⑵ノワール
雑多な駅前から路地裏を抜けて、閑静な住宅街へ入り込む。シャッターの降りた商店街の片隅、寂れた一件の喫茶店があった。
コーヒーを売りにした昔ながらの喫茶店は、今日も
時刻は午後九時を回る。いつもならベッドに入っている時間だ。ここの所、生活リズムが乱れている。精神状態が不安定な自覚はあったが、感情の起伏が激しいとか、目の前のことに集中出来ないとか、パフォーマンスを落とす程の事態には陥っていない。
頭の上に薄く積もった雪が暖房によって溶け出し、汗のように頬を伝う。ミナは
人の良さそうな店主が驚いたように眼をぱちくりさせていた。子供は寝る時間だ。ミナは素知らぬ顔をして、ダージリンのホットを頼んだ。
「機嫌が悪そうだな」
先客がいる。
最奥の席に座っていた青年は、ミナの姿を認めると煙草の火を消した。念入りに潰される吸殻から糸のような煙が昇る。ミナは適当に
青年の前にはショートケーキが置かれていた。
クリスマスだからな。隣に並べられたコーヒーからはまだ湯気が昇っている。ティーカップで提供されたダージリンに礼を言い、ミナは先客の名を呼んだ。
「ノワール」
ミナが呼ぶと、ノワールは少年のように笑った。
寂れた喫茶店の常連で、いつもショートケーキとブレンドコーヒーを注文している。
「何かあったか?」
「Don’t worry about it」
ノワールは追及しなかった。
初めて会った日も、そうだった。この青年はミナの素性を問い質したり、追求したりしなかった。だから、ミナも尋ねたことは無い。
このノワールという青年の素性は知らない。それが本名ではないことは分かっていたが、敢えて詮索する必要も無いことだった。
初めて会った日のことを思い出す。
黄色い
辺りが闇に包まれる寸前、彼の
通り過がりの軽トラックが焼き芋を売っていた。ノワールが買ってくれて、二人で分けた。黄色く
ノワールは甘い物が好きではないらしく、殆どを譲った。その癖にいつもショートケーキを注文しているのだから、彼にも何か訳があるのだろう。
「メリークリスマス」
ノワールは思い出したみたいに言って、ショートケーキの上に乗った苺をフォークで突き刺した。差し出された苺を咥えたら、目が覚めるくらい
思わず顔を
ノワールは気の良い青年で、甘いものが嫌いなのにショートケーキを頼む。そして、上に乗った苺をいつもミナに寄越す。
「ショートケーキの苺は特別なんだぜ」
おまじないみたいに、ノワールは同じことを言う。
意味は知らないし、尋ねたことも無い。だけど、ショートケーキに鎮座する王様みたいな苺が、特別だと言う気持ちは分かる気もする。
「あんまり、一人で出歩かない方がいいぜ」
銀色のピアスを揺らして、ノワールが保護者みたいなことを言う。彼の年齢が幾つなのか知らないが、自分と大して変わらないだろう。
「You too」
ミナが言うと、ノワールが口角を釣り上げて笑った。
不思議な感覚だった。ノワールとは初めて会った気がしない。ずっと昔から知っていたような気がするし、自分を繕わなくていい関係性が心地良かった。
ノワールはジーンズのポケットからジャラジャラと小銭を取り出して、カウンターに置いた。ミナの紅茶代金も払ってくれたらしかった。
散歩しようぜ、とノワールが言ったので、ミナは頷いた。
ノワールは振り向きもせずに扉へ向かった。糊の効いた黒いシャツに真っ直ぐ伸ばされた背中。ピカピカの革靴が木製タイルの床を鳴らす。
ミナは紅茶を飲み干して、席を立った。
7.ツナグ
⑵ノワール
ノワールと一緒にコンビニに入る。
軽快な音に出迎えられ、ミナは揚げ物のねっとりとした臭いに眉を寄せた。
この国に来るまで、間食というものを殆どしたことが無かった。買い食いが出来るような店も、時間も無かった。いつも何かに急き立てられているような気がして息苦しく、そんな風に感じる自分が嫌いだった。
ミナはノワールから離れ、棚に詰め込まれた雑貨や菓子類を観察した。特に菓子類はパッケージが
ノワールは、棚には寄り付かず、真っ直ぐレジに並んだ。
陳列棚から唐揚げを二つ頼み、袋に入れてもらう。ミナが隣に並ぶと、学生だろう店員が僅かに目を細めた。
ポケットから小銭を取り出して、ノワールが購入する様を眺めていた。ビニール袋に入れられた二つの唐揚げは、コンビニを出た時に二人で分けた。
警察の目を嫌って駅前を避け、二人で何となく路地裏に入った。繁華街の喧騒とは打って変わって、まるで水の中にいるかのように静かだった。
「最近、嫌な事件が起きてる」
ノワールが言った。
知っている。ミナはノワールの横顔を見詰めた。
界隈で不気味な事件が起きている。
駅前の交番に勤める巡査、桜田が言っていた。世間に報道された情報では、通り魔的な連続殺人事件らしい。犯人がどのような人間で、何処の誰がどのように殺害されたのかは分からない。
インターネットでは憶測が飛び交い、三流のオカルト雑誌ではカルト宗教がどうとか、超常現象がどうとか根も葉も無い記事が書き立てられている。
アンダーウェブで調べてみたら、少しはマシな考察が出て来た。
被害者は四名。いずれも身元が掴めない。それは、人としての原型を留めない程に解体されてしまっているからだ、と。
根拠の無い話はどうでも良かった。だが、複数の死体が発見されていながら、身元不明なのは報道に規制が掛かっている為だろうと推察出来る。
