⑶吹き溜り

 指先は凍り付いたみたいに冷たいのに、腹の底からは煮えたぎるマグマが噴き出しているみたいな、酷く陰鬱いんうつで最低な気分だった。

 手当たり次第に物を投げ付け、悪態吐き、拳を振るう。そんな妄想で自分を誤魔化しながら歩いていると、正面から見覚えのある青年がやって来ることに気付いた。




「人でも殺して来たのか?」




 青年――ノワールは、そんな笑えない冗談を言った。

 翔太も酷く苛立っていたので、曖昧に濁して歩調を早めた。今は誰とも話したくないし、聞きたくなかった。


 けれど、ノワールが元来の人懐こさを発揮して付いて来た。それにもまた腹が立って、翔太はたまらず怒鳴った。




「付いて来んな! 何なんだよ!」




 ノワールは驚きも怯えもせず、碧眼を丸めた。




「何に怒ってんの?」

「うるせぇな、放っとけ!」

「なあ、ミナはいねぇのか?」




 翔太は舌打ちした。

 どうやらノワールは自分に用がある訳ではないらしい。けれど、今のミナの状態をおいそれと吹聴ふいちょうする程に愚かではないので、仕方無く「俺一人だ」と吐き捨てた。


 そのままノワールを置き去りにしようとしたのに、彼は欠片も気にせず付いて来た。




「喧嘩でもしたのか?」

「違ぇよ」




 喧嘩じゃない。否、喧嘩の方がマシだった。

 ミナと立花の問題に、自分が口を挟む権利は無い。無いけれど、ミナは翔太の恩人だった。

 自分達の関係性はややこしい。最初は利害の一致、ビジネスライクな関係だったのに、どうしてこんな風にややこしくこじれてしまうのだろう。


 翔太は立ち止まって頭を掻き毟った。

 考えても仕方が無いのだ。頭脳労働は自分の本分ではない。

 割り切れ、と自らに言い聞かせようとした時、ノワールが言った。




大分だいぶ荒れてんなァ。……そうだ」




 ぱちんと指を鳴らし、ノワールが言った。




「ストレス発散に付き合ってやるよ」




 付いて来い。

 そう言って、ノワールは白い歯を見せて笑った。









 10.暴力の世界

 ⑶吹きだま









 息苦しい程の熱気が街の片隅でわだかまっている。

 人々の興奮は今にも破裂しそうだった。


 ノワールに連れられて来たのは、事務所から離れた港の倉庫だった。倉庫の外壁は張りぼてのように薄っぺらく、中は伽藍堂だった。其処に老若男女問わずの人々が押し寄せ、狂気的な興奮に支配されている。


 ストリートファイトだと、ノワールは言った。

 人集りの中央はぽっかりと開けており、二人の男が拳を固め殴り合っている。肉を打つ鈍い音、血と汗の臭い、悲鳴と歓声がぐちゃぐちゃに混ざり合い、辺りはお祭り騒ぎだった。


 天井は高く、白い室内灯が眩く照らす。足元は打ちっぱなしのコンクリートで、煙草の吸殻やガム、何かの紙切れが散らばっていた。


 野太い雄叫びが迸る。

 殴り合いの勝者が決まったらしかった。背伸びをしてみたが、人集ひとだかりの中央はとても見られなかった。倉庫の隅では胡散臭い中年男性が声高々に集金している。どうやら賭け事が行われているらしい。


 不成者ならずものの吹き溜り。

 ノワールはそんな風に言った。

 こうした違法な賭け事は全国各地で催されており、凡ゆる方法で法の目を掻い潜る。場所によって名称は異なるが、ノワールはストリートファイトと呼んでいると言う。


 参加する理由は様々である。行き場を無くした若者、金に困った不成者ならずもの、道を踏み外した格闘家崩れ、欲求不満を解消する為に興じる者もいるらしい。違法な賭け喧嘩は、金を持て余した富裕層や時間の有り余る貧民層にも人気のある娯楽の一つだった。


 血塗れの男が退場して行く。

 顔面を殴られたのか鼻が曲がっていた。片目が腫れて、濁った眼は何処を見ているのか分からない。レフェリーのような男が付き添っているが、翔太には勝者なのか敗者なのか分からなかった。


 少しして、担架たんかが運ばれて行った。

 余りに酷い姿にぎょっとした。腕は有り得ない方向にひん曲がり、真っ赤な血液がアスファルトの上にぽたぽたと落ちた。コテンパンなんて表現では生温い、凄惨せいさんな姿である。


