第三章 立夏
第29話 船旅(表)
突然だけどハーレムとは。
元はトルコ語で女性の居室、後宮を意味するハレム の日本訛り。
一般的には、一人の男に対して多数の女性が取り巻くような状況として認知されているね。
まあ、僕も男ですから?
美女美少女にちやほやされる状況はさんざん妄想したさ。
でもさ。
何度も言ったと思うけど、僕は前世も含めれば50年近くモテたことがない。
そんな僕が、男なら大半が振り向くレベルであるナナさんと龍見姉妹に引っ張りだこにされる状況が実際に訪れるなんて、夢にも思わなかったよ。
いや、もしかしたら、これは夢なんじゃないだろうか。
だって、両腕は龍見姉妹の巨乳に挟まれ、顔はナナさんの胸に埋もれているんだから。
ああ、できることならこのまま窒息死したい。
「おい、小鬼。その貧相な胸をどけろ」
「そうです。小吉様のお顔に押し付けるなら、せめて私たちの半分程度まで育ててからにしてください」
「小吉は幼女趣味なんじゃけぇ、胸は小さい方が好きに決まっちょろうが。じゃけぇ、アンタらの胸を押し当てられるんは幼女趣味の小吉からしたらむしろ拷問じゃろ」
呉に行くために乗艦した大和の甲板で、僕が幼女趣味だと暴露しないで。
ほら、会話が聴こえる範囲にいる水兵たちがわかりやすくざわついてるじゃないか。
「おい、お前たち。周りの目もあるから、もう少し大人しくしてくれ」
「沖田さん、それは無理ですよ。だってこの三人は、常識とはかけ離れた家系の人たちですから」
「しかし歌殿、それでは油屋大将が恥を……」
「今さらじゃないですか?」
いやまあ、それはそうなんだけど、助けてくれて良いんだよ?
ああ、断っておくけど、時代が時代なら社会的に死にかねない状況ではあるけど、この状態は天国だ。
嗅ぎなれているはずのナナさんの匂いも、制服と言う名のフィルターを通すとまた違った興奮が僕を……じゃないな。
うん、冷静になろう。
まずはナナさんを引き剥がして、龍見姉妹にも離れてもらって……っと。
「小吉お兄ちゃん。鼻の下が伸びてるよ?」
「気のせいだよ」
「え~? 本当かな~」
本当です。
だから、三人から解放されて沖田君の横に移動した僕を、ジト目で見上げる仕草をやめて。
マジで可愛いから。
いくら今世の僕がロリコンじゃないとは言っても、理性が飛びかねないから。
「やっぱ、小吉の大将は巨乳好きだったな。なあ? 姉ちゃん」
「ええ、微妙に腕を動かして感触を堪能しておいででしたから、間違いありません」
「いや。小吉はあたしの胸の匂いを吸っちょった。嗅ぐじゃのぉて吸うたんよ。じゃけぇ小吉は貧乳好きじゃろ」
「あの、三人とも喧嘩は……」
やめて。
さっきの状況だって、僕は巨乳派だ。いいや貧乳派だ。なんて、口論の末だよ?
なのに、また始めるの?
ただでさえ、艦隊勤務中は女性と接することができない人が大勢いる艦内で三人は注目の的なんだから、あまり目立つような事はしないでほしいなぁ。
「居室に戻りますか? そこなら、少々騒いでも問題はないかと」
「うん、そうだね」
そもそもの間違いは、この三人を連れて甲板に出たことだ。
でもさ、それにはやむにやまれぬ事情があった。
なんだと思う?
龍見姉妹に、甲板からの景色が見たいとせがまれたんだ。
あの巨乳で、顔を両側から挟まれながら!
そんなことをされて、僕みたいな万年童貞に断れると思う?
断れないよ!
二つ返事でOKしたよ!
