終章
終章
クリスマスを目前に控えた繁華街は、鮮やかなイルミネーションが輝いている。鈍色の雲から綿みたいな雪が音も無く降り始め、子供たちがきゃあきゃあと声を上げて笑う。
翔太はPコートに落ちる雪の華を見遣り、ポケットに手を入れた。乾いた冷たい風が頬を撫でる。マフラーも持って来るべきだった。吐く息が白く染まる。肩を丸めて首を竦めると、体の芯が震えるような気がした。
賑わう街中を独りで歩いていると、若いアルバイトが風俗店のビラを差し出した。翔太は目礼してから、さっさと歩き出した。
ポケットの中で携帯電話が震える。取り出してみると、立花から着信が残っていた。翔太は折り返しはせず、そのまま歩き続けた。
雑踏に紛れながら、神経を研ぎ澄ませる。
人混みの奥にトレンチコートを着た男性がいる。凛と背筋を伸ばし、革靴は忙しなくアスファルトを叩く。まるでクリスマスのイルミネーションも雪景色も見えていないかのようだった。
男性が商業ビルの自動ドアを潜った所で、翔太は足を止めた。
追手の気配が消えるまで歩き続け、翔太は携帯電話を取り出した。着信履歴から立花の番号を呼び出して電話を掛けると、ワンコールと待たない内に応答があった。
地を這うような低い声で、立花は不機嫌そうに言った。
『まだ甘ぇ』
翔太は苦笑した。
視線を上げると、目まぐるしく動き回る人々の中にトレンチコートの男――立花が立っていた。携帯電話を耳に当て、幽霊のような希薄な存在感で此方を見ている。
「アンタは勘が良過ぎる」
『手加減してやってるだろ』
「どうだかな」
翔太は笑った。
探偵ごっこだ。ターゲットの振りをした立花を、翔太が監視カメラに注意しながら尾行する。気付かれたら離れ、目的地を突き止める。ただそれだけの遊びだった。
立花が先代ハヤブサとよくやったらしい。
足音の消し方、視線の向け方、一般人の振り。ビラを渡された時の躱し方が上手くなかったと思う。立花は誰にも呼び止められなかったし、不自然じゃなかった。
役になり切るべきだったと、翔太は反省した。
自分はどんな役だっただろう。どんな人間で、何を目的にして、どんな風に街を歩くのか。役を掘り下げていけば、選べる選択肢も増えるだろう。
間抜けなクリスマスソングが鳴り響く。
あわてんぼうのサンタクロース。翔太は舞い落ちる雪に、一年前の出来事を想起した。立花の事務所に転がり込み、国家規模の大きな依頼が舞い込んで、翔太は
自分も湊も防戦一方だった。今の自分ならどうするだろう。
圧倒的な強者を相手にして、戦うか、逃げるか。翔太は少し考え、逃走の技術が足りなかったことを反省した。
湊はウィローの地図を使って、得意な土俵に持ち込んだ。自分には手札がなかった。それは落ち度だ。足りないものは補うしかない。その時、立花が言った。
『もうすぐ、あいつ等の誕生日だな』
立花はクリスマスツリーを眺め、思い出したみたいに呟いた。翔太は頷いた。あの日からもうすぐ一年。――湊と航の誕生日だった。
「なんかやれよ」
『俺より金持ってんだろ』
そういうことじゃないだろう。
立花は相変わらず無愛想でぶっきら棒で、風情の分からない男である。しかし、他人の誕生日を覚えていると言うことが、彼なりの変化であることは知っている。
「電話の一つでもしてやれば?」
『お前がすれば?』
そうだな。
立花が誕生日に電話なんてしたら、槍が降るだろう。
翔太が曖昧に肯定すると、立花は挨拶も告げずに通話を切ってしまった。雑踏の中にトレンチコートの姿はもう見付けられない。
翔太はそのまま電話帳から、湊の番号を呼び出した。
