⑶暗躍
海は重油のように暗く、微かに聞こえる潮騒はまるで人々の囁きに似ていた。コンクリートの船着場には誰もいない。闇に伸びる
歓楽街の端にあるパチンコ屋で待ち合わせし、翔太は立花と共に夜の港に来ていた。時刻は深夜零時。湿った海の風が肌に纏わり付き、寒いくらいだった。
立ち並ぶ大型コンテナの影に身を潜め、潮騒に耳を澄ませた。足音、呼吸、気配。翔太の集中は、隣から聞こえたライターの着火音によって途切れてしまった。
闇がぼんやりと照らされる。煙草の先端に火を灯した立花は、美味そうにそれを吹かしていた。紫煙が細く夜空に伸びて行く。
隠れているはずなのだが、良いのだろうか。
翔太が睨むと、立花は歯を見せて笑った。歓楽街で会った時は、人を寄せ付けない不機嫌な雰囲気を漂わせていたけれど、今は
立花が話さない以上は訊くつもりも無いけれど、翔太はここ数日の不穏な可能性を尋ねずにはいられなかった。
「内通者なんて、本当にいるのか」
翔太は、笹森との話を立花に伝えていた。
自分達は情報が何処から漏れたのかを知りたかった。笹森はエンジェル・リードがミナであることを推察していた。けれど、それを誰かに話した様子は無い。ミナに貸した金は笹森のポケットマネーで、経理士も関与していない、完全に足の付かない金だったのだ。
では、渋谷はどうしてミナに行き着いたのか。
内通者、裏切り者。それが自分の知っている人間だとしたら、恐ろしかった。立花は悠々と煙草を吹かしている。
「他人なんざみんな敵だ。それがこの世界の常識だぜ」
「……笹森さんも?」
「ミナは違うって言ってたんだろ? じゃあ、そいつじゃない。笹森一家内部か、其処に出入り出来る誰かが、渋谷に情報を流した」
「何の為に?」
「決まってんだろ。ミナっていうカードが欲しい奴がいるんだよ。その為に漬け込む隙や弱味を探してる」
翔太は、いつかの近江の言葉を思い出した。
――あのガキにどのくらいの価値があるのか、俺には測れねぇ。だが、世界中の権力者が喉から手が出る程に欲しがる最高のカードだ。他人の嘘を100%の精度で見抜けるなんて反則級の能力まで持ってる。
加えて、エンジェル・リードによる資産、コネクション。ミナの価値が上がる程に、その身の危険は高まっている。
ミナを置いて来て良かったのか。
やはり、側を離れるべきじゃなかったんだろうか。
翔太が戻ろうかと提案し掛けた時、立花は煙草を消した。金色の瞳は闇に沈む夜の海を睨み、抜身の刃のような緊張感が走る。
闇の向こうから、何かが来る。
巨大な鉄の塊――船だ。黒色の船体は闇に沈み、白く細やかな波が
船はまるで幽霊のように静かに岸に寄せた。ロープが繋がり、橋が掛けられ、それまで何処にいたのかと思う程、沢山の人間が闇に紛れて船に集まって行く。それはまるで、巣穴から出て来た
船はどうやら運搬船らしく、大きなゲートを開くと山のように積み重なった段ボール箱が現れた。地上に溢れた正体不明の人間たちが、淀みない手捌きでそれを何処かへ運び込んでいる。
中身は見えない。
船上から指示を飛ばす男の声がする。荷物を運ぶのは、よく見ると日本人だけじゃなかった。肌の色、顔付き、言語。全てがぐちゃぐちゃだった。機械のように指示に従って荷物を運び、
何かの犯罪現場であることは、明白だった。
しかし、自分達は警察ではないし、正義の味方でもない。青龍会の密輸ルートを潰す為に此処にいる。今はあまりにも多勢に無勢だし、証拠も無い。下手に暴れたら向こうは警戒するだろう。
荷物を運び終え、船上の何者かは合図を送った。岸に繋いだロープが外され、橋が上がる。船は再び闇の向こうに進み始めた。船が闇に消える。
翔太は隣の立花を見遣った。
指示を仰ぎたかったのだが、立花は何も言わず、
立花が向かったのは、コンテナ置き場の奥にひっそりと佇む寂れた倉庫だった。
立花は裏に回り込むと、
同じことが出来るとは思えない。翔太は雨樋の下で、誰も来ないことを祈りながら立花の帰還を待った。
「手を上げろ」
背後で、撃鉄の起きる音がした。
こんな所で殺されるつもりは無い。
