17.ビースティアの力

 ***


 もう迎賓館に出勤する必要はない。自室に戻ったミオはうつ伏せで枕に顔を埋めていた。


 どこで間違ったのだろう。どうすれば彼のそばにいられたのだろう。……いやきっと、どうやったって望みはなかったのだ。あちらは結婚していて、奥様を深く愛している。最初からミオの入り込む隙間などなかった。


「ヴァンさん……ヴァンさん……」


 きっともう会うこともない。その事実がミオの胸を締め付けた。失恋とはこれほど辛いものなのか。

 そして諜報員としても大失態だ。好きになってもらうための作戦だったのに、好きになったのはこちらだけで、国に与えられた四つの課題は一つもこなせなかった。イリスにどう報告すればいいのか。


 ────いや、まだ。


 彼を諦めたくない。作戦失敗を伝える前に、ミオは最後の手段を選ぶ。


「魔法……ビースティアの方の……」


 魔法を使えるのはファクターだけではない。

 ビースティアにはまた別の、神秘の力が秘められている。


 ────ビースティアが誕生したのは数千年前とされている。猫と人間が混じり合うという奇妙な存在を生んだのは、”始祖のフィア”と呼ばれる猫だ。長い間月光を浴び続けたフィアは魔力に目覚め、人間に化け、人間の青年と結ばれた。その子孫がビースティアとなった。


 あくまで伝説であり御伽噺。しかしあながち創作とも言い切れない。事実としてビースティアは魔力を宿しているのだから。


 ビースティアが使える魔法はたった一つ。────願いを何でも叶えられる。


 一見して強力無比だが、当然落とし穴もある。むしろ穴だらけで使えたものではないと言っていい。始祖のフィアから何十代、何百代も下の世代である現代のビースティアにはほとんど魔力が残されていない。流れているフィアの血をパーセンテージで表すには随分横長の紙が必要となる。魔法で叶えられる範囲もそれだけ絞られてしまうのだ。


 そして何より、対価が大きすぎる。この魔法を使用した者は、……命を落とす。


 使った翌日から高熱が出始め、いかなる対処をしようと命を失うまでその熱が下がることはない。どれだけ血が薄まって魔法の効力が落ちようが、この対価はビタ一文変化しない。ビースティアの奥義であったこの魔法は今や理不尽で危険なだけの魔法に成り果てた。


 自分にはどれだけ魔力があるのか、どれだけの願いを叶えられるのか、試してみるまで分からない。しかし使えば死ぬ。そんな魔法が危険視されるのは当然の流れだった。誰も使うことはなく、いつしか魔法の存在はタブーとされ、現代では知らない者の方が圧倒的に多い。


 その魔法を、ミオは過去に四回使用している。


「今までの感じだと……ダメ元になっちゃうわねぇ」


 ミオの願いは、「ヴァンに振り向いて欲しい」。しかし人の感情を書き換えるなんて奇跡を起こせる予感は全くなかった。過去の経験から抱いた自身の魔法に対する感想は、「携帯電話の方がよっぽど万能」程度のもの。とてもあてにはできない。それでもせっかく使えるのなら試してみなくては。


 ミオはファクターとのハーフである。それ故か、────対価も半分。使用すれば数日寝込むことにはなるが死ぬほどではない。ビースティアの力はミオのファクターの部分に一切影響しないのだ。


「つくづくファクターとビースティアは相性が悪いのねぇ……」


 両者の間に子どもができないのは今この国中が頭を抱えている問題。その理由も科学で解明できずにいる。だがミオのケースばかりは両者の不可思議な反目が功を奏した。ミオは恐らく、世界で唯一魔法を使えるビースティアだった。


 とはいえ上司の許可なく使うことは禁じられている。今まで生き残れたのはたまたまで、次こそ死んでしまうかもしれないからだ。だがどっちにしろ現状与えられた任務をしくじった身。どうせ怒られるなら同じこと。


「……」


 ミオは意識を集中し、願った。────ヴァンに振り向いて欲しいと。体の芯が熱を持つような感覚。まるで崖から飛び降りるような恐怖心が伴う中、今魔法が放たれる。


「……っ⁉︎」


 体験したことのない不思議な感触だった。ミオの魔法は成功失敗以前に、弾かれてしまったような手応えだけを残した。


「何……? どういうことなの?」


 命懸けの想いが儚く消し飛んだ。なぜ……? 彼には魔法が通用しない……? それもファクターとビースティアの相性の悪さ故なのだろうか。いや、しかし、過去に使用した四回の内二回は任務で追っていたファクターに使った。片方は成功し、片方は失敗した。どちらも経験済み。今回の感触は過去の例と明らかに違う。


 普通のファクターと彼に違う点があるとすれば────、


「ルーダス・コア……?」


 ヴァンがその身に宿しているスナキア家の秘宝。強大な魔力の根源。


 考えてみればなるほど、納得がいく。世界の敵であるスナキア家当主にビースティアの魔法が効くのならこれまで無事で済んだはずがない。ビースティアの命を犠牲にして打倒しようという動きは各国で考えられていただろう。そもそもこの魔法にはもはや人の命を奪うほどの力もないだろうが。


 ルーダス・コア保持者にビースティアの魔法は通用しない。この知見は諜報部に共有しておくべきだ。追い詰められたこの国家がその手を打つ前に。


「本当に無敵なのねぇ……」


 いよいよ世界に、この国に、彼を動かす手段はない。彼ほど強い人間をミオは初めて見た。今後もきっと出会うことはないだろう。


 ミオの命懸けの魔法を以ってしても何も変えられなかった。これにていよいよ万策尽きたのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る