⑷ペリドット

 心臓の音が聞こえる。

 地響きのようにうなる血流と、等間隔の拍動。

 自分がとても落ち着いていることが分かる。


 扉の前から立花、秘書、ミア、ミナ。殿しんがりを任された翔は扉の向こうに迫る脅威を想像し、静かに深呼吸をした。

 敵は複数で武装していると、立花が言った。対する此方の武器は立花の拳銃一丁で、護衛対象を連れた自分達は圧倒的に不利だった。


 それでも、怖いとは微塵みじんも思わなかった。

 立花が守ってくれるとは考えていない。窮地きゅうちであれば彼は平気で自分を切り捨てるだろう。




「ミナを守れ」




 立花はそう言った。

 ミアではなく、ミナを。

 立花にとって最も優先度の高い護衛対象を、圧倒的不利なこの状況で任されたのだ。自分を必要としてくれる人がいて、信用してくれる人がいる。それが嬉しかった。




「言われなくても」




 口元がムズムズする。

 立花は完全に背中を向けている。筋肉質ではないし、見上げる程の長身でもない。だが、その背中はとても大きく、頼もしく見えた。


 行くぞ、と立花が言った。

 翔は身構えた。扉が開かれる、――刹那。後ろから硝子の割れる凄まじい音がした。


 扉は開かれている。立花は背後からの侵入者に対応出来ない。まるで此方の動きが見えていたかのようなタイミングだった。


 散らばった硝子片を踏み付けながら、侵入者は薄暗い室内を闊歩かっぽする。立花が応戦出来ないことを見透かしていたのだろうか。翔は目をすがめ、敵の正体を見極めようとした。


 それは、一人の青年のようだった。

 昼下がりの街をぶらりと出歩くような気軽さで、子供のような無邪気な笑みを浮かべて、翡翠ひすいの瞳を爛々らんらんと輝かせている。




「……お前は……」




 翔は愕然がくぜんと言葉を失った。

 子供の手を離れた風船。迫る車両。野生動物のような身のこなしで翔と子供の命を救ったあの青年が、銃をぶら下げて微笑んでいる。




「Run!!」




 ミナが叫んだ。

 扉を突破した立花は、廊下の向こうに身を滑り込ませていた。銃声が響き渡り、パニックを起こした秘書が悲鳴を上げる。翡翠ひすいの男はうっとりと微笑み、その手を持ち上げた。


 銃声が二度、鳴り響いた。

 血飛沫を上げ、秘書の体が壁に打ち付ける。床も壁も真っ赤だった。ミナが翔の腕を引き、廊下へ駆け込む。

 廊下は血の海だった。武装した男達が倒れ伏し、赤黒い血液を垂れ流している。立花は廊下の曲がり角に身を潜め、非常階段へ向かって発砲していた。


 ミナは扉を足で閉め、早口に状況を叫んだ。

 英語だった。動転しているのはミナも同じだ。

 扉の向こうから鈍い音が聞こえる。突破されるのは時間の問題だ。挟み撃ちにされている。このままじゃ駄目だ。




「金髪に緑の目……。聞いたことがある」




 階段に潜む敵を射殺しながら、立花は冷静に言った。




「国家の邪魔になる人間を抹殺する、国家公認の殺し屋。その中でも一際ひときわ若く、腕が立つ男がいるってよ。名前は確か」




 呟きながらも、立花の動きはにぶらない。

 バックドラフトを引くと、ミアの首根っこを引っ掴んで放り投げた。翔は慌ててその隙間に滑り込み、扉を蹴って閉めた。鉄の扉が銃弾を弾く。ミアが短く悲鳴を上げる。




「ペリドット」




 その時、非常ベルが鳴り響いた。

 天井に設置されたスプリンクラーが作動し、冷たい水が頭から降って来る。立花は咄嗟とっさに銃を腕の下に隠し、翔は視界を守った。


 全員びしょ濡れになりながら階段を駆け降りる。寒くてたまらない。衣服が肌に張り付いて気持ちが悪い。頭上から銃声が聞こえたが、立花が発砲するとうめき声を上げて男が落ちて来た。


 ミアのいた部屋は最上階のはずだった。それでも敵が上から来るということは、完全に包囲されているということだ。

 地上五階建てのビジネスホテル。翡翠ひすいの男――ペリドットは、窓の向こうからやって来た。どうやって?