「ナナ、どうしたの? やけに後ろを気にしてるじゃない」
「歌にゃあ、見えちょらんのか?」
「何が? ナナや龍見姉妹のお尻を凝視してる水兵さんたち?」
「あ~……。まあ、それでええ」
はて? 何か引っ掛かる言い方だな。
乗艦してからずっと、ナナさんがしきりに後ろを気にしてたのは気づいてたけど、僕も水兵たちのことだと思ってた。
「油屋大将。わたくしが、注意してきましょうか?」
「いや、やめておこう」
「ですが、直属でないとは言え、上官が連れている女性を覗き見るなど失礼が過ぎます」
「大丈夫だよ。この三人が本当に嫌なら、僕らが止める前に水兵たちを殴り飛ばしてる」
「それは、そうですが……」
正直に言えば、気分は良くない。
三人とも僕の恋人ではないけれど、それでも無遠慮に見られると面白くはない。
でもそれは、完全に僕の我儘だ。
三人が嫌がる素振りでも見せてるなら話は別だけど、そうじゃないのに余計な軋轢を生むのはよろしくないからね。
「ねぇ小吉。ここってあたしら以外に女はおらんのよね?」
「そうだよ」
「ふ~ん……」
「何か、気になることでも? 彼らに見られるのが嫌なら……」
やめろと言ってくる。
と、ぼくが言う前に「いや、そっちはどうでもええ」と断られた。
そっちってどっちだ?
と、疑問に思ったけど、ナナさんはそれっきり、僕たちにあてがわれた部屋に戻るまで後ろを気にしなくなった。
「そういえば小吉様。昔から、女を船に乗せると海の神様が怒るから乗せるな。と、言われていますが、この艦の人たちは気にしないのですか?」
「あ、そこ気にしちゃう? 気分を害するかと思って言わなかったんだけど……」
最初は、一部がそれを理由に難色を示した。
これが平成の世なら、時代遅れだとか男尊女卑だとか言われるんだろうけど、残念ながら今は昭和。
しかも、女性より暴力に長けた男が主役だった……と、言うと語弊があるけど、最も権勢を振るった戦争が終わって間もない。
だから、依然として男尊女卑はまかり通ってる。
だけど、龍見姉妹が……と言うより、龍見家が元々水場を管理する神職だったのと、歌ちゃんの名字のおかげですんなり乗せてもらえたんだ。
「男性って、古臭い考え方で難癖つけるクセに、変なことでクルっと手の平を返しますよね」
「そう言わないであげてよ歌ちゃん。海の神様云々の前に、海軍にとって艦は力その物だから、艦がヘソを曲げると考えちゃう人も一定数いるんだ」
「艦がヘソを曲げる? どうしてですか?」
「僕たち海軍軍人が、艦を女性ととらえているからさ」
「それ、本当に?」
本当なんだなぁ、これが。
まあ、実際は慣用でしかないんだけど、船を操っていたのが男性だったから、その相棒である船を女性に例えたんだと思う。
でも、船が沈む前に、船から女性が去って行くのを見たと言う証言は昔からある。
例えば、日本には昔から長い年月を経た道具などに神や精霊、霊魂などが宿った付喪神なんてものの言い伝えがあるし、船に限って言えば『
そしてこの舟魂は、船が沈む前に船から離れて行くと言われている。
例えば、戦艦陸奥。
陸奥が不審火で爆沈したのは本来の歴史でも有名な話だけど、その日の夜に、第三砲塔の上で真っ白な浴衣のような着物姿で赤い髪を振り乱してけたたましく笑っている女性の姿が目撃されている。
そして陸奥は、その日の正午過ぎに爆沈したそうだ。
その話を実際に聞いたときは、猛君や他の同士と一緒に幽霊は本当にいるかどうかを議論したっけ。
「男ってのは基本、馬鹿だからね」
「あら、小吉様は、聡明でいらっしゃいますよ?」
「姉ちゃんの言う通りだぜ、大将。なんせ、オレを惚れさせたんだからな」
「ハハハ、ありがとう褒め言葉として受け取っておくよ」
まあ、お世辞だろうけど。
これが本気で言ってくれてるなら天にも昇る気持ちになるだろうけど、調子に乗るな小吉。
お前はモテない。
仮にモテ期が来たって、精々動物がすり寄って来る程度にしかモテない完全無欠の非モテだ。
もし、ここで調子に乗って「じゃあ、今晩どう?」とか言おうものなら体に風穴が空く。
比喩でも何でもなく、物理的に……っと、何だか今日は妙に揺れるな。
外洋ならともかく、沿岸部からさほど離れていない海域でこんなに揺れたっけ?
