3.妻には言えない

 ***


 三十万を超えるヴァンの分身たちに、ヴァン[ネイルド共和国]から情報が届く。


 現在ヴァン[ネイルド共和国]は戦闘地域を探している。この先を考えると、無限に等しい魔力を持つヴァンでも流石に魔力を節約しなければならない状況になった。分身とテレポートは消費魔力が大きいため、人数は最低限に絞り、国境線上を飛行魔法で捜索しているとのこと。その方法でも五分とかからないだろう。


 そして「それぞれ自分のやるべきことを」と念押しされた。強硬策に出た総理に手痛いしっぺ返しを与えるためにも、ヴァンはヴァン自身の計画も同時に遂行しなければならなかった。その過程で最も重要なのが、妻を誘拐から防ぐことだ。


「ヒューはここで何したらいいのっ?」


 第六夫人・ヒューネットは張り切って胸の前で両拳を握る。少女のようなあどけなさと元気いっぱいなテンション。色素の薄い肌や瞳は、抱きしめておかなければ消えてしまいそうなほどの透明感を漂わせていた。


「────って感じだ。だから布団をかぶって隠れていよう」


 ヴァンは事情を説明して提案する。こうして別荘に避難し、さらには顔を隠すという作戦だ。このヴァンは無数のヴァンの中でも数少ない、おいしい役目を負ったヴァンである。この機に乗じて妻をベッドの中に引き摺り込むのだ。


 ヒューネットは長いまつ毛の下で大きなお目々をぱちくりさせて、その後じとっとした目に切り替えた。


「ヴァンっ? そこに座りなさいっ!」

「?」


 ヴァンは彼女の指示に従い、近くの椅子に腰掛けた。ヒューネットは腰に手を当て、やれやれといった態度で告げる。


「ヒューは賢いので、ヴァンがえっちなことをしようとしているのを見抜いていますっ」

「そ、そうか」


 ヴァンの企みは基本的に上手くいっていなかった。魂胆が見え見えだし、今はそれどころじゃないからだ。


「ヴァンがヒューのこと大好きなのは嬉しいけどねっ。でもその作戦はおかしいですっ」

「はい……」

「ほんのちょっぴりだけでも誰かがここに来ちゃう可能性があるんでしょっ。そんなとこで恥ずかしいことはできませんっ!」

「はい……!」


 ヴァンはうな垂れる。ヴァンとしてはこの困難な状況の中でちょっとでも癒しが欲しかったのだ。しかし彼女の言い分はもっともである。正直言って誘拐犯がこっちに来る可能性があるというのはほとんど妻とベッドに入るための口実でしかなかった。その口実を理由にイチャイチャを拒否されていては世話ない。


「ねぇヴァンっ、避難するならさっ、お外にしようよっ!」

「だ、妥当だ……」


 世間はヴァンの妻が誰なのか知らない。顔も名前も秘匿されている。ヴァンが所有する物件の中にいるよりも外にいた方が安全なのである。ヴァンが厳重に顔を隠し、場所をヴァンの顔がそこまで認知されていない海外に絞ればデートだって可能だ。


「二人で一緒に遊んでさっ、いっぱいラブラブな気持ちになってから夜にベタベタした方が楽しくないっ?」

「確かに……! 流石だヒュー!」


 ヴァンは首がもげそうなほどうんうん頷いた。アイディアガールの異名を取る彼女は素敵なアイディアを提供してくれることが多い。そしてやると決めたら一直線。


「えへへっ! ねえ、どこ行こっかっ! すぐ行こっ!」


 ヒューネットは純粋無垢な目をキラキラ輝かせ、嬉しそうにぴょんぴょん跳ねた。腰まで伸びるサラサラストレートヘアーを波のように揺らす。彼女は妻の中では最も小柄であり、童顔だ。こうしてちょっと子どもっぽい振る舞いをされるとヴァンはまるで自分が罪を犯している気分になってくる。でもちゃんと法的に結婚できる年頃の女性だ。


「どこでもいいぞ。ヒューが行きたいところに行こう」


 世界のどこへでも一瞬で連れて行ってあげられる。それがヴァンの特技である。ヒューネットは勢いよくヴァンに抱きつき、


「やったっ! 結婚してっ!」

「しただろ?」

「そうだったっ! 幸せっ!」


 彼女は感情をまっすぐ素直に表現する。それは尻尾にも表れており、大きく揺れるそれをヴァンは凝視していた。


 あちこちでこき使われて荒みかけていたヴァンの心が一気に潤う。呑気にデートしているなんて世界平和のために必死こいている他の分身たちには申し訳ないが、妻の護衛は最も重要な任務だ。精一杯楽しませてあげようではないか。


