⑵不協和音

 交番を出た時、不意に腹が鳴った。

 翔太が空腹を感じて隣を見遣ると、ミナは雑踏をぼんやりと眺めている。


 腹の音が聞かれていなかったことにほっとする。

 翔太が歩き出すと、松葉杖を突いたままミナが掠れた声で言った。




「歩けない」

「何?」

「お願いだ。事務所まで連れて行って」




 困ったように言ったミナは、真っ青だった。

 両目には涙のまくが張り、今にも瞼が降りて来そうである。

 嫌な予感がして正面から覗き込むと、ミナの顎先から汗がしたたり落ちるのが見えた。


 鎮痛剤の副作用だと、ミナが言った。

 元々ミナは神経系の薬に耐性があるらしく、通常量では効果が表れないのだそうだ。

 銃で撃たれて痛くないはずも無かった。ミナが松葉杖を持っている時点で、止めるべきだったのだ。


 翔太は自分の配慮の足りなさを後悔した。

 ミナを背負い、松葉杖を脇に抱える。背中に感じる重さは大したこと無かったが、松葉杖が持ち難くて面倒だった。通行人が物珍しそうな目を向けて来るので、翔太はミナにキャップを被せてやった。


 ごめんね、と。

 ミナが英語で言った。

 別に、と。

 翔太は答えた。


 ミナが強がって無茶をしたことは褒められないが、弱音を溢して頼ってくれるのは、嬉しかった。




「立花は知ってるのか?」




 立場上、ミナの保護者は立花だろう。

 以前、ミナが撃たれた時も手術や輸血の為に立花が手を回してくれた。今回もそうなのだろうが、その後を放っておくのは無責任じゃないか。


 ミナは否定した。

 レンジには何も言ってない、と。




「何で?」




 翔太には疑問だった。

 ミナにとって、立花は最も身近な大人だろう。血の繋がりはないらしいが、家族のようだと言っていたこともある。




「レンジは俺の味方じゃない」




 どういう意味だ。

 立花はミナを信用しているから事務員として仕事を任せるし、窮地に駆け付けてくれるのだろう。それでも、ミナが味方ではないと考える根拠は何なのだ。他人の嘘を見抜くという曖昧模糊あいまいもこな能力の為か?


 嫌な予感が冷や汗となって手の平に滲み、翔太はミナを背負い直した。




「俺達がスマイルマンに襲われた時、レンジは来なかった」




 深い諦念の底にいるみたいな乾いた声だった。

 翔太は考える。立花は助けに来なかった。確かにそうだが、間に合わなかっただけだろう。たった一回の失敗で信頼が無くなってしまうというのは、悲しいことだ。




「決め付けんなよ。ノワールやペリドットの方が早かっただけさ。人間なんだから、失敗の一つや二つあるだろ?」

「違うよ。そういう話じゃないんだ」




 ミナの声は奇妙に静かだった。




「レンジは、俺が撃たれたことを知ってたんだ。俺の怪我を見ても驚かなかった」

「考え過ぎだろ」

「分からない。レンジの考え方は俺と違い過ぎるから」




 そうかな。

 翔太は首を捻った。


 考え方の違いは生育環境に起因するものだろう。だが、いざという時の冷静さや行動力は相補的であるし、それ程に悲観しなければならないとは思わない。




「立花がどうして助けに来なかったのかは分からねぇ。何か事情があったのかも知れない。お前だって直接訊いた話じゃないんだろ?」

「でも」




 背中で身動みじろぎする気配があった。

 ミナが食い下がるのならば、理由があるのだろう。自分に出来ることがあるのなら、力になってやりたい。




「立花は、お前の敵か?」




 立花がミナにとっての敵だと言うのなら、翔太だって考えなければならない。ミナの敵は翔太の敵だ。相手が凄腕の殺し屋であろうとも、戦う理由がある。




「俺にどうして欲しい?」

「……一緒に」




 珍しく、ミナが言い淀んだ。

 その僅かな逡巡しゅんじゅん躊躇ちゅうちょに空気が張り詰める。


 この子の為なら、何でも出来ると思った。

 此処から逃げたいと言うのなら幾らでも手を貸すし、ミナが己の手を汚さなければならないのならば自分がやる。


 けれど、ミナは言った。




「一緒に、考えて欲しい」




 それは泣きたくなる程、ささやかな祈りだった。


 考えるだけで良いのか。

 ミナが望むなら手を汚す覚悟だってあった。だけど、そうではないらしい。よく分からないが、翔太には、ミナが何か別の言葉を呑み込んだように感じられた。




「いいよ」




 まあ、ミナよりマシな知恵があるとも思えないけれど。

 翔太が零すと、ミナは笑った。




「向こうが何を考えているか分からないからって、こっちまで黙ってたら平行線だろ。怪我したこととか、鎮痛剤のこととか、話した方が良い。いざと言う時にお前が困る」

「……分かった」




 ミナは相槌を打って、背中に体を預けて来た。


 二人で帰路を辿る。真っ直ぐに帰宅するには何だか名残惜なごりおしかったけれど、怪我人を連れ歩く訳にもいかない。

 色々な話をした。テレビの話、新聞の話、家族や友達の話。互いに兄であったので、取り分け弟妹の話は盛り上がった。


 博識で話題が豊富で、話術が巧みで聞き上手。首から上だけで一生食って行けそうだな、と思った。話している内に、ミナが思うより子供らしい感性を持っていることに驚く。翔太は、妹の話をした。




