⑸ヒーロー
事務所に戻った時には、午後九時を過ぎていた。
ミナは黙って三階に上がった。どうやら、其処が彼の
ミナの代わりに調査報告をするべきか迷ったが、立花が求めなかったので翔は黙っていた。靴を脱いでソファに寝そべり、布団代わりにダウンコートを被った。
テレビの雑音を聞いている内に眠ってしまい、気付くと朝だった。
「ターゲットの行動範囲や住所は把握した。周辺地図も送っておくから」
どうやら、昨日の調査報告を済ませたところらしかった。ミナは翔が目覚めたことに気付くと、
翔が応えると、ミナは再び立花へ向き直った。
「ターゲットの子供が、言ってた。誰かの幸せを守る人や、それを願う人はヒーローなんだって」
「へぇ」
「どう思う?」
立花は口角を釣り上げ、皮肉っぽく笑った。
「それを俺に訊くのかよ」
「訊きたいんだ」
背中を向けたミナの表情は見えないけれど、その声はとても静かだった。立花は答えた。
「ヒーローとは、相対評価だ。血筋や能力値でもなければ、
「結果が全て?」
「そりゃそうさ。需要と供給という意味では、俺達と表裏一体なのかもな。俺達は依頼があるから人を殺すし、ヒーローは困っている弱者がいるから助ける」
嫌な話だが、的を射ている。
ミナは
「あの依頼人は、嘘を吐いているよ」
ミナは断言した。
立花の眉間に
「これはただの復讐だ。アンタは
ミナが何故その結論を出したのか、翔には分からなかった。だが、ミナは当然の帰結であるかのように堂々と言った。
「俺には、分かる」
結論に対しての補足はない。ただ、ミナは自分の結論が真実だと主張している。
立花はミナをじっと見詰めていた。
「……だとしても、俺は依頼を受けた」
その瞬間、ミナの瞳に炎が燃え上がるのが見えた。
「レンジに言ってるんじゃない!」
突然、ミナが机を叩いた。
小さな
「お前に言ってんだよ、ハヤブサ!!」
ミナの怒鳴り声を、初めて聞いた。
多分、それは立花も同様だったのだろう。金色の瞳が真ん丸に見開かれ、ぽかんと口が開いている。
「俺はアンタがただの人殺しだとは思わない。善人か悪人かと言えば、悪人なんだろう。殺人を肯定するつもりはないけど、アンタは覚悟と信念がある殺人鬼だ」
「何が言いてぇ」
放心状態から回復した立花が肉食獣のように凄んだ。けれど、ミナは一歩も引かなかった。
「アンタの
「やってみろよ、クソガキが!」
「やってやるよ!」
彼等のやり取りの意味は分からない。
ミナがこんな風に怒鳴れる人間であることを、初めて知った。
「俺にも譲れないものがある。エゴでも
そのまま何も言わずに事務所を出て行ってしまったので、翔は
追い掛けるべきだったのだろうか。
翔が迷っていると、立花が言った。
「昨日、依頼人と何を話した? お前の意見を訊きてぇ」
まさか、こんな日が来るとは。
翔は感動するべきなのか動揺するべきなのか分からないまま、口を開いた。
4.小さな掌
⑸ヒーロー
結局、ミナは帰って来なかった。
日が落ちた頃に立花も出掛けてしまったので、事務所には翔一人きりだった。
翔は頭の中を整理するつもりで、今回の依頼を振り返った。
白滝は、難病に苦しむ娘を解放する為に殺害を依頼して来た。だが、調査してみると娘は
翔が事実を伝えた時、彼女は動揺しなかったし、依頼を取り下げることもしなかった。契約書にサインしてしまったからと言っていた。
ミナは、依頼人が嘘を吐いていると言った。どうしてそう思ったのだろう。答えは簡単だ。依頼を取り下げる素振りを見せなかったからだ。
契約書の有無は関係が無かったのだ。
白滝は娘を殺したかった。何故だ。
娘――心音は母親から虐待されていた。離婚後に父親に引き取られたのはそのせいだ。
娘を解放したいという動機が
では、ミナは何をするか。
間違いなく、立花の邪魔をする。そして、恐らく立花もそれを予想している。自分に何が出来る?
命綱だよ。
ミナの声が
地図の中、自分の地点が赤く点滅していた。そして、離れた場所に青い点が見える。どうやら、ミナの居場所らしい。
ぎょっとした。ミナがいるのは、上杉心音の住居周辺らしかった。やはり、立花の邪魔をしに行ったのだ。
立花が何処にいるのか分からない。
ミナを殺すとは思えないが、ミナ自身が心音を
間に合うか?
