⑵ノワール

 雑多な駅前から路地裏を抜けて、閑静な住宅街へ入り込む。シャッターの降りた商店街の片隅、寂れた一件の喫茶店があった。


 コーヒーを売りにした昔ながらの喫茶店は、今日も閑古鳥かんこどりが鳴いている。扉を押し開けた瞬間に漂う豊潤ほうじゅんなコーヒーの香りと慣れ親しんだ煙草の臭い。暖色のライトに照らされる店内はひっそりと静まり返っていた。


 時刻は午後九時を回る。いつもならベッドに入っている時間だ。ここの所、生活リズムが乱れている。精神状態が不安定な自覚はあったが、感情の起伏が激しいとか、目の前のことに集中出来ないとか、パフォーマンスを落とす程の事態には陥っていない。


 頭の上に薄く積もった雪が暖房によって溶け出し、汗のように頬を伝う。ミナは袖口そでぐちで拭い去ると、促される前に奥のカウンターへ向かった。


 人の良さそうな店主が驚いたように眼をぱちくりさせていた。子供は寝る時間だ。ミナは素知らぬ顔をして、ダージリンのホットを頼んだ。




「機嫌が悪そうだな」




 先客がいる。

 最奥の席に座っていた青年は、ミナの姿を認めると煙草の火を消した。念入りに潰される吸殻から糸のような煙が昇る。ミナは適当ににごして、飴色あめいろに磨き込まれたカウンターに肘を突いた。


 青年の前にはショートケーキが置かれていた。

 クリスマスだからな。隣に並べられたコーヒーからはまだ湯気が昇っている。ティーカップで提供されたダージリンに礼を言い、ミナは先客の名を呼んだ。




「ノワール」




 ミナが呼ぶと、ノワールは少年のように笑った。

 寂れた喫茶店の常連で、いつもショートケーキとブレンドコーヒーを注文している。




「何かあったか?」

「Don’t worry about it」




 ノワールは追及しなかった。

 初めて会った日も、そうだった。この青年はミナの素性を問い質したり、追求したりしなかった。だから、ミナも尋ねたことは無い。


 このノワールという青年の素性は知らない。それが本名ではないことは分かっていたが、敢えて詮索する必要も無いことだった。


 初めて会った日のことを思い出す。

 黄色い銀杏いちょうの葉が積もった街の片隅、彼は西の空をずっと眺めていた。真っ赤な夕陽が地平線を埋めるビルの群れに沈んで行く。昼と夜の切り替わる時刻、ノワールが逢魔時と教えてくれた。


 辺りが闇に包まれる寸前、彼の輪郭りんかくがぼやけて曖昧になった。その横顔をミナはじっと見詰めていた。黄金色に輝く夕陽を浴びたノワールの瞳が、とても美しかったのだ。それはまるで、エメラルドグリーンの海に沈む夕陽を眺めているようだった。