「レンジ。二手に分かれよう。固まっていたら的になる」




 ミナが言った。

 立花は周囲に視線を巡らせた。




「信じていいんだな?」

「Of course」




 ミナはうなずき、パーカーのフードを被った。

 まさか、おとりになるつもりなのか。


 立花は階段を駆け降りる。何の警戒もしていないように見えるのに、予備動作も無く敵を射殺して行く。流れるように銃弾を補充し、振り向いた。




「此処を出たら二手に分かれる」




 二手に分かれることで、全滅は避けられるかも知れない。だけど、それが本当に最善なのか翔には答えられない。


 守り切れるか?

 拳銃を持った相手に、丸腰の自分が敵うのか?

 一階ロビーは血の臭いに包まれていた。カメラで見た通りに受付係は殺害されて、壁には血の跡が残っている。

 硝子張りの扉から昼間のさびれた繁華街が見えた。一枚の硝子をへだて、此方は地獄そのものだ。


 立花は扉の向こうを観察しながら言った。




「まずはこのガキを逃す。有象無象は俺が殺す」

「ペリドットは俺達が引き受ける」




 ミナが平然と言った。そうなることが初めから分かっていたみたいだった。

 相手は一人だ。立花は大勢の敵とお荷物を引き受けてくれている。だが、何故だろう。あのペリドットという男は、底知れない何かを感じさせる。




「ショウ、力を貸して」




 ミナの濃褐色の瞳がうるんで見えた。

 スプリンクラーのせいなのか、緊張なのかは分からない。だが、この子は覚悟を決めている。

 翔は濡れたフードを撫で、うなずいた。














 5.夜のパレード

 ⑷ペリドット














「あの人、前に助けてくれた人だよね?」




 ミナが問い掛ける。

 ビジネスホテルを出てから立花と分かれ、ミナは人気の無い街を駆け出した。夜は人で溢れる通りも、昼間は死んだように静かだった。


 翔はうなずいた。自分の記憶違いではないようだ。

 路地裏を抜けると、僅かに通行人の姿が見られた。誰が敵で味方なのか分からないが、一般人を見ると安心する。


 ミナは立ち止まり、ひざに手を突いた。濡れた服が重そうだった。翔が手を差し伸べようとした、その時、ミナの目が真ん丸に見開かれた。


 濃褐色の瞳に自分と、誰かが映っている。

 振り向く間もなかった。脇腹に鈍い痛みが走ったと同時に、翔の体は吹き飛ばされていた。

 コンクリートの壁に背中を打ち付け、一瞬、呼吸が止まる。反射的に振り向いたミナの後ろで、ペリドットは笑っていた。


 西日を浴びた鉄の塊が、ミナの後頭部に向けられている。

 翔はきしむ体を無視して、身を起こした。手元に転がっていた石ころを投げるが、ペリドットは避けなかった。その指先が引き金を引く寸前、翔は起き上がった。

 ミナの腕を引っ張ると、その僅か上を銃弾が駆け抜けた。倒れ込むミナを引き摺りながら、翔は路地裏に逃げ込んだ。


 背中が痛い。咳き込むと血の味がした。

 食らったのはただの蹴りなのに、まるで鈍器で殴られたみたいな重さだった。


 地図を把握しているのかミナは迷いなく走り続ける。振り向く余裕は無かった。交通量の多い大通りに差し掛かる。青信号になると横断歩道は人で溢れ返った。人混みに紛れて大通りを渡り、翔はようやく振り向いた。