何度か掛けたが、繋がらない。そのまま彼の弟の番号に掛けると、今度はあっさり繋がった。
『Hello?』
柔らかなアルトの声には、親しみが滲んでいた。
翔太は街路から外れ、薄暗い路地裏に移動した。
「よう、元気か?」
『俺等は元気だよ』
「そりゃ、良かった」
『何だよ。なんか用?』
電話で世間話なんて航の
翔太はコンクリートの壁に背を預けた。
「お前等、もうすぐ誕生日だろ? 何か欲しいものあるか?」
『リクエストして良いの?』
誕生日プレゼントを自分で選ぶという習慣が、彼等には無いらしかった。いつも大人が選んだ難しい本や、バスケットボールの道具ばかり貰っていたらしい。テレビゲームとか漫画とか、年頃の子供が貰うようなものは贈られたことが無いと言う。
航は少し沈黙して、悪戯っぽく言った。
『高い酒』
「まだ未成年だろ」
『翔太は真面目だねぇ』
航は小馬鹿にするみたいに言った。
彼等は今年で19歳になる。この国ではまだ未成年だ。今は何処の国にいるのか知らないが、郷に入っては郷に従うべきだろう。
『じゃあ、俺達が
航が言った。
二十歳を祝わせてくれるらしい。それならば、断る理由は無かった。彼等には本当に世話になった。高い酒とは何だろう。日本酒か、ドンペリか。
『また会おうぜ、翔太。次は俺達の国を紹介するよ』
「ああ。楽しみにしてるよ」
湊と航の母国。海の向こうにある自由の国。
今、お前等に素晴らしい世界が見えるかい?
天気は晴れでも雨でも良い。歩いて行く道が違っても、お前等が同じ空の下で生きているのなら。
もしも、助けが必要ならば、その時は必ず駆け付ける。彼等が、自分の心と命を守ってくれたように。今度は俺の番だ。
役目を果たした携帯電話をポケットに入れ、翔太は歩き出した。
終章
北風は吹雪くのを止め、空には溢れんばかりの星が輝いている。こんなに星があるのなら、一つくらい自分のものになっても良いのにな。
湊は
ニューヨーク郊外の田舎町、湊と航の生家。御伽噺に出て来るような赤い屋根の一軒家は、クリスマスのイルミネーションで彩られている。真っ白に染まった庭先で、サンタクロースのオーナメントがソリに乗っていた。童心を
暖炉の灯ったリビングから、航の呼ぶ声がした。
「翔太から電話が来てんぞ。誕生日プレゼントをくれるってよ」
「なんて答えたの?」
「高い酒を取っておいてくれって頼んだ」
「流石」
湊は笑った。
日本ではアルコール類の解禁は二十歳だった。あと、一年。
「お前の携帯電話、うるせぇよ」
航の後ろで、侑が言った。
エメラルドの瞳に暖炉の炎が映って、まるで海に沈んで行く夕陽みたいだった。湊は両手をポケットに突っ込み、庭先からリビングに上がった。
日本を発ってから、数ヶ月。母国を拠点に海外を転々としながら、若い芸術家や美しい芸術品を探し歩いた。――そして、自分には芸術方面の才能が無いことを理解した。
世界に評価される名高い芸術家も、高額で取引される美術品の数々も、湊には石ころに見えたのだ。
壁に掛けられた三枚の油絵は、湊にとってはどんな宝石よりも美しく感じられた。其処には金銭では到底測れない価値がある。
慣れないことは辞め、エンジェル・リードは航と侑に任せた。湊は父のやり残した仕事を引き継ぐことを決めた。
侑や立花に投与したブラックの緩和剤――
脳内物質であるアドレナリンとエンドルフィンが過剰に分泌されることで、彼等は脳や筋肉のリミッターを無意識に外していたのだ。
彼等の肉体はまるで鉄の塊のようだった。それは単純な筋肉量ではない。肉体を支える骨が、異様に重いのである。
