⑻命の天秤
命の
両親の苦しみ、妹を殺した罪、目を逸らし続けた他人の地獄。一つひとつを指で
満天の星、
湿気を帯びた夜風に風鈴が鳴る。
田舎の
親父の怒号、母の泣き声、妹の伽藍堂の瞳。泡のように浮かび上がる記憶を夢に見る度に、痛感する。
俺はまだ、あの夏から歩き出せていない。
頭から冷水を浴びせられたかのような感覚で目を覚ます。枕元の携帯電話に手を伸ばすと、午前二時半だった。
「……翔太?」
隣の布団から、声がした。
寝起きの掠れた声で、湊が
「水、飲んで来る」
翔太が言うと、湊は布団から出て来た。
「俺も」
二人で台所へ行き、コップ一杯の水を飲んだ。
来た道を辿り、布団を目指す。
立花はいない。気付いたら、ペリドットもいなかった。
何処で何をしているのか知らない。二人分の布団は居間に畳んで置かれていたので、いつか何処かのタイミングで眠るのだろう。
「なあ、湊」
湊は、布団に潜り込もうとしている所だった。
翔太が呼び掛けると湊は目を擦り、
「俺、生きていて良かったのかな……」
自分の血で、SLCの薬物の影響を緩和する薬が作られる。
俺の存在意義。命の天秤。俺は償い切れない程の罪を犯し、それでもこうして生きている。
時々、夢に見る。
親父の怒号、母の泣き声。深夜に聞こえた両親の会話。
両親の話はいつも妹のことだった。喘息を患って田舎に引っ越し、その性質の為にSLCの人体実験に巻き込まれ、最期は俺が殺した。
両親は、俺を見なかった。妹が最優先な両親に、自分の話を聞いてもらったことが無かった。我儘を言ったり、喧嘩したり、逆らったりしなかった。兄が弟妹を守るのは当然のことだ。だから、感情に蓋をする。
妹が学校の飼育小屋でウサギや
俺の罪と命を天秤に載せた時、どちらに傾くのだろう。
湊は布団に座ったまま、静かだった。けれど、その目は夜行性動物のように闇の中でも不思議に輝いていた。
怒りも悲しみも嘆きも無いが、伽藍堂でも無い。其処には確かに命の気配がする。
湊は布団から抜け出すと、その場に正座になった。そして、真綿のような柔かな声で言った。
「俺は、君が生きていて良かったよ?」
どうしたらそんな声が出せるのかと不思議に思うくらい、湊の声は優しく澄んでいた。不意に湊の手が伸びて、翔太の手を包み込む。血の通った、温かい手の平だった。
「生きていれば、背負い切れないこともあるだろう。痛みも苦しみもあるだろう。でも、死ぬ程のことじゃない」
湊はそう言って、天使のように微笑んだ。
「俺は死後の世界を信じていないんだ。死んでしまったら、何もしてあげられない」
その言葉の重みが、分かる。
海の向こうで両親を奪われ、目の前で大切な人を亡くし、彼は今も地獄の底で足掻いている。どんなに辛く苦しい道程でも、彼は
「君が苦しいなら、俺が一緒に背負うよ。だから、どうか生きていて」
湊は凛と背を伸ばし、手を離した。
手を繋いだなら、離す日が来る。それでも、俺たちはきっと何度でも手を伸ばすのだろう。陽が昇って沈むように、波が寄せて返すように、何度でも、何度でも。
翔太が頷くと、湊は満足そうに笑った。
おやすみ、と言い置いて湊は布団に入った。翔太はその寝顔を眺めていた。
ノワールが死んでから、湊は
その時、音も無く
闇の中で金色の瞳が光っている。立花は翔太を見遣ると、目を見開いた。
「まだ起きてんのか?」
蚊帳の向こうから、立花が言った。
金色の瞳は翔太を見てから、湊に視線を映した。立花が時々、こうして湊の様子を見に来ていることを知っている。口にも態度にも出しはしないけれど、彼なりにこの子を案じていることは分かる。
なあ、翔太。
立花が、言った。
「……昔、近江さんに言われたんだけどよ」
立花は
「生きてりゃ、選択を迫られる時が来る。生きるか死ぬかの二択をな」
立花にしては珍しく、歯切れの悪い口調だった。
けれど、翔太には彼が何かを伝えようと、真剣に言葉を選んでいることが分かった。
「でもな、そんな選択をする必要は無い。どうせ過去には戻れないし、未来も届かない。だったら、生きて目の前の現実を変えろ」
部屋の中は、静かだった。
湊の穏やかな寝息だけが響いている。
「死ぬことに意味なんか無ェよ」
この言葉を、何処かで聞いた。
記憶が気泡のように浮かんでは消えて行く。
ああ、
笹森一家の若頭、笹森春助の母。両親を失った湊が力を借りる為に押し掛けた時、彼女が言ったのだ。
生きて、現実を変える。
生きて行く。生きて……。
立花は湊の寝顔を一瞥し、足音も無く、襖の向こうに消えた。煙草の臭いだけが、微かに漂った。
