笑顔の隣人
団地住まいになってどれ位だろうか。
剛は妻佐知と娘の咲奈と三人暮らし。現場作業員やたまに運送トラックの仕事で生計を立てている。
常に豪快な笑い声で酒が大好きな、四十を回ってから腹回りを気にするようになった何処にでもいる中年。
しかし酒が大好きとは言え、剛は酒癖が悪くなく、家族想いを通り超えて家族バカで有名だった。
それに近所付き合いも欠かせない、令和の今の世の中にはとても珍しい人物でもある。
そんなある日、剛はコンビニへ行こうと玄関を出た時、隣の部屋の玄関の覗き窓から灯が漏れ出ているのに気付いた。
確か隣には隣人はおらず、長い事空き家だった筈と剛は思ったが、その時は特に気にせず目的のコンビニへ向かった。
家に戻って来た剛は、佐知に隣人の事を聞いてみたが、佐知はその隣人の事を知らないと言った。
引っ越しの気配もなかったし、更には挨拶をしに来た事もないと言う。
剛は腑に落ちなかったが、まあこの昨今は近所付き合いが希薄になっているご時世。
隣の部屋との付き合いはおろか一切誰にも会う事無く住み続けている住人だってこの団地にはいる。
初めて気にした初日を、違和感のみを残して剛は終わらせた。
そしてそれから四日経ったが、やはり剛は違和感を拭えずにいた。
隣室の玄関の覗き窓から相変わらず室内灯が漏れ出ており、部屋に入居しているのがわかるが、四日経った今でもその新たな隣人とは全く顔を合わせていなかった。
佐知も咲奈も、その隣人とは会う事はまるでなかったようで、さすがに佐知も気にし始めていた。
ただ、別段何か異様な雰囲気を感じるわけでもない。
特に妙な音は聞こえたりはせず、ただ灯が煌々と照らされているのみ。
「ちょっと挨拶でもしてみるか」
そう言って休日の酒を嗜んでいた剛は、テーブルから席を立ち外へ出ようとした。
しかし、佐知に止められる。
「あんまり関わらない方がいいんじゃないかな?」
心配そうな佐知をよそに、剛は大丈夫だと豪快に笑って玄関を開けた。
しかし、隣の部屋の扉をノックする必要はなかった。
その隣家の扉が開いており、工事業者の人間が何人か、開始前だったのだろうか、用具はまだ持って来ていないものの中の状況確認をする為だけだろうか。
何か違和感を感じた剛は声をかける。
「あ、どうもこんにちは。
ここに新しく入居者が入って来たと思うんですが、何か工事されてるんですか?」
何気なく質問したのだが、業者から返って来た言葉は意外なものだった。
「あ、こんにちは、お騒がせしております。
ただ長い事入居者がいないので、空き部屋のメンテナンスを行っているだけですよ。
ここの部屋には長い事申し込みすらありませんよ?」
訝し気に返した業者の言葉に、剛は少し慌てた。
「いや、ここ数日、灯がついているんですよ。
いない筈はないんだけど」
「照明は全て外されていますよ?玄関は内覧用に電球をつけているだけですが、漏れ出る程の光量じゃない筈です。
それはいつからですか?」
業者も変に思ったのか、ここ数日の状況を確認される事になった。
外からも中の灯はついている風ではあったが、やはり部屋中にも誰かが入った形跡はない。
空いている室内には、使い捨てのビニールの白いカーテンが仮付けされている為、中の様子は分からないが夜に照明がつくと嫌でも分かる。
それなのに誰もいた形跡がない。
気分良く感じていた休日の酒の酔いが冷め、一気に気味悪い感覚に襲われた。
「佐知、誰もいなかったらしい。
夜しばらく、何があっても部屋から出るなよ。咲奈もな」
それだけ言って、酒を片付けた剛は仕事で使う用具の手入れを始めた。
更に二、三日経過したが、やはり夕方以降隣家の玄関から灯が漏れ出ていた。
外から中の状況が見えないように、大き目に作られた扉の覗く穴は遮光フィルムが張られていて確認出来ない。