 通り過がりの軽トラックが焼き芋を売っていた。ノワールが買ってくれて、二人で分けた。黄色くれたさつま芋からは蜜が染み出していて、頬が落ちる程、美味かった。


 ノワールは甘い物が好きではないらしく、殆どを譲った。その癖にいつもショートケーキを注文しているのだから、彼にも何か訳があるのだろう。




「メリークリスマス」




 ノワールは思い出したみたいに言って、ショートケーキの上に乗った苺をフォークで突き刺した。差し出された苺を咥えたら、目が覚めるくらいっぱかった。


 思わず顔をしかめると、ノワールが楽しそうに笑った。子供みたいだ。ミナは酸っぱい苺を咀嚼そしゃくし、ダージリンと一緒に嚥下えんげした。


 ノワールは気の良い青年で、甘いものが嫌いなのにショートケーキを頼む。そして、上に乗った苺をいつもミナに寄越す。




「ショートケーキの苺は特別なんだぜ」




 おまじないみたいに、ノワールは同じことを言う。

 意味は知らないし、尋ねたことも無い。だけど、ショートケーキに鎮座する王様みたいな苺が、特別だと言う気持ちは分かる気もする。




「あんまり、一人で出歩かない方がいいぜ」




 銀色のピアスを揺らして、ノワールが保護者みたいなことを言う。彼の年齢が幾つなのか知らないが、自分と大して変わらないだろう。




「You too」




 ミナが言うと、ノワールが口角を釣り上げて笑った。

 不思議な感覚だった。ノワールとは初めて会った気がしない。ずっと昔から知っていたような気がするし、自分を繕わなくていい関係性が心地良かった。


 ノワールはジーンズのポケットからジャラジャラと小銭を取り出して、カウンターに置いた。ミナの紅茶代金も払ってくれたらしかった。


 散歩しようぜ、とノワールが言ったので、ミナは頷いた。

 ノワールは振り向きもせずに扉へ向かった。糊の効いた黒いシャツに真っ直ぐ伸ばされた背中。ピカピカの革靴が木製タイルの床を鳴らす。


 ミナは紅茶を飲み干して、席を立った。









 7.ツナグ

 ⑵ノワール









 ノワールと一緒にコンビニに入る。

 軽快な音に出迎えられ、ミナは揚げ物のねっとりとした臭いに眉を寄せた。


 この国に来るまで、間食というものを殆どしたことが無かった。買い食いが出来るような店も、時間も無かった。いつも何かに急き立てられているような気がして息苦しく、そんな風に感じる自分が嫌いだった。


 ミナはノワールから離れ、棚に詰め込まれた雑貨や菓子類を観察した。特に菓子類はパッケージがっていて、購買意欲を促す為の工夫が其処此処から感じ取れた。大量生産される一つ一つに人の熱意が込められている。菓子類もジャンクフードもこの国の文化なのだろう。


 ノワールは、棚には寄り付かず、真っ直ぐレジに並んだ。

 陳列棚から唐揚げを二つ頼み、袋に入れてもらう。ミナが隣に並ぶと、学生だろう店員が僅かに目を細めた。


 ポケットから小銭を取り出して、ノワールが購入する様を眺めていた。ビニール袋に入れられた二つの唐揚げは、コンビニを出た時に二人で分けた。


 警察の目を嫌って駅前を避け、二人で何となく路地裏に入った。繁華街の喧騒とは打って変わって、まるで水の中にいるかのように静かだった。




「最近、嫌な事件が起きてる」




 ノワールが言った。

 知っている。ミナはノワールの横顔を見詰めた。


 界隈で不気味な事件が起きている。

 駅前の交番に勤める巡査、桜田が言っていた。世間に報道された情報では、通り魔的な連続殺人事件らしい。犯人がどのような人間で、何処の誰がどのように殺害されたのかは分からない。


 インターネットでは憶測が飛び交い、三流のオカルト雑誌ではカルト宗教がどうとか、超常現象がどうとか根も葉も無い記事が書き立てられている。


 アンダーウェブで調べてみたら、少しはマシな考察が出て来た。


 被害者は四名。いずれも身元が掴めない。それは、人としての原型を留めない程に解体されてしまっているからだ、と。

 根拠の無い話はどうでも良かった。だが、複数の死体が発見されていながら、身元不明なのは報道に規制が掛かっている為だろうと推察出来る。


 この国のプロファイルは未熟だ。

 犯行の手口や現場状況から犯人像を割り出し、事件が収束するにはまだ時間が掛かるだろう。




「死体を見たか?」




 振り向いたノワールの瞳に、オレンジ色の街灯が反射している。水平線に沈む夕陽を見ているみたいで、綺麗だった。

 ミナが首を振ると、ノワールは得意げに言った。




「三丁目の路地裏でさ、烏がうるさかったんだ。覗いてみたら、死体が二つ、くっついてた」

「くっついてた?」

「そう。手ぇ繋ぐみてぇに、手首同士で縫い付けられてた。素人だろうな。切り口が汚かった」




 縫い付けるなんて、普通じゃない。

 猟奇殺人だ。犯人は異常者だろうか。


 いや、実際に現場を見た訳じゃない。異常者の真似をした情操未発達の人間かも知れない。二人の人間を殺すなんて単独犯ではリスクが高い。人間は集団になるとリスクの高い選択をし易いのだ。


 しかし、殺すだけなら兎も角。

 どうしてそんなリスクを背負う必要があるのだろうか。犯人のこだわりのようなものが感じられる。




「何で縫ったんだろう」

「さあね」




 ノワールが日本語で話すので、つい釣られてしまった。

 けれど、ノワールは指摘も追求もしない。




「そういや、裸だったな。女同士だった。クリスマスで浮かれてたのかもな」




 変な発想だ。

 クリスチャンでもない癖に、この国の人間はクリスマスになると何故か浮かれるらしい。宗教に寛容な国柄であることは知っているが、余りにもいい加減だ。




「ノワールが最初に見付けたの?」

「多分な」




 ノワールは通報しなかったらしい。

 ならば、誰か別の人間が通報したのだろう。アンダーウェブにも縫い合わせられていたなんて情報は無かった。警察の緘口令かんこうれいが徹底されているのか、それとも、抹消されたか。




