第35話 新製品
パーティー会場にはすんなりと入ることが出来た。外は
純白のクロスを被せられたテーブルの上には彩り豊かな料理が並べられ、所々に飾られている生花の趣味も、まあ悪くはない。立食形式のため、招待客は思い思いの場所で談笑している。
入り口と対となる壁が一面舞台となっており、今は真紅の幕が下ろされている。その手前には高級そうなリクライニングチェアが、舞台の方を向く形で等間隔に並べられていた。おそらくあそこで新製品のお披露目が行われるのだろう。
気を引き締めるように、はらりと垂れたこめかみの毛を耳に掛け直す。今夜は立花蓮也の新しい秘書、トーマス・ターナーという体で来ている。友人という設定ではボロが出る可能性があるからだ。
クロークでコートを預けると、会場を練り歩くスタッフのトレーからシャンパンを一杯頂戴する。「立花様」と一言添えてそれを渡すと、彼も「ありがとう」と朗らかに受け取った。
「トーマス、君も飲みなさい。今日の仕事はもう終わったんだから」
「いえ、私は結構です」
「まったく、君は真面目だな」
「立花君、久しぶりじゃないか!」
唐突に話しかけてきたのは、五十代かそこらの夫婦だった。旦那の方は既に酒が回っているのか鼻を真っ赤にしている。
心の準備も整いきれていないノアに対し、立花は流石の落ち着きようだ。やはり場慣れしているというのは違う。
「ベイカー様! お久しぶりですね、二年ぶりでしょうか。今夜はご夫婦で?」
「ええ、ごきげんよう。ミスター立花」
ベイカー夫人は立花に挨拶を投げかけつつも、隣のノアに熱い視線を送った。
スパンコールのドレスがギラギラとシャンデリアの光を乱反射している。きつい夜会巻きがほら貝の様で、紫色のアイシャドウも夫人の肌の色には微妙に合っていない。お姫様をイジメる継母のような女だとノアは思った。
しかし勿論、そんな感情は微塵も表に出しはしない。己から名乗るなんて恐れ多いというように、静かに目を伏せて会釈をする。ノアの長い睫毛を、ベイカー夫人はうっとりと眺めた。
「彼は新しく雇った秘書のトーマスです。トーマス、知っているだろうが、こちらはベイカーグループの……」
そうやって立花の周りには次から次へと金持ちが集まった。
普段の人当たりの良さから、彼が立花グループのトップなのだということを忘れかけていた。やはり友人ではなく秘書にして正解だと、心の中で頷いた。
紳士は投資の話を、淑女は知人の女性をしきりに紹介したがった。要は後妻候補だ。まあ無理もない、彼はまだまだ働き盛りの三十代で、子持ちといってもそれは一人娘。彼との間に息子が生まれれば…… なんて魂胆が丸見えだ。
短い付き合いだが、立花は彼らの紹介するような女性に心を惹かれたりはしないだろうと、ノアは確信していた。
そうやって静かに立花の後ろで話を伺っていると、関係者用の出入り口付近でベンソン・モーズリーを発見する。扉の前に立つ警備員と短い会話を交わすと、ベンソンはまた別の警備員の元へ向かっていった。どこか一つを警備するのではなく、会場全体を管理しているようだ。
先日の天然パーマの冴えないチャーリーと、今夜のタキシード姿のトーマスを同一人物だとは思わないだろうが、念のためベンソンの視界に入らないよう、ノアはそっと立花の陰に隠れた。
結局、ベンソンには一切の協力を仰がなかった。彼が信用出来ないという話ではない。ノアがパーティーに潜入していると知れば、きっと態度に出てしまうと考えたからだ。
今まで真摯に警備してきた対象が、怪しい組織かもしれない。常に金持ちと腹の探り合いをしてきた立花とは違い、ベンソンはその疑心を隠し切れない。ベンソンと直接会って、その優しくも脆い一面に触れ、ノアはそう結論付けた。
そういえば、アイザックは来ていないのだろうか。会場をザっと見渡してみるが、そこに彼の姿は見当たらない。
養殖業のノウハウとランドルフ家の後ろ盾を得るという関係は継続しているはずだ。IDEO主催のパーティーなんて、彼らの繋がりを見せつける絶好の機会だろうに。婚約を解消したばかりだから今回は呼ばれなかったのだろうか。
やっと欲深い者達から解放された立花が、ふうと大きな溜息を吐いた。
「誰かお探しですか?」
「ええ、アイザック・ネルソン氏を。立花様、敬語」
「おっと。ネルソン氏とも知り合いなのか? 確かに、
「当然? 養殖業がですか?」
「え? いやいや、ネルソン氏と言えば養殖というより、その培養法だろう。プラナリアの細胞を利用した独自の技術は、実に興味深い」
プラナリアと言えば、切断した箇所から新しい身体を生み出すという、あの生物のことだろうか。