 信号は赤だ。人々の中、翡翠ひすいの男が立っている。車の群れが進路を阻む。


 ペリドットは笑っている。

 そして、次の瞬間。ペリドットの足は地面を蹴った。


 凄まじい速度で走り抜ける車のボンネットを踏み付け、ペリドットの身体は宙に浮いていた。そのまま空中で身をひねると、三車線ある公道を一瞬で飛び越えてしまった。


 甲高かんだかいブレーキの音が響き、クラクションが交錯こうさする。悲鳴と怒号、動揺と混乱の中、ペリドットは何でもないことみたいに対岸へ着地した。


 ミナが舌打ちをして、手を引いた。

 人混みを掻き分け、繁華街から離れて行く。逃げるならば人混みにまぎれるべきだ。だが、それで一般人を巻き込んだり、自分達を見失ったペリドットが立花の方へ行ったりしては困るのだ。


 人を避け、緑地公園に差し掛かる。ミナは遮蔽物を利用してペリドットから距離を取ろうとしているようだった。広場の階段を駆け下り、茂みを迂回うかいし、少しでも遠くへ。


 横目に振り返る。

 ペリドットは、笑っている。その笑みを見た瞬間、全身に稲妻のような緊張が走り、鳥肌が立った。


 階段の欄干らんかんを掴んだペリドットが、ミサイルみたいに突っ込んで来る。遮蔽物も重力も、彼の前には無意味だった。空中で身をひねり、僅か一瞬で距離を詰めると翔のえりを掴んだ。

 信じ難い怪力だった。抵抗すら出来ないまま、翔の体は片手で後方へと投げ飛ばされた。


 翔は空中で体勢を整え、どうにか着地する。間髪入れずに地面を蹴って、ペリドットの腕を掴んだ。

 翡翠ひすい色の瞳には愉悦ゆえつが浮かんでいる。その時になって、翔は実力の違いを理解した。今の自分達が生きているのは、ペリドットが遊んでいるからなのだ。まるで、子供が追いかけっこをするみたいに。


 邪気の無い瞳に気圧けおされた一瞬の隙に、ペリドットは翔の腕を掴み返した。万力で締められているみたいに骨がきしむ。視界がぐるりと回転し、赤煉瓦あかれんがの地面に叩き付けられる。

 今度は受け身を取れた。翔が起き上がろうとした時、ミナがペリドットの足元に滑り込むのが見えた。




「止めろ!」




 翔の制止は間に合わなかった。ペリドットはタップダンスでもするみたいに軽やかにかわすと、ミナを蹴り飛ばした。

 小さな体が勢いよく地面を滑って行く。翔は立ち上がり、ペリドットのひざを狙ってかかとじ込んだ。


 異様な硬さだった。

 鉄の塊みたいだ。ペリドットは翔の首根っこを掴み、左手を振りかざした。視界が一瞬白く染まり、気が付くと目の前にミナがいた。ほほが熱く、口の中一杯に鉄の味がした。其処でようやく、自分が殴られ、ミナの場所まで吹っ飛ばされたことを知る。


 ペリドットの前に立ち塞がるようにして、ミナが立ち上がる。厚手のパーカーが擦り切れている。交通事故にでも遭ったみたいだ。


 ショウ。

 小さな声で、ミナが言った。




「あの身体能力を相手に、戦って勝つのは現実的じゃない。逃げ切るのも物理的に不可能だ」




 ミナが諦めたように弱音を吐くので、翔はたまらず怒鳴った。




「じゃあ、どうすんだ!」




 ペリドットは笑っている。

 戦って勝てる相手じゃない。逃げ切るのも不可能。今の自分達が生きているのは、ペリドットが遊んでいるからで、最後には殺される。


 ミナは横顔だけ振り向いた。

 子供特有の柔らかな頬から血がにじんでいる。ミナは言った。




「引きり下ろしてやる」




 ミナは火の点いた目をしていた。

 諦めていない。まだ何も終わっていない。


 ミナはポケットからUSBを取り出すと、ペリドットの前にかざした。翡翠ひすい色の瞳が細められる。ミナは言った。




「Catch me if you can」




 USBをちらつかせて、ミナが不敵に笑った。




「Over there, Mr. Peridot!!」




 身をひるがえし、ミナが翔の手を引いて走り出す。

 ペリドットの口元が弧を描く。それはまるで、飢えた野獣が身動きの取れない獲物を前にしているかのような、愉悦と恍惚こうこつに染まった歪んだ笑みだった。

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