ninety-two
噎せ返るほどの陽光を、暗い暗い色の底から見ていた。両手を後ろに縛られ、私は硬い地面の上で跪いていた。雷鳴を落としたような喧騒で、私はついに処刑の場に立たされたのだと分かった。
「十級戦争犯罪者、斎藤菜月の処刑をもって、共和国との戦争終結とする」
荘厳な声が聞こえた。
「これは我らが国王の認可した、苦しき条約の一部である。国民よ、我々は戦争に、勝利も敗北もしなかった。だが悪しき一時代を飾ろうとした大罪人を処刑することは、時代に対する圧倒的な勝利である」
そうだ! と野次が飛んだ。いつどこから石が投げられるか分からなくて怖かったが、そういうことは起こらなかった。周囲でどよどよとなにかが進行されていくのを聞いている。
人が入れ替わったり、他にも、なにか、様々なやることがあるのだろう。やがて前方から声がした。
「国王からの恩赦がある。斎藤菜月。貴様は戦争において重大な犯罪を犯したが、国王は同時に功績も認めておられる。――そこで、一言だけの発言を許可する。それをもって貴様の処刑だ。早く済ませろ」
鎧の音で、騎士が遠ざかるのを感じた。こんなところで、一言だけ、なにを言えばいいのだ。言ったら殺されるという場面で、私はなにも言葉を持ち合わせていないことを知った。どうせなら遺書を書きたかった。喉の奥で「お母さん」という言葉が出そうになって、閉じた。
ああ、なんと言おうか。なんと言ったらいいのだろう。死ぬ間際に。語るべき言葉は、きっとたくさんあるのに。死んでしまっては紡げない言葉の数々を、脳内でぐるぐると編んでいた。
「早く済ませろ」
後方からもう一度聞こえた。そう急かすなよ、いま考えてるんじゃん。女心の分からないやつばかりだ。
そして、静寂を割るように、知った声が遠くから響いた。
「菜月! 私を許して!」
世界に、その、金色の、馨しい声がした途端、姫の声が、聞こえた途端、私に不意に、言うべき言葉が降りてきて、ほっとした。美しい姫君。私は、あなたみたいな人のために死ねるなら。
「私は、皇女殿下のために、喜んで死にます」
塔に届いただろうか。やだ、菜月、という声が響いて、聞こえたのだと知った。ここまで来て、まだ救いなどがあるとは思わなかった。ローゼやイルさんはがんばってくれたんだろうけど、でもだめだったんだ。
長く苦しい人生の終止符。これをもって斎藤菜月の物語は終わる。
思い返せば、呼吸ができないのは、生きているのを感じられて、よかった。頭が痛いのも、身体中が痛むのも、血が流れるのも、悪くなかった。
悪いと思って世界を眺めたら、それは悪いものになるよ。道半ばで倒れる。でもきっと、誰かが、いつか! この世から、魔法を消し去ってくれる。運命を形作る魔法を。
菜月さん、子供、産みたくないですね。いつか言ったエイミーの声が反芻された気がして、首を振った。いや、産んでもよかった。美しさのためならば。
「発砲!」
怒声が響いた。そして、私は静寂の中に転がり込んだ。気が付くと、まるでなにもない白い部屋にいて、死後の世界とはこれなのか、と思った。人は、天国に行くんではなくて、白い部屋に閉じ込められるのか。と思った。けど、目の前に、眩い紅を見付けて、瞠った。
「……シモーネ?」
そこに立っていたのは、以前までと同じように、赤い髪を輝かせ、綺麗な瞳をして、白い服を着た、シモーネ・ベルだった。
「どうして菜月が、ここにいるの?」
「ここ? ここって、どこ」
「神の部屋でしょう。時間の神の」
「神の部屋――」
既視感を覚えた。そういえば、こういう場所を私は知っている。時間の魔法を唱えて、神ティーツェと出会った場所だ。
「ああ、そっか。役割が変わったんだ」
合点して言った。私は彼を殺したから、今度は、私がこっちに立つ番なんだ。
「……シモーネ、時間の魔法を使ったの?」
彼女は不意に現れた私に緊張するかのように身体を強ばらせながら、うんと頷いた。
「どうして?」
「いまは、菜月が時間の神なの?」
シモーネは質問には応えず、私に聞いた。私はどうやらそうらしいと頷く。
「そっか。じゃあ、罰を与えてくれるのは、貴女なのね」
彼女は睫毛をなびかせて、私をじっと見た。
「菜月、罰を与えてほしい。どんなものでもいいから」
「どうして魔法を使ったの?」
「貴女と入れ替わるため」
私は気付いてみると座っていたから、引っ張られるように立ち上がって、シモーネと目線を合わせて、その瞳を穴の空くようにじっと見つめた。手指の先が冷たくて、そこにだけ感情がないように思えた。
「私と? 入れ替わる?」
「うん。いま、こんな、いつもみたいな姿だけど。本当はさっき、髪を貴女くらいに切って、真っ黒に染めた。服は、似たようなのを、騎士の人が持ってきてくれた。最後に菜月に近付けて、よかったって、思ってた」