「見たかったか?」




 ノワールがそんなことを尋ねたので、ミナは答えに迷った。死体に興奮する趣味は無いし、無関係なトラブルに首を突っ込む程、暇じゃない。だけど、好奇心が全くないとは言えない。




「血の臭いは嫌いだ」

「はは」




 ミナが答えると、ノワールは笑った。




「なんか、刺身が食いたくなって来たな。今度、寿司でも食いに行くか」




 空を見上げて、ノワールが呑気に言った。

 刺身は知っている。母国にいた頃、祝い事の時には手巻き寿司が用意された。家族で囲んだ食卓が蜃気楼みたいに瞼の裏に浮かぶ。


 顔が見たいな、と思う。せめて、声だけでも。

 仄かに滲む甘えを打ち払い、ミナは顔を上げた。今はまだその時じゃない。自分はまだ何も成し遂げていない。




「手巻き寿司が良いな」

「ああ、あれ楽しいもんな」




 目を細めて、ノワールが頷く。彼にも懐かしむ家族や思い出があるのだろう。

 ポケットから携帯電話を取り出したノワールが、時刻を告げた。午後十時半。言われてみると、眠くてたまらない。




「送ってやろうか」

「Don't worry. I'm fine」

「そんなこと言って、明日には死体になっているかも知れないからな」




 逆の立場だったなら、自分も同じことを言っただろう。そう思うと安易に無下に出来ず、ミナは厚意に甘えることにした。


 人気の無い夜道に、何処からかクリスマスソングが聞こえる。宗教の坩堝るつぼみたいに、歌も様々な国籍が入り混じっていた。言語が攪拌かくはんされて何も頭に入って来ない。




「I’ve heard there was a secret chord……」




 ノワールが不意に口ずさんだ歌が、柔らかに鼓膜へ染み込んで行く。完璧な発音とリズム感で、それは冬の空に溶けて行く。彼自身の持つ包み込むような優しさが現れている。ミナには、そんな風に感じられた。




「Hallelujah, Hallelujah, Hallelujah, Hallelujah……」




 サビを二人で歌った。ノワールの染み入るような低音は心地良く、まるで子守唄のようだった。


 騒がしい街が近付く。酒精を漂わせるサラリーマン、腹を抱えて笑う若者、肩を寄せ合う男女。今宵はクリスマスイブ。こんな夜があっても良いだろう。


 大通りに出る直前、ノワールが何かを思い出したみたいに言った。




「せっかく別の人間に生まれたのにな」




 余りにも唐突な言葉にミナは戸惑った。

 何の話か分からない。説明を求めて見詰めると、ノワールは空中を掻き混ぜるみたいに指を伸ばした。




「ほら、死体を縫ってたからさ。昔、人間を繋げようとした異常者の映画があっただろ? ムカデ人間だっけ?」

「ムカデ?」

「人間の口と肛門を繋げる奴」

「……」




 ミナは絶句した。自分の想像力を恨んだ程だった。

 人間の口と肛門を繋げるなんて常人の発想じゃない。作る人間も狂ってるが、観る方も大概だ。意味が全く分からないし、分かりたくもない。


 しかし、なるほど、ムカデ人間。

 口と肛門を繋げた人間を並べると、確かにムカデに見える。




「どっか、いかれてんだろうな」

「I also think so」




 ミナは笑った。

 サイコもホラーもスプラッタも、フィクションで見るから面白いのであって、自分の身に起きたら笑えない。


 見慣れた路地が見えて来たので、ミナはノワールに別れの言葉を告げた。殺し屋のねぐらに友達を連れて行く訳にはいかない。




「またな」




 ノワールはそう言って背中を向けた。黒いシャツに黒髪で、寒さに丸まった背中は猫みたいだった。ノワールはフランス語で黒色を意味するらしい。この国では黒猫は不吉の象徴だ。


 微かに歌声が聞こえる。

 ミナはまたあの歌を口ずさんだ。もう聞こえないテナーの歌声が懐かしく、名残惜しく感じられた。

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