丈夫、あんたに辿り着いたのは俺だけ。IDEOはまだ知らないよ。俺ハッキングが趣味みたいなところあってさ、結構な腕前なんだ。まあ上には上がいるんだけども。そんなことどうでもいっか、んで、国のシステムに入り込んだ時に気づいたんだよ、

「足りない?」

「ドリーゼの摂取記録さ。全世界のIDEOの記録と照合してやっと判明したんだ、死亡届もなく摂取記録もない人間がいるってね。俺も最初は信じちゃいなかった。きっと役所の手続きミスかなんかで死人が生きてることになってるんだって。でも違った、あんたは確かに生きていて、そして一度もIDEOの世話にならずに済んでいる」

「……」

「IDEOを警戒しすぎたね。同じ要領でお仲間もすぐに特定できた。生きたままパタリとドリーゼを打ちに来なくなった人間がちらほら。ポイントカードの使用履歴から個人特定すんの、マ~ジで時間かかったんだぜ」


 仲間とはエリックたち以外に考えられない。ということはつまり、夢屋の存在も知っているということだ。夢のオーダーメイドをしていることだって知っているに違いない。

 自分を「味方だ」と表現した点からも、こちらがIDEOを敵とみなしていることも承知なのだろう。


 話が夢屋にまで及び一気に人質を取られた気分になったが、ヴィクターにはこちらを脅そうという態度は見られなかった。

 むしろ己の有用さを示せたことを褒めてほしいような、やっと本音を語り合える者に出会えたことに対する喜びのようなものが感じ取れた。


 ドリーゼ接種に保険は適用されない。その代わりIDEOは独自の会員証を発行していた。初回に個人情報を登録し、以降はポイントカードとして使用することが出来る。

 打った数に応じて割引額が増すというもので、高額な接種料を少しでも抑えるため皆その会員証を利用しているのだ。

 

「未接種者をリストアップするようなシステムがあったら俺以外にも気づかれてたぜ。前にちゃんと作ったんだ、そういうの。んで仮導入しようとしたら『ドリーゼを打ちに来ない奴は何処ぞで野垂れ死んでいる』って却下されたんだよね」


 以前エマに見せてもらったことがあるが、ポイントカードには前回の接種日なども記載されておらず、ただ接種回数とそれに応じたランクが記録されているのみだった。

 てっきりあらゆる個人情報を一元管理しているのだとばかり思っていたが、ヴィクターの話を聞く限り、そのようなことはないらしい。

 IDEOにしてみればドリーゼを摂取しないで生きられる人間などいないのだから「その後いかがでしょうか」などといったセールス電話をする必要もないわけだ。


 そこまで考えてノアはピクリと眉を上げた。味方と言いつつノア達に不利になるようなシステムを開発しようとしていた、というのはどうにも可笑しな話ではないか。

 そんな空気を感じ取ったのかヴィクターがわたわたと両手を振ってみせた。


「作ったのはもう何年も前の話ね? 今思えば悪手だって思うよ。でも、とにかく俺は見つけたかったんだ。あんたみたいな存在を」

「……何故?」

「当然っしょ? IDEOに勝てるのは、IDEOに依存しない奴だけだ。なあ、俺はもう十分すぎるくらい話したと思うけど。そろそろあんたからも話してくれよ。どうやってIDEOの手から逃れ続けた? ドリーゼに代わるような薬を開発できたってのか?」


 なるほど、ノアが夢を見ることが出来るというところまでは辿り着いていないらしい。その安堵を悟られぬよう、ノアは肯定も否定も表情には出さなかった。

 一方で、このまましらを切ることも出来そうにないと感じていた。ヴィクターはノアがIDEOの闇を暴こうとしていることを確信している。もしこれが鎌をかけているだけにせよ、ノアが否定したとて信じはしないだろう。

