⑸潜移暗化

 事務所の扉を開けた時、せ返る程の煙がどっと押し寄せた。部屋の中が真っ白に見える程の紫煙は、潔癖の航でなくても倦厭けんえんしたくなる。

 開け放った扉の前で二人で立ち尽くしていたら、煙の向こうから黒い影が現れた。




「なんだ、そのガキは」




 煙の中から現れた立花は、金色の瞳で値踏ねぶみするように航を見下ろしていた。凍て付くような冷たい眼差しである。航がハリネズミのように警戒し、身構えるのが見える。

 翔太は間に割って入った。




「湊の弟だよ」

「……ああ、そいつが」




 納得したのか、立花はそれ以上は追求せずきびすを返した。

 翔太は先に事務所に入って換気扇を回した。白煙が渦を巻いて吸い込まれて行く。窓を開けられたら手っ取り早いのだが、先日、立花に怒られたばかりだった。


 視界が幾らか晴れて来ると、室内の荒れ果てた惨状に溜息が出る。座る場所どころか、足の踏み場も無かった。通路だけでも確保しようと足で道を空けてやったら、薬莢やら煙草の吸殻やらがゴミ袋から転がり出た。


 航は崖の下に飛び込むかのような悲壮な覚悟を決めた顔で、足を踏み出した。その瞬間、何処からか湧いて出たゴキブリが爪先つまさきを掠め、航は呻き声を上げた。




「ヒーローの息子はゴキブリが怖いのか?」




 嘲るように立花が言った。

 航はムッとしたように眉を釣り上げた。




「Cut the crap」




 航はスラングを吐き捨て、足を踏み入れた。

 事務所に敷かれたグレーのマットには、何かの染みが滲んでいる。悪環境に対しては立花も翔太も耐性があるが、航の感覚の方が正常なのだろう。


 一応、客なのでソファを促したが、航は躊躇ためらうように目を泳がせて壁際に立っていた。そういえば、他人の生活感が駄目なのだと言っていた。




「何しに来たんだ?」




 立花が問うと、航は猫のような目を釣り上げた。

 航という青年は素直なので、短気である。翔太は溜息を呑み込んで仲裁した。




「大阪は大騒ぎだろ? 避難しに来たんだ」

「なんで俺の所に連れて来るんだ? フィクサーの爺さんを頼れよ」




 立花は機嫌悪そうに吐き捨てた。

 航の祖父はフィクサーの一人だと聞いている。両親も日本出身だし、頼る宛は他にもありそうだった。

 航は壁に背を預け、面倒臭そうに言った。




「俺が動いて目立ったら、湊の邪魔になる。他人を巻き込むつもりは無い」

「俺たちなら良いってのかよ」

「アンタ等は、巻き込んでも良い他人だ」




 航の憎まれ口にも、慣れて来た。

 慣れると可愛いものである。


 しかし、立花の言いたいことも分かる。

 今の自分たちは仕事中であるし、危険なのだ。

 航は怪訝そうに眉を寄せた。




「湊には、アンタ等が困ってるから助けてやれって言われてんだけどな」

「ガキの手を借りる程、耄碌もうろくしちゃいねェ」

「ガキの手ェ借りて仕事回してた癖に、偉そうに言うな」




 彼等の会話は、軽口の応酬みたいな親しみが感じられた。

 立花はもう投げやりだった。




「大体、お前に何が出来るんだ? フィクサーの爺さんにおねだりでもしてくれんのか?」

「なんでそんなに偉そうなんだ?」




 ああ、これは湊なら言わないな。

 翔太は苦笑した。航という青年は、根が素直なせいか悪意や敵意を躱せないのだ。しかし、航は苛立ってはいるが、落ち着いている。




「俺もアンタも、ガキじゃねぇんだ。対等な話をしようぜ。袋小路デッドエンドのアンタ等より、俺の方が有益な情報を持ってる」




 航は指を突き付けて、毅然と言い放った。

 ただの不良少年という訳では、無さそうだった。それなりに場数も踏んで、死線も潜り抜けている。




「笹森一家の風評被害は、杜梓宸ト ズーチェンって言うフィクサーのせいなんだろ? そいつが青龍会チンロンフゥイの幹部で、利益誘導の為にこの国に手を出した」

「湊から聞いたのか?」

「そうだよ。中国でかなり規模の大きい抗争があって、杜梓宸は派閥争いに負けて日本に逃げて来た。欧米はテロの影響で警備が厳しいからな」