「鳥の死骸を見てた。人は死んだら何処に行くのかって訊いた。……お前なら、なんて答えた?」




 俺は死後の世界を信じていない。

 以前、ミナはそう言っていた。だけど、もしもそれを問い掛けたのが弟だったなら、彼はどんな言葉を告げたのだろうか。


 ミナは少しだけ黙って、同じことを言った。




「俺は死後の世界を信じていない」




 その言葉が、風のように胸の中を吹き抜けて行った。

 そうなんだろう。問い掛けたのが誰だったとしても、ミナはそう言ったのだろう。




「だけど、一緒に墓を建てたと思う」




 一緒に。

 ミナは、そう言った。


 何故だか笑えてしまって、泣けてしまって、翔太は鼻を啜った。ミナなら砂月を救えたんじゃないかなんて暗い嫉妬と罪悪感が、ちりのように舞い起こる。


 あの時、俺は一緒に墓を建てるべきだった。

 どんな綺麗事も正論も、無意味だった。俺は妹と一緒に手を汚して、墓を建てれば良かった。ただそれだけのことが、どうして出来なかったんだろう。


 猫に似た彼の双子の弟、ワタルを思い出す。

 第一印象は凛とした好青年だったのだが、実際は情熱的で人間味の溢れる少年だった。


 彼等は数え切れない程、喧嘩をして来たと言う。

 些細ささいな口論も、怒鳴り合いも、流血沙汰の取っ組み合いもしたと言う。幼い頃は今程の体格差は無かったらしいので、戦績は互角だったそうだ。


 そんな彼等の話を聞きながら、翔太は、自分が妹と喧嘩をしたことが無かったことに気付いた。砂月をうとましく思ったことも無かったし、反抗されたことも無かった。


 殴り合えた彼等が、少しだけ羨ましかった。

 分かり合えないことにいきどおり、感情をぶつける相手がいるというのは幸福なことだ。ましてや、双子の兄弟だ。仲良しという表現が適切かは分からないが、対等な関係であることは微笑ましい。