この国のプロファイルは未熟だ。
犯行の手口や現場状況から犯人像を割り出し、事件が収束するにはまだ時間が掛かるだろう。
「死体を見たか?」
振り向いたノワールの瞳に、オレンジ色の街灯が反射している。水平線に沈む夕陽を見ているみたいで、綺麗だった。
ミナが首を振ると、ノワールは得意げに言った。
「三丁目の路地裏でさ、烏が
「くっついてた?」
「そう。手ぇ繋ぐみてぇに、手首同士で縫い付けられてた。素人だろうな。切り口が汚かった」
縫い付けるなんて、普通じゃない。
猟奇殺人だ。犯人は異常者だろうか。
いや、実際に現場を見た訳じゃない。異常者の真似をした情操未発達の人間かも知れない。二人の人間を殺すなんて単独犯ではリスクが高い。人間は集団になるとリスクの高い選択をし易いのだ。
しかし、殺すだけなら兎も角。
どうしてそんなリスクを背負う必要があるのだろうか。犯人のこだわりのようなものが感じられる。
「何で縫ったんだろう」
「さあね」
ノワールが日本語で話すので、つい釣られてしまった。
けれど、ノワールは指摘も追求もしない。
「そういや、裸だったな。女同士だった。クリスマスで浮かれてたのかもな」
変な発想だ。
クリスチャンでもない癖に、この国の人間はクリスマスになると何故か浮かれるらしい。宗教に寛容な国柄であることは知っているが、余りにもいい加減だ。
「ノワールが最初に見付けたの?」
「多分な」
ノワールは通報しなかったらしい。
ならば、誰か別の人間が通報したのだろう。アンダーウェブにも縫い合わせられていたなんて情報は無かった。警察の
「見たかったか?」
ノワールがそんなことを尋ねたので、ミナは答えに迷った。死体に興奮する趣味は無いし、無関係なトラブルに首を突っ込む程、暇じゃない。だけど、好奇心が全くないとは言えない。
「血の臭いは嫌いだ」
「はは」
ミナが答えると、ノワールは笑った。
「なんか、刺身が食いたくなって来たな。今度、寿司でも食いに行くか」
空を見上げて、ノワールが呑気に言った。
刺身は知っている。母国にいた頃、祝い事の時には手巻き寿司が用意された。家族で囲んだ食卓が蜃気楼みたいに瞼の裏に浮かぶ。
顔が見たいな、と思う。せめて、声だけでも。
仄かに滲む甘えを打ち払い、ミナは顔を上げた。今はまだその時じゃない。自分はまだ何も成し遂げていない。
「手巻き寿司が良いな」
「ああ、あれ楽しいもんな」
目を細めて、ノワールが頷く。彼にも懐かしむ家族や思い出があるのだろう。
ポケットから携帯電話を取り出したノワールが、時刻を告げた。午後十時半。言われてみると、眠くて
「送ってやろうか」
「Don't worry. I'm fine」
「そんなこと言って、明日には死体になっているかも知れないからな」
逆の立場だったなら、自分も同じことを言っただろう。そう思うと安易に無下に出来ず、ミナは厚意に甘えることにした。
人気の無い夜道に、何処からかクリスマスソングが聞こえる。宗教の
「I’ve heard there was a secret chord……」
ノワールが不意に口ずさんだ歌が、柔らかに鼓膜へ染み込んで行く。完璧な発音とリズム感で、それは冬の空に溶けて行く。彼自身の持つ包み込むような優しさが現れている。ミナには、そんな風に感じられた。
「Hallelujah, Hallelujah, Hallelujah, Hallelujah……」
サビを二人で歌った。ノワールの染み入るような低音は心地良く、まるで子守唄のようだった。
騒がしい街が近付く。酒精を漂わせるサラリーマン、腹を抱えて笑う若者、肩を寄せ合う男女。今宵はクリスマスイブ。こんな夜があっても良いだろう。
大通りに出る直前、ノワールが何かを思い出したみたいに言った。
「せっかく別の人間に生まれたのにな」
余りにも唐突な言葉にミナは戸惑った。
何の話か分からない。説明を求めて見詰めると、ノワールは空中を掻き混ぜるみたいに指を伸ばした。
「ほら、死体を縫ってたからさ。昔、人間を繋げようとした異常者の映画があっただろ? ムカデ人間だっけ?」
「ムカデ?」
「人間の口と肛門を繋げる奴」
「……」
ミナは絶句した。自分の想像力を恨んだ程だった。
人間の口と肛門を繋げるなんて常人の発想じゃない。作る人間も狂ってるが、観る方も大概だ。意味が全く分からないし、分かりたくもない。
しかし、なるほど、ムカデ人間。
口と肛門を繋げた人間を並べると、確かにムカデに見える。
「どっか、いかれてんだろうな」
「I also think so」
ミナは笑った。
サイコもホラーもスプラッタも、フィクションで見るから面白いのであって、自分の身に起きたら笑えない。
見慣れた路地が見えて来たので、ミナはノワールに別れの言葉を告げた。殺し屋の
「またな」
ノワールはそう言って背中を向けた。黒いシャツに黒髪で、寒さに丸まった背中は猫みたいだった。ノワールはフランス語で黒色を意味するらしい。この国では黒猫は不吉の象徴だ。
微かに歌声が聞こえる。
ミナはまたあの歌を口ずさんだ。もう聞こえないテナーの歌声が懐かしく、名残惜しく感じられた。
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