恐らく、脳からの指令に肉体が適応して行った結果、彼等は超人的な肉体を獲得したのだろう。
忌々しいが、強化人間を作ろうとしたSLCの目論見は、一部成功していたことになる。
SLCのブラックで起こる副作用をブランで抑えることが出来る。低リスクで強化人間を作れるのだ。――なんて、マッドサイエンティストでもあるまいし。
湊は全てを隠して治療を行った。口外するには、リスクが高過ぎた。俺たちは犠牲の上に生きている。人としての倫理を忘れてはならない。
リビングテーブルに置きっぱなしだった携帯電話には、確かに翔太から着信が残っていた。折り返そうか迷っている内に、立花から着信が入った。
「クリスマスにはまだ早いよ?」
湊が応えると、立花はあの日と変わらない静かな声で言った。
『ばーか』
湊は声を上げて笑い、父が愛用していたロッキングチェアに座った。木の軋む音が心地良かった。
暖炉で薪が爆ぜる。
『お前の番犬が恋しがってるぞ』
「俺の番犬じゃなくて、蓮治の弟子だろ」
立花が、翔太を後継者として育てようとしていることは聞いている。殺し屋という仕事が命の危険を伴うということは知っているが、立花の腕を考えると後継者が必要とは思えない。
まあ、どちらでも良い。
選ぶのは、翔太だ。自分には彼を導いてやることも、照らしてやることも出来ない。
『お前は?』
立花が尋ねた。
湊は答えた。
「Yep. Smooth-sailing, man」
父のやり残したこと。――バスケットボール大会。
爆弾テロで破壊されたあのイベントは、成功していれば大勢の人々を救うはずだった。志半ばで命を奪われた父の為に、航を守って死んだ母の為に、自分が自分である為に、何としても成功させる。
家族の夢を踏み台にはさせない。平和の為の
人は過去には戻れないし、死者は蘇らない。進歩が犠牲を伴うのならば、俺達はいつも戒めにしなければならない。
「俺は自分で選んだ道なら、地獄でも歩く。どうせなら楽しい地獄を」
『反吐が出るぜ、お前の理想論は』
「理想無くして未来は無いよ、蓮治」
俺達に神はいなかった。ましてや、窮地に駆け付けてくれるヒーローなんて存在もしていない。
「どうせいつか終わる旅さ。それなら、口笛でも吹きながら歩こうぜ」
湊が言うと、スピーカーの向こうで立花が笑った。
『この世が等価交換なら、最期の時に何を支払う?』
いつかの問い掛けをなぞって、立花が訊ねる。
湊は答えた。
「明るい未来を」
あの頃と同じ答えを、別の意味で。
大切な人には笑っていて欲しいし、幸せでいて欲しい。届かない祈りも、叶わない願いもあるだろう。足踏みしていても、靴底は減る。それなら、歩き出そう。明るい未来を夢見て。
「ねぇ、蓮治」
重石が取れたみたいに朗らかな気分だった。
海の向こうは夜明けだろうか。晴れているか。雨が降っているか。瞼の裏に蘇るあの金色の瞳に、世界は美しく輝いているだろうか。
「この世は捨てたもんじゃないぜ?」
立花は笑っていた。
通話が切れる、刹那。立花が言った。
『ゆっくり大人になれよ、湊』
先は長いぜ、と立花が笑った。
春の風に吹かれているみたいだった。
湊が何かを返す前に、立花はさっさと別れの言葉を告げた。
『またな』
湊は苦笑し、頷いた。
またね、また会おうね。
日が昇って沈むように、波が寄せて返すように。いってらっしゃいと送り出したら、おかえりと迎えるように。湊は首から下げた銀色のドッグタグを指先で撫でた。
暖炉の炎が揺れる。
湊は其処に、いつかの夕焼けを見た気がした。
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