もし中に何かがいるのなら、中からはこちらの状況が一方的に分かっている事になる。
この一方的な気味の悪い状況に、剛は少し苛立ちを募らせた。
ところがその翌日、初めての動きがあった。
いつも灯がついていると思しき時間に、インターホンが鳴ったのだ。
誰かと思い、佐知が覗き穴から外を見ると、甲高い悲鳴を上げた。
「どうした!?」
「お母さん!!」
剛と咲奈が駆け寄る。
何かを見たのか、佐知はひたすらに怯えて剛にしがみ付いてくる。
こちらも除き穴があるとは言え、隣の空き室に比べたら随分小さい穴で、ここからでは何がいるのかはわからない。
「二人とも、奥に行っておけ」
剛は二人に促し、一番奥の、バルコニーに直通の部屋に移動させて内扉を閉めた。
一人になった剛は、恐る恐る除き穴を覗き込む。
見たものに少しびくつくものの、気を取り直してもう一度覗き込む。
三十代ぐらいの男であろうか、見た目に大した特徴と言ったものは見受けられない素朴な雰囲気の男がいた。
悪く言えば無個性な雰囲気ではあったが、やはり明らかに、普通と違うものがあった。
両目を見開いて、除き穴に適度に顔を近づけて満面の笑みを浮かべている。
確かにこのような顔を見れば佐知が恐怖を感じるのは理解出来る。
しかし剛はこのにやついた顔を見て無性に腹が立った。
剛は扉のドアノブに手をかけ、素早く回してドアを蹴り倒した。
勢いよく玄関扉が開くも、ドアが壁に勢い良く壁にぶつかる。
しかし、そこには誰もいなかった。
剛は警戒を緩めず周囲を確認する。
下の階から勢い良く上がってこないか。
上の階から勢い良く降りてこないか。
有り得ないが、漫画のように天上に張り付いているか。
考えられる限りの事に目を配り、周囲を確認する。
しかし、気付く事と言えばやはり目の前の空き家だけであった。
今日も灯が煌々とついている。
「何だってんだ!一体何がしてえんだ!!
俺らに何の用なんだよ!!」
剛が一人怒鳴り散らすと、今度は自宅の奥から叫び声が聞こえた。
剛は急いで振り返ると、佐知と咲奈が血相を変えて剛に近付いてくる。
何かから逃げて来たのか。
「どうした!!?」
剛は叫んで二人に聞くと、何か伝えようと口をパクパクさせるが、パニックに陥っていて言葉にならない。
何かまずい事が起きてると判断した剛は、玄関の下駄箱の上においていた自分の財布と車の鍵を雑に掴む。
すると、部屋の奥からぬーっと、滑る様にそれは姿を現した。
除き穴を覗き込んでいた男がいた。
しかし、これまた何かが違っていた。
男自身のシルエットははっきりしているものの、全身が赤い液体の表面、と表現しても良いだろうか、水面のような反射が見えた。
こいつは人じゃない
剛はそう理解し、急いで自宅の扉を閉めた。
家族全員で逃げ出した剛は、すぐに車に乗り込んで飛び込みでビジネスホテルに向かい、夜を明かした。
そして、その日は仕事を休み、不動産屋に向かい即座に引っ越し先を決め、入居可能になったタイミングで即座に引っ越した。
幸い、佐知が蓄えをしてくれていたおかげもあったが、佐知自身はもうあの部屋に帰れないと怯え切っており、咲奈も同様だった。
団地の住人達には残念がられたが、剛が体験した事を伝えると、全員口々に自身の引っ越しを検討し始めた。
未だにあの男と思しき何かは、正体が何なのかははっきりしない。
そして剛はたまにする配達の仕事でかつて住んでいた団地の棟の前を通る事があったが、相変わらずそこの部屋に灯がついていた。
更に、一瞬しか見えなかったが、かつて自分達が住んでいた部屋の覗き穴を、へばり付くように顔を近付けている男の姿が遠目に見えていた。
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