 体を支えている大腿部が濡れる感覚があり、そっと見てみると出血しているらしかった。ミナ自身は痛がる素振そぶりが無いので、鎮痛剤が効き過ぎているのだろう。


 背中で体を起こす気配がした。




「ショータのせいじゃない」




 ミナが言った。

 貫くような強い口調だった。翔太は笑い、背負い直す。

 背中が温かい。まるで、命そのものみたいだ。生体エネルギーの塊が、心地良く伸し掛かっている。


 中天に差し掛かる太陽から白い日差しが降り注ぐ。乾いたアスファルトをスニーカーで叩きながら、翔太は帰路を辿った。


 今ではもう、妹の重みや温もりは思い出せなかった。

 それは、損失なのだろうか。翔太には、もう分からない。




「今度、一緒にお墓に行こう」




 ミナが小さな声で言う。

 そうだな、と翔太は頷いた。








 10.暴力の世界

 ⑵不協和音









 事務所に着いた頃には、ミナはすっかり寝入っていた。

 危機感が足りないのか、自分が信用出来る存在になれているのか、どちらかは分からない。ただ、安心し切ったようなミナの寝顔をおがめるのは気分が良かった。


 三階のベッドに運んでやりたいが、翔太は部屋の鍵を持っていない。一先ず事務所のソファに寝かせてやり、給湯室からミネラルウォーターのペッドボトルを持って来てやった。


 起こすべきなのか迷った。

 そうしている間に事務所の扉が開いて、立花が現れた。


 金色の瞳は日輪のように美しいのに、まるで伽藍堂がらんどうで無機質な光を帯びている。立花は翔太とミナを順に見遣り、状況を察したらしかった。




「熱か?」




 立花が尋ねた。

 その言葉で、先程のミナの言葉が本当のことだったのだと知った。

 立花には何も言っていない。立花は味方ではないから。

 だから、弱音も泣き言も溢さないし、人前では落ち込みもしない。


 翔太は答えた。




「撃たれたところが痛ぇんだってよ」




 立花は何も言わず、定位置に座った。

 空っぽの灰皿を引き寄せ、懐を探す。翔太が鍵をくれ、と言うと立花は事も無げに、投げて寄越した。


 子供というのは不思議な生き物で、寝ていても聞こえるのだ。両親の嘆き、慟哭どうこく、怒号。翔太はそれを知っている。

 翔太はミナを背負って、三階の居室に寝かせてやった。鎮痛剤が切れているのか、眉は痛みを堪えるように寄せられている。


 汗ばんだ頭を撫でてやり、居室の鍵を掛けた。

 事務所に戻ると煙草の臭いがした。立花が定位置で煙草を吹かせているので、翔太は壁に凭れた。




「なあ。俺達がスマイルマンに襲われた時、アンタは何処にいたんだ?」

「何でそんなことを訊く?」

「俺の質問が先だ」




 立花は普段と変わりなく、仏頂面ぶっちょうづらで、ぶっきら棒で、愛想の欠片も無い。




「スマイルマンに襲われた時、ミナが連れて行かれそうだったんだ。ペリドットが助ける為に、ミナの足を撃った」

「合理的だな」




 違和感がぷつりと芽を出す。

 それは瞬く間に成長し、疑念という花を咲かせる。




「……アンタ、あいつに傷一つ付けるなって言われてんだろ? ミナが撃たれたのは二度目だぞ」




 ミナが言っていたことの意味を察する。

 立花はミナを守るように依頼されている。だが、今はどうだ。まるで、ミナを試しているみたいじゃないか。




「フィクサーの孫とか、ヒーローの息子とか、他人の嘘が分かるとか……。よく分かんねぇ肩書並べてるけどよ、子供だ。簡単に死ぬぞ」




 立花は煙草を深く吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。

 紫煙が立ち上り、室内を埋めて行く。




「死んだら、それまでだ」




 翔太は奥歯を噛み締めた。

 命を軽んじているとは、思わない。立花はそういう人間じゃない。


 だけど。

 レンジは俺の味方じゃない、だなんて。

 あんな悲しい声で言われたら、翔太だって黙っていられない。




「ミナはアンタが助けに来てくれるって、信じてたんだぞ」




 立花にどんな事情があったのかは知らない。だけど、ミナは立花を信じていたのだ。


 どのタイミングでミナが気付いたのかは分からないが、立花に助ける気が無かったことを知った時の気持ちを考えると、悔しかった。

 立花の助けなんて必要無いくらいに自分が強ければ、ミナは撃たれなかった。あんな悲しい言葉も言わせずに済んだ。




「身の程をわきまえないガキに、きゅうえただけさ」




 立花は笑った。鼻に付く嫌な笑い方だった。

 これは肯定と同義だな、と思った。ミナが言っていた通り、立花は助けに行かなかった。けれど、彼は狙撃の名手でもある。遠距離からスマイルマンを狙っていた可能性だってある。


 分からない。立花が何を考えているのか、翔太には測れない。

 翔太は、ミナが大切だと思う。友達であるし、自分の為に尽力して、身を挺して助けてくれた。そんな彼に誠実でありたいし、力になってやりたい。


 立花は違うのだろうか。

 ただの仕事上での付き合いなのか。




「アンタ、ミナをどうしたいの」




 翔太が尋ねた時、立花が妙な顔をした。

 まるで幽霊でも見たかのような顔だった。

 すぐ様、いつもの仏頂面が浮かべられるが、翔太にはそれが立花の感情の揺らぎに見えて仕方なかった。


 立花の生い立ちを知っている。

 愛されるはずの家族にしいたげられ、施設では激しい暴力に晒され、信じては裏切られ、彼の根幹こんかんは砂漠のように乾き切っている。


 砂漠で植物が育ち難いのは、砂が風で動くからだ。そんな土壌どじょうでは雑草だって根を張れない。人はそれを倫理観とか道徳観念とか、大切な人の存在とか、色んなもので押さえ付けている。


 金色の瞳と相対していると、分かる。

 立花蓮治という人間は、とても空虚な伽藍堂なのだ。生きる上での指標とか、譲れない価値観とか、そういう人間としての根っこが無い。


 幽霊みたいだ。

 翔太は寒気を感じ、身震みぶるいした。




「暴力の世界で生きてるアンタとミナは違うぞ」

「知ったような口を利くじゃねぇか」

「知ってんだよ。死んだ人は生き返らないって」




 胸の辺りがぎゅっと痛んで、翔太は誤魔化すように拳を握った。




「ミナが死んだら、アンタは絶対に後悔するぞ」




 脅しではなく、予言だった。

 立花は何かを言い返そうとしたが、結局、何も言わなかった。面倒になったのかも知れないし、反論が出て来なかったのかも知れない。


 鎮痛剤のことも教えてやろうかと思ったが、ミナは自分で話すと言っていた。ならば、翔太から言えることは何も無い。

 沈黙が息苦しかった。ミナの様子でも見に行こうかときびすを返す。扉に手を伸ばした時、立花が言った。




「あいつはお前の妹じゃねぇぞ」




 翔太は笑った。

 そんなこと、知っている。




「妹は俺が殺したよ」




 扉を開ける。

 階段の踊り場は薄暗く、冷たかった。

 翔太は振り返らずに、後ろ手に扉を閉めた。


 心の奥が冷たくなっていく感覚がする。

 嫌な感じだ。

 翔太は両手をポケットに突っ込んで、階段を降りて行った。

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