小型船ならともかく、大和がここまで揺れるとは思えないんだけど……。
「妙ですね」
「沖田君も、そう思う?」
「ええ。このくらいの揺れ自体は、磯風に乗っていた頃に南方で散々経験しましたが、大和でこの揺れはおかしいです」
「だよね」
これで外が嵐だと言うなら話は別だけど、今日は染み渡るような空と表現したくなるほどの晴天で風も強くはなかった。
僕たちが艦内に入ってから天候が急転した?
いや、窓から見える景色に変化は見られない。
なら、この揺れは天候のせいではなく、艦に何かあったと考えるべきだ。
沖田君もそう考えたのか、いち早く伝声管で艦橋に連絡を取ってくれている。
じゃあ、僕がやるべきことは……。
「歌ちゃん、横になった方が良い。酔っているだろう?」
「酔……う?」
「そう、歌ちゃん、船酔いしてるよ」
艦が揺れ始めた頃から、歌ちゃんは
たぶん、めまいがしていたんだろう。
そしてあくびや生つばを飲んだりも繰り返していた。
これらは、典型的な乗り物酔いの初期症状。
さらに今は、顔は真っ青になってるし冷や汗もかいている。おそらく、頭痛や吐き気もしてるんじゃないかな。
「深呼吸しながら、揺れとは反対に体重を傾けてみて。そう、ゆっくりで良い。沖田君、ついでに桶と氷水を頼んで。天音君は、膝枕をしてアシストしてあげて」
「了解しました」
「かしこまりました。さあ、歌さん、頭をお乗せなさい」
金持ちやそれを職業にしている人でもない限り、この時代の人が沿岸部からそれほど離れていないとは言え、船で長距離を移動するのは希だ。
歌ちゃんも、たぶん初めての経験だろう。
そんなこの子にとって、船酔いは正に地獄だ。
車や鉄道よりも段違いに揺れが激しい船酔いは、車酔いとは比べものにならないほどのパニックを、脳に起こさせるからね。
龍見姉妹が平気そうにしてるのは、武術を身に付ける過程で平衡感覚も鍛えられているからだと思う。
「そう言えば、歌ちゃんって学校は良いの? もう、新学期は始まってるよね?」
「学校より……有望な婿を振り向かせる方が女にとっては大切です……って、お母様に言われたので」
「錦おばさんなら言いそうだなぁ……。でもそれで、どうして僕のところに来たの? 確かに海軍には優秀な人が多いけど、歌ちゃんより一回りも二回りも歳上の人ばかりだよ?」
「小吉お兄ちゃん、本気で言ってる?」
「え? 本気も何も……」
事実だからなぁ。
でも、それで会話を止めるな小吉。
ここまで症状が進んでしまった船酔いを改善するには、極端に言うと会話などで気を紛らわせるか寝るかの二択。
歌ちゃんが寝るまで、会話を続けるんだ。
「大将の鈍感っぷりは筋金入りだなぁ。なあ歌、大将は昔からこうなのか?」
「うん、昔っから……」
だいぶ、気が紛れてきたみたいだ。
顔色は相変わらず悪いけど、表情が柔らかくなっている。今も、地華君に昔の僕のことを楽しそうに話している。
これなら、下士官から氷水が入った桶を受け取った沖田君の方に行っても問題なさそうだ。
「原因はわかったかい?」
「ある意味では」
「なるほどわかった。じゃあ、外で話そうか」
「了解しました。では地華殿、これをお願いします」
と言って、沖田君が桶を渡すのを確認してから、僕は外に出た。
その際に、何かを忘れているような気がしたんだけど……。
僕はいったい、何を忘れているんだろう。
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