起死回生の策を考えながら、翔太は気を落ち着けるように深呼吸した。背中を向けた状態で、最初の一発を避ければ勝機はある。一秒にも満たない刹那の駆け引きだ。
だが、その時、聞き覚えのある声が言った。
「何やってんだよ、翔太」
柔らかなテナーの声がして、翔太は咄嗟に振り返った。
夜の闇、倉庫から漏れる微かな明かりに照らされて、エメラルドの瞳は煌々と輝いている。
「ノワール」
翔太が呼ぶと、ノワールは人懐こく笑った。
何でこんな所にいるんだ。翔太の言葉は喉の奥に張り付いて出て来なかった。ノワールは銀色の銃を懐に戻した。
「ミナは一緒じゃねぇのか?」
ノワールは辺りを見回し、翔太が肯定すると残念そうに肩を落とした。彼は駆け出しの殺し屋で、ミナの友達である。そして、国家公認の殺し屋、ペリドットの実弟でもある。
ノワールは腕を組むと、曖昧に笑った。
「あんまり、首を突っ込まない方が良いぞ」
「……お前は?」
「俺は仕事中だよ」
何の仕事かと気になったが、彼は訊いても答えてはくれないだろう。夜中に大量の荷物が運ばれ、殺し屋が目を光らせている。どう考えても、まともな状況じゃない。
ただ一つ、訊かなければならなかった。口にすることでリスクを背負ったとしても、だ。
それは翔太が想像し得る最悪の展開だった。
「お前の依頼主は青龍会か?」
ノワールが青龍会に雇われているとしたら、その密輸ルートを潰そうとしている自分達とは敵対関係になる。出来れば、避けたい。
ノワールは暫し沈黙した。エメラルドの瞳が翔太をじっと見詰める。彼は他人の嘘が見抜ける人間だ。隠し事は悪手だと分かる。
「そうとも言えるし、そうじゃないとも言える」
そう言って、ノワールは不敵に笑った。
教えてくれると期待していなかった。だが、此方の意図は伝わったらしく、ノワールは夜空を見上げて一人頷いた。
「青龍会はお前等の敵か。……どうするかな……」
ノワールは眉を寄せ、黙ってしまった。
その沈黙で、翔太も悟った。ノワールを雇ったのは、青龍会の関係者なのだ。依頼内容は分からないが、このままでは自分たちは殺し合いをしなければならない。
ノワールは溜息を一つ吐き出すと、翔太を見た。
「今日は、手を出すな。邪魔して来るなら、俺はお前等を殺さなきゃならねぇ」
「……」
「俺は今日限りで手を引くことにする。悪い予感がするしな」
ノワールは、敵になるつもりは無いらしい。しかし、立ち塞がるならば容赦はしないと言っている。
その時、雨樋の上から立花が飛び降りで来た。
猫のような着地は、殆ど物音がしなかった。ノワールは立花を見ると舌打ちを一つ漏らした。
「何でお前がいるんだ?」
立花は至ってフラットな態度だった。
敵意も無いが、関心も無い。ノワールは忌々しげに顔を歪めた。
話すことは何も無いと、ノワールは闇の中に消えようとした。立花は相変わらずの鉄面皮で、低く「おい」と呼んだ。
「ミナがぶっ倒れたぞ。今は笹森の屋敷にいる。手が空いてんなら、迎えに行ってやれ」
どうしてそれをノワールに頼むのか、翔太には分からなかった。
ノワールは足を止めると、一度鼻を鳴らし、そのまま消えてしまった。
14.正義の所在
⑶
帰るぞ、と立花が言うので、翔太は頷いた。
何処へ帰るのか知らないが、今此処でやるべきことは終わったのだろう。港を避けて山道を移動した。明かり一つ無い森の中、立花は迷いもせずに歩いて行く。
「なあ、立花」
「ああ?」
振り返りもせず、立花は茂みを掻き分けて道無き道を行く。
翔太はその背中を追い掛けながら、尋ねた。
「
立花は足を止めた。
闇の中、金色の瞳が光る。立花は辺りに目配せしてから、言った。
「武器の密輸だよ。戦争でもやれそうな量だったな」
「テロでも起こそうってのかよ」
「さあな」
立花は言った。
「関西を纏めてんのは、笹森一家だ。若頭はこのことを知ってるのか?」
「分かんねぇ。笹森さんは、何も言ってなかったけど」
笹森一家は武器や薬物の売買には関わっていないはずだ。
基本的に株で収入を得ているとミナが言っていた。――しかし、彼等は極道。裏社会の人間である。企業でもあるまいし、綺麗な金だけで組織を保てるか?