立花はさらに説明を続ける。
「卵からではなく成体の細胞からの複製を可能にしたんだから。今は魚類だけらしいが、家畜や作物にも応用できるだろうね。彼の技術を突き詰めていけば、いずれは人間の臓器だって再生可能だ。そうなれば、革命どころの話ではないね」
そう明るく話す立花に、上手く返事をすることが出来なかった。ひどい喉の渇きをおぼえた。
これがただの世間話ならどれだけよかっただろう。ノアも興味津々で、発展した医療のその先を思い描けたのかもしれない。しかし、今はそれどころではなかった。
そんな話、アイザックからは何一つ聞かされていない。
ノアの表情から事態を悟った立花は、困ったように目を泳がせた。アイザックと協力関係にあるのならば、知っていて当然と思ったのだろう。言い訳をするようにおずおずと言葉を選び紡ぐ。
「あー、私も杏の耳のことがあって、方々周ってやっと掴んだ情報だからね。それくらい表に出ていない話ということだ」
「左様…… ですか」
夢屋でもアイザックのことは一通り調べてはいたが、独自の技術で養殖スピードを大幅に上げたという情報しか得られなかった。
IDEOも信者を増やす中で食糧確保を急いでいるのだと、そう推測していた。それが何だ? 人間の臓器すら作り出せるかもしれない培養技術だなんて…… それは食料の安定からの独立なんて比じゃない、様々な事態を想定させる。とても趣味の悪い、想定を。どうして話してくれなかったのだ。
一代で成り上がったアイザックにとって、それ程に貴重な切り札だったということか。ランドルフからの援助を十分に受け、盤石な状態であれば全てを明かしてくれていたのかもしれない。
しかし、あの日の彼はマーガレットの夢にすっかり浮かれていたように見えた。まだ己のカードを伏せるだけの余裕があっただなんて…… もしかすると夢屋は、アイザック・ネルソンという人間を見くびっていたのではないか?
ノアはごくりと生唾を飲み込んだ。
「立花様、もう少し詳しく––––」
「大変長らくお待たせいたしました。間もなく開演のお時間です。皆さまどうぞ舞台の前のお席へおかけください」
アナウンスとともに会場の照明が徐々に落とされ、正面の舞台にスポットライトが当てられた。誘導係に従って、皆がゾロゾロと動き出す。
ノアも今夜ここに来た目的を思い出し、言葉をぐっと飲み込んだ。
ついに、幕が上がる。
真紅の幕の向こう側には、男が一人立っていた。皆が盛大な拍手を送る。ノアも怪しまれないよう、パチパチとそれを真似た。男は鳴りやまぬ拍手に爽やかな笑顔で応えている。
一目見て、黒豹のような男だとノアは思った。単に男が黒髪だからというだけではない。スクエア型のメガネから覗く切れ長の瞳は冷たく、しかし同時に獰猛ですらあった。獲物に食らいつく前の、静かに息を殺す黒豹。まさにそんな印象だ。
背丈はここからでは測りかねるが、エリックよりも長身かもしれない。本職はモデルだと言われても信じてしまいそうなルックスに、周りの淑女も頬を染めている。
真っ白な歯を覗かせた笑顔…… ただ、何かをぐっと奥に仕舞い込むかのような男の瞳が、ノアはどうにも気になった。
ふと、誰かに似ているなと思う。
拍手は尚も鳴りやまない。会場のスタッフがマイクを持ってやって来ると、男は「ありがとう」とそれを受け取った。
笑っているのは口元だけで、瞳はちっとも笑っていない。ノアのシャンパンを受け取った時の立花と比べると、その差は天と地ほどあった。しかし、周りはそんな違和感にも気が付かないようだ。
そこでようやく思い至った、そんな風に笑うもう一人の人間に。
似ているのは、自分だ。
「……何を馬鹿なことを」
「ん? トーマス、何か言ったかい?」
「いえ、何でもありません」
IDEOの人間と自分が似ているなんて、そんなことがあってたまるか。自分で思っておきながら、怒りがふつふつと湧き上がる。ノアは周りに気取られぬように、眉間に皺が寄るのを抑え込む。そう、この瞳こそがあの男と同じなのだ。
ならば、あの男は何を押し殺しているというのだろうか。IDEO主催のパーティーで、自分たちが呼び寄せた客に囲まれて、あの黒豹は何に怒りの炎を燃やしているのだろう。
ノアはそこで思考を止めた。探るべきは敵の腹の内であって、心ではないのだから。そもそも、奴らに人の心などないのだから。我々は決して分かり合えない存在なのだから。
そう、言い聞かせるように––––
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます