十一章 運命の人

ninety-three

 斎藤菜月は、新世界で死んだ。


 戦争犯罪者として、王国で処刑され、死んだ。突如現れ、突如裏切り、息をする間もなく処刑された。


 というのが世間一般の理解だった。だが実際は、シモーネ・ベルが私に扮して、魔法で時間を止めている間に入れ替わり、それで処刑された。


 事実と歴史的事実は、違う場合があるかもしれない。そう思ったのは初めてだった。私たちにとってこの事件は、シモーネの死の事件だったが、歴史の書に記されるのは、斎藤菜月の死である。


 そういった欺瞞の恐ろしさに驚愕しながらも、しかし、例の姫の食堂には、どこか安心した空気が広がっていた。


 いつもの数名。私と、エイミーと、姫とローゼとクライネ。そしてもう一人、イル・ルイーズがいる。ローゼは普段のように姫の後ろで壁にもたれて立って、イルさんも私たちの後ろに立っていた。それ以外の私たちは、長い食卓を囲って座っている。


「ローゼも、クライネも、イルも、私に言わずに、計画を進めたわね」


 姫が低い声で言うと、イルさんは私の座る椅子に手を置き、体重を預けた。


「姫君が、国王に嘘を付けると思わなかったものですから。私たちで勝手にやって、こうして報告するのがいちばんよいと考えました」

「私は、ほんとに菜月が死んでしまうと思って、苦しかったのよ」

「でも死ななかったよ、姫」


 私が言うと、姫は黙って、小さく頷いて、責任を追及しようとするのをやめてくれた。でも、シモーネは死んだけどね、というのを言いたくなったけど、やめた。ここには、シモーネより私を選んだ人たちがいる。私の死よりシモーネの死を選んだ人たちが。そこに一石をぶつけようとするのは、空恐ろしいことだった。


 私は、シモーネを、こんな形で利用したくなかった。そういう不満がわだかまってぶつけたくなるのも、どうにか堪えた。貴女が生きたんだから感謝して欲しいくらいですが、とローゼに言われておしまいだ。


「……菜月は、着替えないとね。その格好じゃ、生きてるってまた気付かれるわよ。ここにいるのも本当は危険だし」


 私は首を横に振った。


「これは脱がない。上になんか羽織るくらいはやる。どうせもう人前には出ないから」

「どういう意味?」

「そろそろ旅を終わらせようと思って。隠れて生きるよ」

「……そう」


 姫は無理に笑みを浮かべて、隠すように紅茶を口元に運んだ。飲み下す喉の動きが彼女の脈動を映し出す。ゆったりと、ぎこちなく動いていた。


「イル、貴女はどうするの。憲兵に戻ってきてくれるの」


 問われたイルさんを見ると、彼女もまた姫の問いに首を振る。


「ここにそれがいるんじゃ、無理です」

「貴女がいなくなったのは、やっぱりそういうことなのね」


 私は姫とイルさんの会話が分からなくて、そっと首を傾げた。それ? それとはなんのことだろう。いるというのだから人のことか。私はローゼかと思ったが、ローゼとイルさんは関係が悪くなさそうだし、と考えると、消えていく選択肢の中で残ったのは、クライネだけだった。


「クライネさんがいらしたら、イルさんは憲兵に戻れないのですか」


 同じように結論を出したエイミーが聞いた。そしてその問いが発せられた途端、場に、不意の沈黙が訪れるて、そしてずんと腹の底に響くような空気の沈殿が感じ取れた。


 イルさんがクライネさんとなにかあるのだろうか。イルさんがそういう、人間関係の不和を抱えるような人には思えなかったが、しかし姫は、まるでそれを了解しているみたいだった。思い出すと、ローゼも「なんで先生がいなくなったかは理解している」というようなことを言っていた気がする。言われたクライネは、ずっと魔女帽で顔を隠していて、手元に置いてあるケーキを切るためのナイフをぐっと握り締めた。


「その魔法使いを置くというのを、私はやっぱり受け入れられません。姫様」

「……でも他に仕様がなかったわ」

「それは理解しています。だから辞めたんです」


 どんよりした空気を打破したくて、エイミーがぱっと声を上げる。


「イ、イルさん! クライネさんはとてもいい人ですよ。魔術、たくさん教えてくれるんです。なにがあったか分かりませんが、きっと話し合えば――」

「――エイミー」


 イルさんはしかし、エイミーの声を遮った。そして、私は振り返って彼女の瞳を見て、背筋を駆け降りる畏怖みたいなものを、瞬時に抱いた。いつだって幼げで、澄んでいた彼女の瞳が、まるで死人のように色を喪って、クライネをじっと見ていたからだった。


「魔術を教わったのね、このクライネという人に」

「お、教わりました」

「先生、その辺でいいんではありませんか」


 ローゼが言う。


「じゃあ、死んで詫びましょうか」


 がたんと椅子が倒れ、大きな音が室内に響いた。言ったのはクライネだった。


「なに、なんの話してるの、みんな」


 私が聞いても、誰も答えてくれなかった。魔女帽を投げ捨てたクライネの青い髪が靡いて、青い瞳が悲しげに歪められていた。


「死んで詫びられるものなら、もうそうしていますよ、でも! でも――!」


 クライネは叫ぶと、急に手に持っていたナイフを自分の首にあてがって、あっと叫ぶ暇もないまま、そのまま皮膚を切り裂いた。


 粘り気をもった重く赤い液体が、ざっと室内に散らばり、クライネのすべての血液が、そこから飛び散った。私は目を背ける暇もなく、そこを見ているしかなかった。驚いて立ち上がったエイミーが、クライネに駆け寄ろうとする。だが、足は止まった。そこにあったのが、傷一つないクライネの姿だったからだ。切ったはずの首は綺麗なまま、そこにあった。エイミーは口を抑えて、驚愕を隠せずにいた。


「――死ねないんですよ! なにをやっても! あの日から、そういう呪いにかかってるから!」


 いま見たものが幻想の類でないことは、白い室内に散らばった、赤い血液が教えてくれる。たしかにクライネは首を切った。でもすぐに、まるでなにごともなかったかのように、そこにいた。


 血にまみれて光るナイフをテーブルに置くと、クライネはしくしくと泣き始めた。私にはなにが行われているのか分からず、ただ目の前で起きている光景に、唖然としていた。

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