 航の説明は筋が通っていた。

 翔太も立花も、そうすることが当たり前みたいに航の話に聞き入っていた。




「杜梓宸はSLCとも繋がってる戦争推進派のフィクサーだろ。そいつがこの国に来たってことは」

「SLC?」




 翔太が問い掛けたその時、航はまるで下手を踏んだみたいな顔で、目を逸らした。

 聞き捨てならない情報だった。少なくとも、翔太は杜梓宸とSLCが繋がっていることは知らなかった。




「アンタ等、本当に湊任せだったんだな」

うるせェ。説明しろ」




 立花が言うと、航は肩を竦めた。




「SLCはこの国を実験場にするつもりなんだよ。ブラックって言うヤバい薬の為にな」

「お前、何処まで知ってんだ」

「大体のことは知ってる。むしろ、アンタ等が何を知らないのか知りたいくらいだぜ」




 それは、背筋の寒くなる話だった。

 SLCは公安に根を張り、民間人を薬物の臨床実験に使っている。ブラックとは脳の扁桃体を破壊し、他人を意のままに操る危険な薬だった。


 破壊された脳は元に戻らない。

 湊が、何度も言っていた。




「SLCと公安が手を組んで、孤児を対象に人体実験してたんだろ? 湊はそれを調べてた。親父はそれに手を貸していて、俺がデータを湊に届けた」

「じゃあ、そのデータは湊の手元にあるのか?」

「そうだよ。フィクサーのリストと一緒にな」

「――危険だ!」

「そんなの、始めから分かってるよ。だから、訊いただろ。湊が連れて行ったのはどんな奴なのかって」




 なあ。

 航は窺うように、そっと尋ねた。




「アンタ等も、その薬の被験者なのか?」




 沈黙は肯定だった。

 航は沈んだ声で相槌を打つと、悲しそうに言った。




「ブラックは脳を破壊する。その前兆として、視力の異常や手足の痺れ、言語障害が現れるらしい。アンタ等は、大丈夫なのか?」




 具体的な症状を列挙されて、肝が冷える。空想上の怪物が、質量を持って目の前に現れたみたいだった。


 航の声は、労りに満ちていた。彼が本心から自分たちを気遣ってくれていることが分かる。けれど、翔太も立花も、それに応えられるだけの余裕が無かった。




「検査を受けた方が良い。脳に痛覚は無いから、自覚した時にはもう手遅れだ」

「手の打ちようが無いなら、検査したって無駄じゃないか」




 翔太は拳を握っていた。

 死ぬこと自体は怖くない。怖いのは、無意味に死ぬことだ。

 航は不安げに眉を寄せ、首を振った。




「ブラックは人を死に至らしめる薬じゃねぇ。人格を破壊するんだ。投与された人間は、生きたまま操り人形にされる」




 破壊された脳は元に戻らない。解毒剤の類は無い。投与された者は緩やかに人格を破壊され、操り人形にされる。




「杜梓宸はその薬を使って一発逆転を狙ってる。それが蔓延したら、この国は終わりだ」

「……お前等の目的は、何だ」




 立花が問うた。

 お前、ではない。お前等の目的と。


 航は壁から身を起こし、背筋を伸ばした。




「手を組もうぜ、Mr.Falcon? 俺たちには戦う理由がある」

「理由?」




 航は不敵に笑った。

 翔太は其処に、ヒーローの片鱗を見た。

 自身が光源であるかのような存在感と、縋りたくなるような万能感。圧倒的な善性を伴って、航は凛と言い放った。




「此処は俺の両親の国だ。牙を剥くなら、悪魔でも竜でも容赦はしない」




 航の協力を断る理由は、もう無かった。

 目的は一致しているし、航は自分たち以上に情報を持っている。守られるだけの弱い子供ではない。


 それでも、立花は難色を示した。




「エゴだな。そんなの、とむらい合戦と同じだ」

「何が悪い。敵討ちはこの国の文化だろ?」

ゆるしこそがお前等の宗教だと思ってたよ」

「俺たちに神はいない。断罪も救済も自分でやる。倫理観とか道徳観念とかクソ下らねぇこと言うなら、この話は無しだ」




 航は真剣な顔をしていた。嘘も偽りもない。彼は本心から、真実を語っている。翔太にもそれは分かる。

 立花は少しだけ口元を緩めた。




「大した自信だな。親が殺されて、兄貴に守られるだけのガキだったとは思えねぇよ」