ああ、ローゼやイルさんは、この人を生贄に、私を救うために奔走していたんだ。その救済の苦さたるや。私は覚えもなく苦しかった。
「シモーネ、どうしてそんなこと。断ってもよかった。いまからでもいい、私、自分で死ぬよ」
シモーネは俯いて、口の端に優しい微笑みを浮かべて、首を横に振った。そうすると、花のドレスが踊るみたいに、彼女の赤い髪が揺れる。
「死んでいいわけないじゃん。いま、貴女が時間の神様の代わりをしてるんでしょ。そうだよ、最初っから、菜月は天使みたいだと思ってたの」
シモーネは言葉を区切ると、突然こどもみたいに泣きじゃくった。
「お父さんが、ある日、急に人を殺してね、」
「……うん」
「憲兵の人たちが、三人で暮らす私たちの家に踏み込んできて、礼状を叩き付けて、奴隷街へ送るって、言ったの。そこから先、安い民家で寝泊まりさせられて、水分の抜けきったパンを、まずいお茶に浸して食べてた。競売に掛けられるって分かったとき、舌を噛み切ってやろうかと思ったけど、でも、お母さんのこと考えて、お父さんのことがどうしても許せなくなって、なにがなんでも、殺してやらなきゃって思って」
シモーネの涙の雫が、雨樋を伝ってきたみたいに、ぽたぽたと白い地面に落ちて、吸われて消えていく。
「だから、生きようと思って、ハンスに買われて、慰みものにされて、痛くて苦しかったのを、菜月が助けてくれた。シスターは黒い服を着るものでしょ。貴女もシスターに見えた。ハンスの家を燃やして、飛び降りるとき、死ぬのと生きるのを、同時にやった気がしたの。それで、貴女に抱かれたのが、人生でいちばん美しい時間だった。あのときお願いを、聞いてくれてありがとう。あれが私の、人生でいちばん幸せな時間だった。あの瞬間のためだったら、奴隷になってよかった。じゃなきゃ菜月に出会えなかったでしょう。可哀想じゃなきゃ菜月は助けてくれなかったでしょう」
私は首を振ったけれど、シモーネは俯いて泣いていたから、それを見はしなかった。
「もう、善いことも悪いこともすべてやり切った。幸福も不幸も、すべて経験してきた。それで、私は、まだ悪いことのほうが大きくて、幸福の方が大きいから、貴女の代わりに死んで、精算にするの。間違っちゃった天秤を、正すの」
「シモーネ、まだやり直せるのに」
「まだやり直せるけど、いまからやり直しても、花のようには死ねなくて」
あ、と声が漏れた。この子はまた、私の言葉に包まれているんだ。どこまで無垢で信じやすくて、潔くて愚かなんだろう。
「菜月、罰を与えて。でも、どうか、わがままだけど、私の嬉しい罰にして。死ぬ前に、キスして欲しいの」
「キスは、罰になるの」
「罰だよ。まだ生き続けたくなって、苦しくなるでしょ。早くして、覚悟が、終わっちゃう」
じゃあ覚悟なんかやめて、私の代わりに死ぬことなんかやめたらいいのに、と言おうとするのを、彼女は憚った。
「時間が止まったら、クライネが貴女を姫のいる塔に魔法で移してくれる。そこには、姫も、エイミーも、いるからね。そう、エイミー……! 生きててよかった! 私のせいで死んじゃったって思って、どんなに申し訳ないことしたんだろうって、息をするのも難しかったけど、よかった。謝ったら、優しく撫でてくれたの。いい子だね、あの子、ね、菜月。そう、でね、だから、いまから私が計画をやめても、クライネは貴女と私を交換こにして移動させるから、どのみち意味はないのよ。時間を止めるのは保険みたいなものだったけど、でも、使ってみたら菜月がいるから、最後に幸せになっちゃった」
シモーネから涙の落ちるのが消えて、水滴は睫毛の上できらきら輝いていた。私はもうなにも言うことはできなかった。ここで二人で生き続けるのも無理だ。
「分かった。じゃあ、シモーネ、罰を」
「うん」
「私にキスをして」
シモーネはゆっくりと私に近付いてきて、すぐに口付けしようとしたのを、私は避けて抱き締めた。抱いてみると細くて、背骨の感触がした。どくどくと鼓動の音が身体を伝って聞こえてくる。私のものとシモーネのものが混ざりあって、この瞬間には世界は二人しかおらず、しかもいまや一人しかいないような気がした。
「菜月……」
「たくさん苦しい思いしたね、シモーネ。ごめんね、もっと早く、助けてあげればよかった」
私がそれを言うと、シモーネは私を突き飛ばした。私が両手で防ごうとするのを無理にどかして、無理やりキスをした。目が眩むような閃光が走った。
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