 ならばもう、とことん相手の手の内を知るしかない。ノアは蝶ネクタイを緩めながら低い声音で尋ねた。


「IDEOの目的は何だ」

「俺の質問に答える気はないってわけね。オーケー、良い度胸だ。じゃあ俺も素直に答える義理はないね。あんたたちの考えを聞かせてよ」


 それならばデメリットは少ないと考え、ノアは失言の無いように気をつけながら頭の中で言葉を練りつつ口を開く。


「国家としての独立、そう考えていた。今日までは」

「ほうほう」


 ヴィクターは余裕の表情だ。やはりこれは見当違いだったらしい。


「とても幼稚な言い方しか思い浮かばないんだが……」

「ふんふん」

「つまり、それは…… 世界征服のような」


 ヴィクターの切れ長の瞳が一瞬、キラリと光った。独りぼっちの少年がやっと話し相手を見つけたような、そんな無邪気さを孕んでいた。返事はない、けれどノアはそれを肯定と受け取った。

 形のない大きな暗闇に輪郭が生まれたような感覚がした。目的に一歩近づいたような達成感の後ろから、信じたくないという絶望感が押し寄せてくる。そしてその絶望感は一瞬にしてノアの心を埋め尽くした。


「本当なのか。本当に、そんな馬鹿げたことを」

「道徳的に言えば馬鹿げている。だけど、理屈で言えば馬鹿げちゃいないんだな。共感夢、あれが全てを可能にしちまった。まあ作ったのは俺なんだけど」

「何てことをっ!」


 パーティー会場に入ってからというもの幾度となく押し殺していた感情が、ついに溢れ出てしまっていた。瞳に明らかな怒りの色を乗せ、ノアはヴィクターの胸倉を掴んだ。


「それもまた仕方がないと言うつもりか!?」

「ああ、その通り。それしかなかったのさ、ロッド患者を救うには」


 はっとして両の手の力を緩めた。ヴィクターは嫌な顔一つせず、静かに襟元を正す。


「ロッド患者を、救う? そんなこと……」


 出来るわけがなかった。ロッドに陥れば、もう自発的に擬似夢を見ることは出来ない。そして、ロッド状態の者のスキャナに擬似夢を流したとて、刺激が強すぎるためにショック死してしまう。

 そう、従来の擬似夢であれば。


––––加えて、共感夢にはさらに嬉しい点があります。ずばり脳波です。これまで一人で受けていたバグの影響を複数人で分配することで、脳への影響を大幅に減少させることに成功しました––––


「あっ」

「そう、可能なんだ。共感夢なら。もうテストは済んでいる。ロッド状態の患者が次々と回復してるんだ。でも……」


 ヴィクターは苦虫を嚙み潰したような顔で下を向く。続きは容易に想像が出来た。


「IDEOは共感夢を悪用している、と」

「ああ。最初は使い捨ての信者を再利用できるって言って喜んでいた。そこまでは俺の想定内だったし、仕方のないことだと受け入れてたんだ。ロッドのまま死ぬよりは幾分ましだろうって。でも、奴らは更に悪知恵を働かせた。共感夢で悪夢を見せ始めたんだ」


 ノアがすぐに導き出した答えを、ヴィクターはにも思わなかったようだ。

 開発者というのは自分が生み出したものがどのように運用されるのか、そこのところを理解しきれない節が往々にしてある。

 彼らが倫理観に欠けているわけではない。ただ、研究に没頭するうちに忘れてしまうのだ。人間というものが存外に邪悪だということを。


「それまでは反抗的な信者を個別に呼び出して悪夢を見せたり、夢を与えずにロッド化させてたんだ。でも今は信者を数十人でグループ分けして、仕事の達成率が悪いグループ全員に悪夢を見せんのさ。そうすると信者の怒りはIDEOじゃなく周りの仲間に向けられる。『お前がちゃんと働かないから俺まで』って具合にね。今じゃIDEOに疑念を抱く奴は殆どいないよ。みんな隣人を見張るのに夢中になってんのさ」


 誰かを救う為に作り出したそれが、他の誰かを傷つけるために利用される。その苦しみは如何ほどであろうか。

 ノアはヴィクターを見つめる。彼の瞳は静かに燃えていた。あの瞳に押し殺していた怒りは、他でもない、IDEOに向けられたものだったのだとノアは悟った。

 目の前の男を信じようと思うのに時間はかからなかった。


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