 いたわる者も、なぐさめる者も、動揺する者もいなかった。

 殴られ蹴られ、傷付くことを互いに了承しているのだ。彼等の間に成り立つ利害関係は、とても悪趣味だった。




「俺はストリートから成り上がったんだ」




 ノワールが言った。

 やけに冷めた目で負け犬の退場を眺めていた。


 ノワールこと天神新は、駆け出しの殺し屋である。幼い頃に父を亡くし、兄と共に施設に預けられた。その夜、兄は失踪し、ノワールは施設を転々としながら探し続けた。


 裏社会に飛び込んだのは、十代の頃だった。

 生計を立てる為に、ストリートファイトに参加した。勝てば金が手に入る。ただそれだけの為に、顔も名前も知らない相手と殴り合った。


 路上での殴り合いから、賭け喧嘩、復讐屋として武器を握り、やがては殺し屋の裏世界に転がり落ちて行った。

 ノワールは、兄に会うという目標があった。結果を考えると流されて裏世界に落ちて行ったのではないのだろうが、翔太には悲しい転落人生に思えた。


 人並みの幸せなんて、彼は望んでもいない。

 家族に愛されず、守られず、唯一の肉親に置いて行かれ、殺し屋に身を落とし、それでも彼は笑っている。


 ノワールは入口付近の受付に行くと、草臥くたびれたスーツの男に何か親しげに話し掛けていた。飛び入りの参加者も受け付けているらしい。男はノワールと既知きちの間柄らしく、参加を知ると下衆な笑顔で喜んだ。




「金ある?」

「少しなら」

「じゃあ、俺に賭けとけよ」




 ノワールは子供みたいに無邪気に笑った。

 連れられるまま賭け屋で有金ありがねを全て支払い、翔太は何が何だか分からないままノワールを見た。


 コンクリートの壁に試合のオッズが記されている。よく分からないが、飛び入り参加のノワールは人気が低いようだった。




「お手本を見せてやるよ」




 ノワールはそでまくりながら、肩をぐるぐると回した。

 レフェリーの男が飛び入り参加を叫び、歓声が包み込む。人集りに無人の帯が生まれ、ノワールはその中央を堂々と歩いて行った。


 慌てて追い掛けるが、ノワールは既に闘技場に足を踏み入れていた。


 対戦相手は、筋骨隆々たる大男だった。

 雄牛のような屈強な肉体に、腕は翔太の大腿部よりも太かった。刈り込まれた頭部には悪趣味な刺青いれずみが入っていて、眼光は肉食獣のように鋭い。


 2mはあろうかという巨躯きょくは、痩せ型のノワールと対峙すると大人と子供のような歴然れきぜんたる力の差を感じさせる。男はノワールを見下ろして、口汚く罵倒ばとうした。


 しかし、ノワールは少しだけ首をひねり、何も言わなかった。

 レフェリーが開戦の合図をする。刹那、ノワールが振り返り、悪戯坊主みたいな不敵な笑みを浮かべて中指を立てる。




「ノワール!!」




 ノワールの後頭部目掛けて、岩のような拳が振り下ろされる。風を切る音が離れた翔太にも聞こえた。だが、ノワールは背中に目でも付いているみたいに拳を躱すと、そのまま腕を掴んだ。


 ノワールの掌底しょうていが男の顎を狙う。男は力任せにそれを振り払うと、膝を振り上げた。ノワールの体は宙に浮いていた。それは丁度、男の肩で逆立ちをしているようだった。


 曲芸きょくげいでも見ているみたいだった。ノワールの体は男の肩から浮き上がり、凄まじい勢いで回転した。そのまま男の顔面を二度蹴り付けると、ノワールは猫みたいに着地する。


 ムーンサルトキック。

 翔太は拳を握っていた。


 真っ赤な鼻血が吹き出して、顔面を血に染めた男が狂気的な雄叫びを上げる。しかし、ノワールは笑っている。

 男の拳が横薙よこなぎに振り抜かれる。ノワールは身を屈めて躱すと、左足を振り切った。


 下段回し蹴りに似ている。けれど、その軌道きどうは衝突の瞬間に切り替わり、男の顔面を鈍器のように打ち付けていた。

 男の体がぐらりと傾く。ノワールは手を緩めない。刺青の入った頭を引っ掴むと、顔面を容赦無く膝で抉った。


 血が迸り、辺りに鉄の臭いが充満する。圧倒的な実力差、経験値の違い。ノワールは何度も何度も、執拗しつように顔面を潰した。鼻が砕けるような不気味な音がする。けれど、観客は興奮に沸き立ち、手に汗を握って更なる暴力を望んだ。