「立ち止まっていても、何も守れはしない。だからと言って、丸腰で地雷原を駆け抜ける程に俺は無謀でもない。俺は湊の地獄をマシにすると約束した。あいつが、帰れる場所を見失わないようにな」




 若さ故の暴走でもないという訳だ。

 ヒーローごっこでもなければ、自暴自棄でもない。航は明確な目的を持ち、自分に出来ることを考えて、走り出している。――けれど、何だろう?


 航の言葉には熱がある。信じてみたくなる強さがある。

 けれど、翔太にはその濃褐色の瞳の奥に、青白い鬼火が燃えているように見えるのだ。


 翔太は立花を見遣った。

 此処で航の協力を拒む理由は無いし、野放しにしておく方が危険である。立花は喉を鳴らして嗤った。




「良いぜ。情報共有しようじゃねぇか。お前の覚悟がどんな風穴を空けてくれんのか楽しみだ」












 16.繋いだ手

 ⑸潜移暗化せんいあんか












 サンディエゴのダウンタウンからバイクで三十分。

 エメラルドブルーの海は緩やかな波が立ち、白い砂浜にはサーファーらしき人々が日に焼けた顔で寝そべっていた。


 溜息が出る程の平和な光景である。砂浜に突き立てられたカラフルなパラソルと、日光を浴びる若い女性の背中。湊は、弾けるような豊満な肉体や瑞々しい肌の美しさに見惚れていた。それが劣情なのか美意識なのかはよく分からない。湊は昔から、感情に名前を付けることが苦手だった。


 美しいものも、尊いものも知っている。

 自分がどのように感じたのか、何を伝えたいのか、感情を言葉にするのが不得手だ。言葉にすると途端に薄っぺらく感じられて、名前を付けるとそのものの価値を下げてしまうように思えた。


 エメラルドブルーの波を、サーファーは一枚の板で乗りこなして行く。見ていると体が疼くのは、今もあの場所に帰りたいと願っているからだ。

 湊の特技であるサーフィンは、父から教わったものだった。

 潮の流れ、風向き。力で押さえ付けるのではなく、乗りこなす。父はそう教えてくれた。


 嘘を善悪の基準にしてはならない。

 辛い時こそ笑え。

 大切なことは父が教えてくれた。




「Hi how’s it going」




 不意に背中から声を掛けられ、湊は振り向いた。

 水着も無く砂浜で立ち尽くしていた自分は、異様だったろう。振り向いた先には浅黒く日焼けした男はボディースーツを纏っていた。サーファーだろうか。




「What’s your name?」




 名前を尋ねられてから、ナンパされていることに気付いた。おかしな男である。未成年の男を相手にナンパなんて、酔狂というか、残念だ。

 湊が口を開き掛けた時、耳慣れたテナーの声が低く響いた。




「引っ込んでろ」




 ノワールが立っていた。モノトーンのコーディネートは、ニューヨークで見掛けるような垢抜あかぬけたファッションだった。海には見合わないが、首元から下がったドッグタグが一番星みたいに輝いていて綺麗だった。

 ノワールが睨み付けると、ナンパ男たちは「男連れかよ」と唾を吐き捨てて去って行った。どうやら、自分は少女に見えていたらしい。


 二人で乾いた砂浜に座り、凪いで行く海を眺めていた。

 ノワールが何処からかパラソルとサングラスを用意して、ぼんやり過ごした。


 こんなに穏やかな時間は久しぶりだった。

 日本を出てから中国に渡り、青龍会と接触して情報共有を図った。そのまま飛行機でアメリカまで渡り、バイクを一台拝借して、協力者たちに連絡を取った。


 SLCから襲撃を受けたのは、安いモーテルに泊まった夜だった。翔太からの着信に応じた後だったので、電波を傍受されたことはすぐに分かった。

 激しい銃撃戦が起こり、無関係の人が何人も撃たれた。ノワールに庇われてばかりいる訳にもいかないので、湊も銃の使い方を覚えた。使ったのは撃てば当たる散弾銃だった。


 引き金に指を掛ける度に、自分が刻まれているような気がする。人を撃つ度に心が死んで行く。毎晩、酷い夢を見た。眉間に風穴を開けた男たちが、両目から血の涙を流しながら「どうして殺したの?」と責めて来る。