ミナがいるということは、危険が迫っているということだ。どうやって追い付く。電車は無理だ。
どうする。どうする。どうする。
ふと思い立って、翔は事務所を飛び出した。
隣のビルの案内板から幸村法律事務所を見付け、翔は扉を叩いた。電気は点いていた。彼女がいる保証はないし、協力してくれるとも限らないが、他に方法が思い付かなかった。
髪を下ろした幸村が、迷惑そうに顔を
「助けてくれ!」
彼女は困惑し切った顔をしていた。
こんな風に助けを求めたことはなかった。自分の命なんてどうでもよかったし、大切な誰かもいなかった。でも、今は違う。
「ミナが危ないんだ! 頼む、助けてくれ!」
「――ミナちゃんが?」
幸村は目付きを鋭くした。
話を聞いてくれそうだったが、悠長に話している時間は無かった。説明もせずに車を出してくれと言うと、幸村は頷いた。
こんな風に助けを求めて、誰かが応えてくれるのは新鮮だった。これはきっと、自分ではなく、ミナの人徳だ。
幸村は「待っていて」と言い残すと、一度扉を閉じて、次に出て来た時にはコートと車のキーを持っていた。ハイヒールで器用に走りながら、車の元まで案内してくれた。
ビルの一階は駐車場だった。奥に停められた赤い車に見覚えがあった。以前乗せてもらった。赤くて丸っこいから、テントウムシに似ている。
幸村が運転席に飛び乗る。すぐに助手席の扉が開いたので、翔は滑り込んだ。
シートベルトを締めるように言われ、翔がそれを装着する前に車は駐車場を弾丸のように飛び出した。
ミナの現在地を住所で伝えると、幸村は片手でカーナビに入力した。目的地までの最短距離が表示される。到着までの時間は
日本の路線はどうしてあんなに
「何があったのか訊いてもいい?」
「……家出したんだよ」
嘘を吐くのは心苦しいが、本当のことも言えなかった。幸村は静かに
「あの子、学校は行ってるの? 未成年よね?」
「……」
「一度、眼帯を付けた男と一緒にいるのを見たの。児童買春じゃないでしょうね」
児童買春って何だろう。
翔が黙っていると、幸村は更に問い掛けた。
「いつも英語だけど、まさか密入国じゃないわよね? ミナちゃんは
自分の嘘もお
翔は適当に話を合わせた。埋め合わせはミナにさせよう。自分が何か言うよりはマシだろう。
車は高速道路に乗った。
目的地が近付くと、果たして自分は間に合うのか不安になった。今頃、ミナか心音のどちらかが死んでいるかも知れない。そう思うと居ても立っても居られなかった。
静かな団地群にエンジンの音が反響する。
地図を確認すると、青い点が近くにいて驚いた。辺りは静まり返り、人気もない。まさか、隠れているのだろうか。立花の銃弾から心音を守る為に?
翔は車を飛び降りた。幸村が何かを言った気がしたけれど、止まらなかった。視界がじわりと赤く
ミナが近くにいることは分かるのに、何処にいるのか分からない。当然、立花が何処から狙って来るのか予測も出来なかった。
だが、此処で立ち止まってしまったら、この先一生後悔するという確信めいた予感があった。何が出来るか分からなくても、立ち止まったらダメだ。
冷たい汗が
翔が辺りを見渡した時、団地の影から二つの影が現れるのが見えた。
心音と父親だった。
二人は無言だったし、心音は無表情だった。けれど、決して不幸には見えなかった。
嫌な予感が稲妻のように体を駆け抜けた。
その瞬間が、まるでスローモーションのように見えた。
視界の端で、ミナが走って来るのが見えた。同時に、銃弾が夜の闇を切り裂いて行くのが分かった。
その交差点には、心音がいた。感情を亡くした人形みたいに、凍り付いた心で歩いている。翔は地面を蹴った。
間に合え!
間に合え!
間に合え!!
心音と父親が
翔が必死の思いで伸ばした指先は、届かなかった。コンマ数秒、僅か数センチ。ミナが心音を抱えてアスファルトの上を勢いよく滑って行った。
心音を抱えたまま、ミナは起き上がらない。
翔はアスファルトに残った弾痕を見た。立花の狙撃の方向が予測出来る。
ミナの首根っこを掴んで死角へ回り込む。何が何やら分からないまま、父親が何かを
追撃は無かった。それも予想していた。
立花は
ミナがぱっと顔を上げた。頬が擦り
厚手のパーカーを着ていたお蔭で大きな怪我は無さそうだったが、随分と勢いよくアスファルトの上を滑っていた。ミナは心音の無事を確かめると、深く息を吐き出して、座り込んでしまった。
幸村が駆け寄って来るのが見えた。
説明しなければならないことも多いけれど、翔には出来ないことが多かった。
ずり落ちた眼鏡を直すこともせず、父親が心音を抱き締めた。その時、心音がくしゃりと顔を
泣けない子供だと、思っていた。
彼女の心には傷がある。それに、心の傷は簡単には
父親の腕の中で、身も世もなく小さな少女が泣き叫ぶ。可哀想な子供だ。憐れな少女だ。――だけど、ミナの手が届かなければ、泣くことだって出来なかった。
「……今、銃撃されたわよね」
団地に身を潜めながら、幸村が言った。
見えていたのか、直感したのか。翔が見遣ると、幸村はアスファルトの弾痕を
幸村の言葉を聞いた父親が
「一体誰が! どうして!」
「分からないわ。警察を呼びましょう」
心音は泣きじゃくっている。
翔にはどうしたらいいのか分からなかった。ミナの行動は立花の逆鱗に触れたかも知れない。心音は狙われ続けるのかも知れないし、ミナは罰を受けるかも知れない。――だけど、銃弾の前に飛び出したミナの勇気を無駄にしたくなかった。
その為に何が出来るだろう。
ミナの為に、心音の為に。
その時、ミナが立ち上がった。
何処か痛めたのか、姿勢が
「大丈夫」
濃褐色の瞳に柔和な光が宿っていた。
心音は
「この世の終わりじゃない」
心音の瞳に光が映る。それは月明かりの反射だったのかも知れないし、錯覚だったのかも知れない。だけど、翔には、それがとても美しく見えた。
幸村が携帯電話を片手に何か話している。警察を呼んでいるのだろう。――立花は、どうするだろう。
「ミナ、電話貸せ」
「ショウ?」
「立花と話す」
ミナは履歴から立花の電話番号を呼び出した。呼び出し音が聞こえる。翔は携帯電話を受け取って、耳に押し当てた。
立花の声がした。
その声は不気味に凪いでいる。
「何処にいる」
短く言うと、立花は寝起きみたいな
「其処で待ってろ」
立花は笑っていた。
翔は携帯電話を返した。
ミナは何か言いたげにしていたが、翔は無視して走り出した。
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