 男の体がぐらりと傾き、俯せに倒れ込んだ。コンクリートの壁でも倒れたみたいな重い音がした。

 対戦相手の意識を確認し、レフェリーが勝者を告げる。ノワールは返り血で真っ赤に染まりながら、拳を天井に突き上げていた。


 観客を掻き分け、ノワールが帰って来る。返り血を拭う様はアンダーグラウンドを体現しているかのように物騒だが、その笑みは普段と何ら変わりなかった。


 ノワールは闇雲に攻撃している訳ではなかった。あれは格闘技だ。しかし、顔面を容赦無く、執拗に狙う戦法は武道とは掛け離れている。




「楽勝だっただろ?」




 金を貰いに行こうぜ。

 ノワールは血塗れのタオルを投げ捨てた。


 思い知る。この男が、常識というルールの外に生きていること。自分はまだまだ未熟だと言うこと。

 ノワールと自分の体格は殆ど変わらない。だが、彼が放つ一つ一つの攻撃が常人相手なら致命傷を与え兼ねない威力を持っていることは傍目はためにも分かった。


 賭け屋がノワールの凱旋がいせんに声を上げて喜んだ。翔太は倍以上に膨らんだ現金がにわかには信じ難かった。

 真面な仕事も得られず、いつも腹を空かせていた。雨風をしのげる家も無く、手を差し伸べてくれる人間もいない。あの頃の自分にこの金を少しでも分けてやれたら、選べる選択肢もあったのだろう。




「お前、格闘技か何かやってただろ」




 懐から煙草を取り出して、ノワールが言った。

 興奮冷めやらぬ会場のすみ、二人で地べたに座っていた。ノワールは何処から調達したのかミネラルウォーターを飲んでいる。翔太は騒がしい人集りを遠く眺めた。




「フルコンをやってた」

「フルコン?」

「空手だよ。そういう流派があるんだ」

「へえ。通りで」




 ノワールは煙草を叩き、灰を落とした。




「初めて会った時から、喧嘩慣れしてんだろうなって思ったよ」




 ノワールと初めて会ったのは、クリスマスイブだった。

 その時、翔太はワタルと一緒にミナを探していた。ノワールはいきなり自分達を襲って来た。


 重点的に狙われたのはワタルだった。

 理由を訊いてみると、ワタルの方が弱そうで、怪我をしているようだったからだと飄々ひょうひょうと言われた。武道としての格闘技を続けて来た翔太には理解し難い。


 ノワールという男は、翔太にはよく分からない人間だった。信頼に値する味方であることは知っているが、行動理念とか、考え方が曖昧なせいでノワールという男の輪郭りんかくがぼやけるのだ。


 不意に気になって、翔太は尋ねた。




「お前、何で兄貴のこと探してたの」




 歓声は遠かった。まるで、対岸の火事だ。

 ノワールはエメラルドの瞳をまたたかせて、少しだけ笑った。




「家族に会いたいと思うのに、理由がいるか?」




 翔太は言葉を躊躇ためらった。

 だけど、その兄貴は、お前を施設に置いて消えたじゃないか。殺し屋に身を落としてまで追い掛けて来る弟を突き放し、今も平然と銃を握っている。


 沈黙を歓声が埋めて行く。

 ノワールは胡座あぐらを組み直し、声を潜めた。




「兄貴が消えた理由、大体察しが付くんだ」




 翔太は眉を寄せた。

 ノワールは周囲をそっと見遣ると、続けた。




「俺達の親父は、殺された。その犯人を探してんだと思う」

「犯人って、強盗だろ? 捕まってないのか?」

「捕まってねぇし、捜査もされてねぇ。だから、兄貴は……」




 ノワールが言った時、受付の男が翔太を呼んだ。どうやら、ノワールが勝手にエントリーしたらしい。


 彼の話は気になるが、先程の仕合で気分は高揚していた。

 翔太が腰を浮かせると、ノワールが手を振って笑っていた。その笑顔が此処にいない国家公認の殺し屋を彷彿ほうふつとさせる。




「……戻って来たら、話の続きを聞かせろ」




 翔太は背を向け、歩き出した。

 緊張感と高揚感が心地良い。熱気渦巻く闘技場の中心に向かい、翔太は笑った。

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