ミナは他人の嘘を見抜くことが出来る。ならば、きっと笹森は嘘を吐いていなかったのだろう。やはり、内通者、或いは裏切り者が笹森一家の中にいる。
笹森一家が巨大な組織である以上、この大規模な密輸について何も知らないという可能性は低い。ミナを置いて来たのは、失敗だった。
「ミナを連れて来る」
「止めろ。あれだけでかい取引なら、公安が嗅ぎ付けていても不自然じゃねぇ。お前が笹森一家に出入りしていたら、芋蔓式に俺たちまで疑われるだろうが」
立花や翔太が想定する以上に、敵が巨大だったのだ。
後手に回ってしまった。翔太は、自分の至らなさに吐き気がした。
「手札があれば、自分でどうにかするだろ」
手札とは、ノワールのことを指しているらしい。
立花は溜息を吐き、徐に携帯電話を取り出した。
スピーカーの向こうから微かに聞こえる声に覚えがあった。情報屋の品川だ。どうやら笹森一家のことを聞いているようだった。
通話が終わるまで、翔太は木に寄り掛かって待っていた。植物の名前なんて全然知らない。それが何の木なのか、巻き付く
その時、ポケットに入れていた携帯電話が震えた。
着信、ミナ。翔太はすぐ様、呼び出しに応じた。
「ミナ、大丈夫か」
スピーカーの向こうで、ミナが控えめに笑う。
良かった。まだ最悪の事態じゃない。まだ間に合う。
『もう平気。どうなった?』
「……全部、お前の言った通りだった。其処は安全じゃねぇ」
『分かった。どうにかする』
「ノワールが行くと思う」
『ノワール? 何で?』
ミナの声が低くなる。
叱られているような心地になり、翔太は慌てて言い訳染みた説明をした。
「港にいたんだよ。そんで、立花がお前の所に行かせた」
『……』
ミナは暫しの沈黙を挟み、立花と話したいと言った。けれど、立花は品川と電話中だった。
『俺は自分のことは自分でやれる。君は其処から離れて、関わらないようにして』
「どうやって?」
『今は言えない』
「――よォ、ミナ」
不意に立花が通話に割り込んだ。いつの間にか品川との通話は終わったらしい。
「何をどうするって? 詳しく教えてくれよ」
立花の口調は軽いのに、その声は逃げ道を
スピーカーの奥、ミナが溜息を吐く。
携帯電話を取り上げられてしまったので、翔太には彼等の会話が聞こえなかった。立花は暫く不機嫌そうに文句を言っていた。しかし、最後は渋々ではあるが、頷いていた。
通話の切れた携帯電話を投げ渡され、翔太は慌てて受け取った。立花は舌打ちを一つ漏らした。
「すげぇ機嫌悪かったぞ」
「まだ体調良くなってないのかな」
「そういう感じじゃなかった。何だ、あの態度」
立花はご立腹だ。
機嫌の悪いミナは余り想像出来ないが、翔太には思い当たることが一つあった。恐らく、立花がノワールを巻き込んだことだ。
翔太から見れば、ノワールをこの場から離脱させ、
立花に対して言い返したり、八つ当たりしたり、初めて会った頃からは考えられないくらい逞しくなったものだ。
兎も角、笹森一家のことはミナに任せるしかない。ならば、此方は青龍会の密売ルートをどうにかするべきだ。
「蛇の道は蛇か……」
立花が、意味深なことを呟く。
行くぞ、と立花が言った。何処に行くと言うのか。立花はからりと笑い、答えなかった。
多分、ろくな方法じゃない。
だが、いつまでもミナを敵地に置いておく訳にも行かない。立花は枯れ葉を踏み締め歩き出す。翔太は嫌な予感を呑み込みながら、その背中を追い掛けた。
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