第36話 共感夢
「紳士淑女の皆さん、ようこそお越しくださいました。本日の進行を務めさせていただきます、ヴィクター・バーンズと申します」
低く響く声で、男はそう名乗った。
ヴィクターが話し始めると、ほの暗い席の合間をスタッフが練り歩き始めた。どうやらスキャナを配っているようだ。スキャナと吸入型の睡眠剤を手渡され、ノアの口角は一瞬ひくっと上がってしまう。新製品のお披露目とあったのだから当然の流れではあるのだが、やはりIDEO製の擬似夢を見るというのは苦痛である。
睡眠剤に関しても、ノアは即効性のある吸入型より錠剤の方を好んで使う。キャンドルの炎に微睡みながら、紅茶を飲み終わる頃に夢へと堕ちていく…… そんな一連の流れにもこだわっているのだ。
これで脳波が極端に乱れでもしたら、ドリーゼを打ちにIDEOに赴かなければならない。そんなことにはなりたくない。
「スキャナは行き渡りましたでしょうか。まあ、まずは乾杯といきましょう。記念すべき日を皆さんと過ごせる幸せに、そして、IDEOの永劫の繁栄に…… 乾杯!」
「乾杯!」
招待客が声を揃える。ノアは手に持ったスパークリングウォーターを一口飲み込んだ。
一体これから何が起きるのかと興味津々の招待客を、ヴィクターは勿体ぶる様に眺めた。擬似夢の発明から約十五年、これといった新しい風は吹いていない。スキャナの軽量化や、擬似夢がほんの少し精巧になったなど、その程度である。
十五年ぶりの新製品、会場はライブ会場かのような興奮と熱気に包まれていた。
「待ちきれないといったご様子ですね。私もやっとこの日を迎えられて嬉しい限りです。それでは早速、お披露目といきましょう。皆さま、スキャナを装着ください」
睡眠導入剤を吸い込み、スキャナを装着する。会場全体がすうすうと寝息に包まれ出すと、ヴィクターがパチンと指を鳴らした。
◆ ◆ ◆
その瞬間、ノアは青々とした森の中にいた。川のせせらぎに小鳥の囀りが聞こえる。温かな木漏れ日が差し込み、青色に輝くアゲハ蝶がひらひらと視界の前を横切った。
確かに映像技術は向上したようだが、これのどこが新製品なのかとノアは首を傾げた。次の瞬間––––
「ク…… トーマス?」
「なっ、立花様?」
振り向くと、そこには立花が立っていた。もちろん映像ではなく本人である。
それはこれまででは考えられない現象だった。擬似夢というのは一つのスキャナに一つのチップを差し込み、それを読み取るものである。それなのに、ノアの擬似夢の中に立花が存在する。つまり、これは……
「いかがでしょうか。これこそがIDEOが自信を持ってお届けする新製品。共感夢です!」
どこからともなくヴィクターの声が響いた。
「只今はお連れ様と同じ空間に設定しておりますが、簡単な操作一つで……」
視界が一瞬揺らぐと、ノアは幾千の星が瞬く夜空の中を揺蕩っていた。しかも、周りには何十という招待客の姿もある。皆一様に驚きを隠せていない。
「このように任意のスキャナを選択し、共感夢を見ることが可能です。……残念ながら、今の私共の技術では人物の精巧な再現は不可能です」
ヴィクターは申し訳なさ気に言うが、ノアは「大嘘だ」と心の中で舌打ちをした。擬似夢作成班を奴隷のように消耗することで、人物の再現を可能にしているくせに。ここでそんな嘘を吐くということは、やはり今回のパーティーはライト層向けなのだと再確認することが出来た。
ヴィクターは政治家の答弁のように声に熱を持たせる。
「しかし、この共感夢があれば皆さんは一人じゃない! 神秘的な夜空も、泣きたくなるようなサンセットも、心安らぐ森林も、隣には愛する者がいる!」
周りからどよめきと歓声が起こった。立花もノアを慮ってか抑えてはいるが、その瞳は輝いていた。
当然だ。この共感夢さえあれば、夢の中で杏に声を聞かせることが出来るのだから。ノアが作り出したAIではなく、本当の肉声を。
「加えて、共感夢にはさらに嬉しい点があります。ずばり脳波です。これまで一人で受けていたバグの影響を複数人で分配することで、脳への影響を大幅に減少させることに成功しました。これだけ精巧な擬似夢を長時間見ていても、負担はなんと従来の十分の一! 三名以上ならさらに負担は下がります。どうでしょう、お気に召しましたか?」
返事は分かりきっているとでも言うような声音に嫌気がさす。皆がそれに応えるように割れんばかりの拍手を送る。「ブラボー!」なんて声も聞こえる始末だ。
ノアは周りに混じって拍手を送りながら、湧き上がるものを必死に押しとどめていた。
共感夢、これまでオフラインだったもののオンライン化。これがどれほど恐ろしいことか。もしも共有される擬似夢が残虐性に富んだものなら? ろくにバグ処理もされていないものなら?
IDEOによるスキャナへの干渉、これは従来のものにも適応されるのだろうか。渡されたスキャナは特に最新デザインでもなかった。
IDEOに関わりさえしなければ安全、というこれまでの前提が覆された。今この瞬間、スキャナを使う全人類が奴らの人質になったのだ。
ノアのこの最悪の想定を裏付けるかのように、ヴィクターは説明を続ける。
「こちらの共感夢ですが、新しく専用のスキャナをご購入いただく必要はございません。簡単な設定一つで、どなたでもご利用いただけます!」
また会場内から拍手が起こる。ノアはもう拍手をする精神ではなかった。しかし、異変に気付いた立花に小突かれ、なんとか拍手のまねごとをする。
ヴィクターはきっとモニターを通してこの擬似夢を覗いている。夢の中だろうと表情を崩してはいけない。
「共感夢は少々お値段もしますが、パートナー、ご家族、ご友人とシェアすることを考えますとむしろ以前よりもお安いくらいですよね」
そこなのである。これまで擬似夢というのは高価なものであり、そう簡単に手を出せる代物ではなかった。それ故貧富の差は深まり、ロッドに罹る者も後を絶たない。
ロッド寸前の者や重度の精神不安者を入院させることで信者を増やし、富裕層にはオーダーメイド品を提供することで資金を増やす。それがIDEOのやり方だ。
一度チップを読み取ると、スキャナが自動的にそのチップのシリアルナンバーを登録する。以降別のスキャナで読み取ろうとするとロックがかかるシステムだ。「夢は個々人のものであり、これはプライバシー保護の観点から必要なシステムである」とIDEOは言っているが、要は貸し借りを封じているのだ。
データを閲覧するだけで罰金刑、データの改ざんはさらに重い罪が待っている。
そうやって徹底して擬似夢を管理していたというのに、ここにきてこの方針はあまりに不自然である。
信者を増やし独立することが最終目標であるならば、擬似夢への敷居を下げる必要はないはずだ。脳への負担を下げてしまってはドリーゼを打ちに来る者も減り、当然IDEOの利益は落ちるだろう。
鎖国や独立が目的ではないとしたら? この共感夢の普及こそが奴らの目的なのだとしたら?
IDEOは––––
「この世界を……」
ぽつりと呟いた言葉は、星の瞬きの中に溶けて消えた。
◆ ◆ ◆
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