18.空虚な祈り
⑻命の
濃密な酸素に包まれた竹林に、淡い
葉の擦れ合う音はまるで
そういえば、あの時、湊がふやけたイソメを
翔太は目を開けた。蝉の声が頭の上から降って来る。
ひょうたん島のような岩に
集中には深度がある。
小難しい理論は忘れてしまったが、それだけは覚えていた。湊は深い海の底に潜って行く感覚だと言っていたが、翔太は森の中に意識が溶け出して、世界と一体になるような感覚を抱いていた。
集中すると神経が研ぎ澄まされて、不要な情報が切り離されて行くのが分かる。集中状態は長く続かないので、立ち直す方法を模索する。
猫の
国家公認の殺し屋、ペリドット。本名、
何してんの、とペリドットが不思議そうに言った。
殺意も悪意も、微塵も感じられなかった。銃を握らない彼は本当に、何処にでもいそうな普通の若者に見える。けれど、そうした人生を送れなかった彼の境遇を考えると、翔太は運命と言うものを恨まずにはいられなかった。
「瞑想。湊に教えてもらったんだ。物事を
「へえ。じゃあ、俺もやろうかな」
そう言って、ペリドットは太い竹に背を預けた。
エメラルドの瞳が閉ざされると同時に、辺りから急速に音が消えて行くようだった。空気が研ぎ澄まされ、吸い込まれてしまいそうだった。
自分が試行錯誤してコツを掴んだことも、ペリドットは簡単にやって
ぱちりと、集中が
ペリドットは片目を開けて「何だよ」と口を
「目を閉じると、ノワールによく似てんな」
「……兄弟だぞ。当たり前だ」
そうかな、と翔太は首を捻った。
湊と航は双子なのに、顔も性格も似ていなかった。
翔太は姿勢を正し、気を落ち着けながら言った。
「ノワールは、アンタのこと、自慢の兄貴だって言ってたぞ」
ペリドットの集中が解けるのが、気配で分かる。
彼の苛立ちが静電気のように肌を撫でる。
「俺は何も、してやれなかったよ」
ペリドットの後悔が、翔太には自分のことのように感じられた。俺も妹に何もしてやれなかった。
ノワールのことは、湊の方が良く知っているだろう。知りたいのならばペリドットが訊きに行くべきだし、翔太が語るべきことはなかった。
「アンタをスカウトしたの、俺の親父だったらしいな」
翔太が言うと、ペリドットは溜息を吐いた。
竹に背を預けるようにして地べたに座り、両手を頭の後ろで組む。翔太が振り向いた時、ペリドットは不貞腐れたような顔をしていた。
翔太は苦く笑った。
「公安の刑事だったらしいな」
「誰から聞いた?」
「立花。でも、調べたのは湊だと思う」
ペリドットは興味も無さそうに、へえ、と相槌を打った。
こういう時、立花は無言無表情なので、ペリドットの反応は新鮮だった。
「どんな人だったんだ?」
「テメェの親父だろうが」
「そうだよ。でも、仕事ばかりの人で、家には殆ど帰って来なかった。公安の刑事だって聞いたのも、最近なんだ」
翔太は肩を竦めて笑った。
「俺、記憶が無かったんだ。立花と湊のお蔭で取り戻したけど、なんだか映画館で見ているみたいで実感が無いんだよ。だから、生きていた頃の親父のこと、知りたいんだ」
ペリドットはたっぷりと間を取って、
「御人好しだったよ。国家の犬の癖に、他人の事情に首を突っ込んで来て、甲斐甲斐しく世話焼いて。俺と新が施設送りになる前は、何度も顔を見せに来た」
それは、翔太の知らない父の一面だった。
寡黙で厳格な父親だった。尊敬もしていたけれど、互いに歩み寄ることが出来なかった。
妹ばかり構っている両親に、寂しさを感じていた。妹の為にフルコンタクト空手を始めたつもりだった。だけど、本当は、父に認めて欲しかっただけなのかも知れない。
「俺がフリーの殺し屋をしてた頃、また、あいつが来た。一緒にラーメン食って、酒呑んで、その流れで、国家公認の殺し屋にならないかって」
なんか、詐欺師みたいだな。
翔太は居心地の悪さを感じつつ、黙っていた。
「ペリドットの名を継いでからも、時々、ラーメン食いに行った。醤油ラーメンに
翔太は目を伏せた。
父の話を聞けて嬉しいはずなのに、後ろ暗い感情が込み上げる。なるべく目を逸らしていたつもりだったのに、翔太はその感情の正体に気付いていた。
これは、嫉妬だ。
俺は、ペリドットが羨ましいんだ。
仕事ばかりで家庭を
感情がぐちゃぐちゃになる。
羨ましいし、妬ましい。憎らしいし、誇らしい。
俺は、親父のことをどのように受け止めるべきなんだろう。
ペリドットが、言った。
「息子の話をしてた」
翔太は顔を上げた。