 ────しかし、ヒューネットの一言によりこのヴァンも一気に窮地に陥る。


「あっ! あそこ行こうよっ! ギリザナのパン屋さんっ!」

「……っ!」


 ギリザナは現在、戦場になりかけている。


「あのメロンパンすっごく美味しかったよねっ!」

「だ、だな」


 ヴァンは海外でのデートを繰り返していたため、世界のそこら中に馴染みの店がある。ギリザナの小さな街にあるイートインスペースが設けられたパン屋さん。たまたま立ち寄って食べてみたら二人揃って悶絶するほど美味かった。……だからってよりにもよってこんな時に。


「あー、ヒューもうメロンパンのお口になっちゃったよっ……」


 つぶらな瞳を閉じて両頬に手を添えるヒューネットは犯罪的に愛らしかった。絶対に食べさせてあげたい。しかし連れて行くわけにはいかない。


 そして事情を説明するのも憚られた。自分たちの結婚が戦争を引き起こそうとしているなど、彼女に知られるわけにはいかない。どうせ後に何らかの形でニュースにはなるだろうが、できれば全て丸く収めてから「結局大丈夫だった」という形で知ってほしい。


 妻と付き添う分身の重要性が増す。妻を守るだけではなく、戦争の件を知られないように努めなくては。いよいよもって全ての分身が慌ただしい。


 ヴァンはヒューネットに「どこでもいい」と言ってしまった。今更断るのも難しい。確かあの店はネイルド共和国との国境線とはかなり離れた街にあるはず。状況次第では小一時間滞在するくらいはできるかもしれない。ヴァンは一応現地の状況を窺いに行くことにした。


「て、テレポートできる場所を探してくるな」

「うんっ」


 まずは人気のない場所を探す。それが妻とのデートの習わしだ。魔法を知らない他国に魔法で突如出現するわけにはいかないのだ。ヴァンだけなら魔法で身を隠せるがヒューネットまでは透明にできない。


 ヴァンは分身し、一度自宅に戻ってサングラスとマスクで顔を隠す。そしてギリザナにテレポートした。


 街や人々を念入りに観察する。テレビが流れている場所も探す。


「これは……?」


 ギリザナの国民たちは穏やかに日常を過ごしていた。戦争の件はニュースにもなっていない。国民たちはまだ何も知らないのだ。そして分身で確認してみたところネイルド共和国も同様の状況だった。


 ────きっと両国首脳は、ヴァンと同じことを考えている。ギリギリまで開戦を避ける術を模索し、無益な争いをせず、国民には「結局何も起こらなかった」と伝えたい。そんな本音が滲んで見える。彼らだって本当は戦いたくないのだ。


 であればお互い素直に引き下がってほしいところではある。だが、どちらも相手が先に動き出したと考えているのが厄介だ。ギリザナからすれば「ネイルド共和国にミサイルを撃たれそうになった」だし、ネイルド共和国からすれば「やってもいない攻撃に対抗されようとしている」だ。両者とも自国を守るためには嫌でも戦わなければと判断してしまうのも仕方がない。


 そしてここまで緊張が高まってしまえば、もう彼らは彼ら自身では止まれないだろう。全てはヴァンの働きにかかっている。


「……絶対に阻止しないとな」


 図らずも現地を観察できて良かった。ヴァンは決意を新たにする。


 だがその仕事は担当の分身に託す。このヴァンがやるべきことは、ヒューネットに事実を知られないようにすること。報道規制されているならここに連れてきても問題はないかもしれないが、両政府がいつまで隠し通せるのか不透明だ。


 やむなくヴァンは例のパン屋でメロンパンを含めた大量のパンをテイクアウトした。大慌てで自宅へ舞い戻る。


「すまん、ヒュー。お店が混んでたから中では食べられそうもなかった」

「そっか……っ。でも買ってきてくれたんだねっ! わっ、こんなにいっぱいっ⁉︎」


 店の雰囲気を味わえない分、量でカバーした。そしてせめてエンタメも提供する。


「どっちがどれを食べるかドラフトしよう」

「むむっ! こりゃ楽しくなってきたよっ!」

「どこか自然の中で食べようか。海と山と氷の世界と砂漠ならどれがいい?」

「うーん……、海っ!」


 さらに、さりげなく情報を遮断された場所へお連れする。よし、条件を満たしつつ充実したデートになりそうだ。あとは任せたぞ、他の分身たち。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る