 罪悪感や恐怖は無かった。――ただ、そんな悪夢を見る自分の弱さが、堪えられなかった。


 悪夢の話をしたら、ノワールは意味深に笑って言った。

 本当にそんな奴、いるんだな。

 どういう意味で言われたのか分からないが、馬鹿にされているようには感じられなかった。


 背中が重いだろう。

 いつか、立花に言われた言葉が脳裏を過ぎる。

 重くないよ。俺が背負うと決めたんだ。


 静かな潮騒を聞いていたら、もう戻れない過去が泡沫うたかたのように瞼の裏に蘇る。その度に自分を叱り付ける。此処はまだ通過点。ゴールは無い。ずっと走り続けるしかない。




「なあ、湊」




 夕陽を浴びながら、ノワールが言った。

 エメラルドの瞳に映る夕陽は、紅玉のように輝いていた。




「これからのことを考えてたんだけどな」




 言葉の先を幾つか予測し、返答の準備と覚悟をする。

 ノワールが此処で下りるというのなら、それで構わなかった。一人でもやれる。スケジュールは大幅に遅れてしまうけれど、仕方が無い。


 知らず、拳を握っていた。

 ノワールは僅かに目を伏せた。




「メトロポリタン美術館に行きたいんだよ」




 予想していなかった答えに、湊は咄嗟に言葉が出なかった。ノワールは気恥ずかしそうに頬を掻いて笑った。




「俺は趣味で油絵を描くが、本当の芸術ってのがどんなものなのか知らねぇんだ」




 なあ、駄目か?

 ノワールが仔犬みたいに小首を捻るので、湊は笑ってしまった。手を離し、一人で歩き出す覚悟をしていたのに、ノワールの中には初めからそんな選択肢すら存在していなかった。

 卑屈で臆病な自分が、惨めに思えた。けれど、それでも良いとノワールが言ってくれるから、湊は二つ返事で肯定していた。




「良いよ、行こう。ノワールが行きたい所、全部」




 時間は有限だ。無駄には出来ない。やるべきことは沢山ある。だけど、湊にはそれが無駄な時間だとはどうしても思えなかった。

 自分で言い出した癖に、ノワールばかりが不安そうにしている。彼の言いたいことが、自分のことみたいに分かる。言語での相互理解を必要としないのは、損失なのだろうか。




「お前は行きたい所とか、やりたいこと無いのか?」




 問われて、湊は考えた。

 やるべきことは沢山あるけれど、やりたいことは殆ど無かった。両親の墓参りに行きたいとは思うけれど、それは全てが終わってからだ。


 やりたいこと。




「俺のことは、良いよ」

「何でだよ」

「もう、叶っているんだ」




 ノワールはますます首を傾げた。

 どうせ、この世は等価交換。願いを叶えるには対価が要る。自分の捨てた明るい未来の代わりに、それが手に入るならば、他のことはどうだって良かった。


 二人で砂浜から立ち上がり、海岸沿いの駐車場へ向かった。

 メトロポリタン美術館までの経路を調べていると、弟からメッセージが届いていた。笹森一家の風評被害が酷いから、立花の事務所に一時避難したらしい。


 立花は暗殺依頼を受けているようだった。

 相手は確か、フィクサーか。航の協力で奴を潰すことが出来るならばそれは僥倖ぎょうこうだけど、難しいだろう。今の自分に何か出来るかな。


 バイクのエンジンが掛かったので、返事は後回しにして地図を開く。メトロポリタン美術館までの経路と、セキュリティのマシな宿泊施設と、ガソリンスタンド。


 鼻歌が聞こえる。

 Queenの名曲、The Show Must Go Onだ。ノワールの選曲はよく分からない。鼻歌に深い意味なんか無いか。湊はノワールの腰に腕を回し、そっとハミングを重ねた。

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