ペリドットのエメラルドの目は、何処か遠くをぼんやりと見詰めている。
「クソ真面目で、頭が固くて、我儘の一つも言えない息子だってよ」
「……」
「でも、誇らしそうだった。お前の成長を、本当に楽しみにしてた」
スーツを着た父の背中が脳裏を過ぎる。朝早く家を出て行く父を、翔太は玄関で見送った。父は振り返らなかった。だから、翔太は置いて行かれないように空手に打ち込んだし、妹を守る為に
だって、知らなかったんだ。
背中を向けたのではなく、背中を預けられていただなんて。
あれは拒絶ではなく、信頼だったんだなんて。
父が背負っていたものも、成し遂げようとしたことも、翔太は知らない。脳を破壊された砂月が包丁を振り上げた時、父はどんな思いだっただろう。そして、母は。
「俺の親父は、ろくでなしだった。酒呑んで暴れて、俺や新を殴って、最期は殺し屋に始末された。……だから、息子の成長を楽しみに酒を呑む父親なんて初めて知ったし、その息子が羨ましかったよ」
心臓がギュッと痛くなる。
俺達はいつも無い物ねだりで、大切なものは失くしてから気付く。
「俺には立派な父親に見えたが、それだけじゃなかったんだろうな。だから、SLCなんて腐った
ペリドットは、全部、知っているのだろう。
自分のことも、ノワールのことも、SLCが何をしたのかも。
ペリドットはエメラルドの目を眇め、乾いた声で言った。
「どんな人間も、相応の地獄を抱えている」
きっと、そうなんだろう。
仕事ばかりだった父も、無口だった母も、理解者のいなかった妹も、呑気に生きているように見える人々も、相応の地獄を抱えている。そして、それは外側からでは分からない。
「なあ、番犬」
ペリドットは、微かに口元を綻ばせた。
「昨日の夜、あのガキが話してるのが聞こえた。あいつは、お前に生きていて欲しいんだな」
翔太は言葉を
聞かれて困るような話はしていないし、隠し事をする理由も無かった。ペリドットはその瞳に柔らかな光を宿して、語り聞かせるようにして、穏やかに言った。
「死ぬ理由なんか何処にでも転がってる。だけど、生きる理由ってのは中々見付からない」
ペリドットは、復讐者だった。
けれど、それは弟を守る為だった。そして、その弟に目の前で死なれて、彼は今、何の為に生きているのだろう。
何の為に生きて行くのか。
翔太には、ペリドットの胸中を推し量る術が無い。
「お前に生きていて欲しいと言ってくれる奴がいるなら、そいつの為に生きてやれば? 頭抱えて足元見てるよりは、ずっと有意義だろうさ」
どうして、彼等はこんなに強いのだろう?
何度地獄を味わっても、何度絶望の闇に突き落とされても、彼等は目を逸らさず、足掻き続ける。
翔太は苦笑した。
「俺は、アンタにも生きていて欲しいと思ってるよ」
ペリドットは自嘲するように笑った。
「俺にはやるべきことがある」
「……復讐か?」
翔太が言うと、ペリドットはおかしそうに鼻を鳴らした、
「お前もハヤブサに毒されて来やがったな」
復讐は不毛。
そんなことは、分かってる。
死者は生き返らないし、過去には戻れない。
ペリドットは立ち上がった。
立ち去る刹那、エメラルドの瞳が翔太を見た。
「俺の人生にケチ付けて良いのは、俺だけだ」
それきり、ペリドットは振り返らなかった。
振り返らない背中が信頼の証であることを、翔太は知っている。
この世は理不尽で不条理で、設計ミスだらけの欠陥品そのものなのだ。もう諦めてしまおうと立ち止まると、何処かから希望の光が差し込んで来る。
まだ終わりじゃない。
まるで、死んだ父がそう言っているみたいに。
翔太は目を閉じた。
頭の中に、無機質な天秤が見える。俺の罪と命、其処に家族の悲劇と生きて欲しいと言う願いを載せて行く。どちらに傾くのか怖々と眺めるのは、もう止める。
生きて目の前の現実を変えろ。
立花の声が蘇る。
そうだな、その通りだよ。
アンタの言うことは、出会った頃からずっと正しかったよ。
翔太は岩の上に立ち上がると、右足を振り上げて空中に向けて回し蹴りを放った。風を切る音が心地良かった。頭の中で
やるべきことは、分かっている。
翔太は深呼吸をして、岩から飛び降りた。竹林の向こうから焼き魚の香ばしい匂いがする。扉を開ければ、誰かが「おかえり」と言ってくれる。
こんな日常を愛おしいと思うから、守りたいと願うから、抗い続ける。立ち止まらない彼等に追い付けるようにと、翔太は走り出した。
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