twenty-five
赤髪の奴隷 2
想像通り想像を絶したというのが、果たして適切な表現かどうかは分からない。けれど、世の中にはおそらくこれ以上の何かはないと、それはいい意味でも悪い意味でも、そう思った。
御者が屋敷の数十メートル手前に着くと、向こうから大男がやってきて、私を引き取った。
引っ張られるようにして、無言で歩き続ける。大男は私の腕を後ろにし、抵抗ができないようにした。馬車のために舗装された道路は、私を地獄に送る通路に見える。ただおずおずとした視線を、向こうに見えるいかめしい屋敷に投げかけるしかなかった。無言で、足音だけが重々しく響く。そのくせ、屋敷が近付くのはどんな時間よりも早く思えた。私を見下ろす木々が、同情か、憐憫に似た表情を浮かべている。
臀部に違和感を覚えて、ぞっとして身を捩った。全身の肌が浮き立ってから、何が起きたのか理解した。最初は私の腕を抑えるだけだった男の手が、私の体をまさぐり始めたのだ。抵抗しようとすると、それより強い力で抑えられる。腕は背中に回され、鋭い力で捻られた。痛みで呻いた声で、男は満足そうに笑った。ひしゃげそうになった腕から力を抜いて、ついに逆らうのを止めた。痛みに耐えるか、嘔気に耐えるかだった。男の手が私の身体の上から下まで隅々探る。その度に身の毛がよだつ。男のごつごつとした手は、服の上からでも乾燥しているのが分かった。害虫が服の内側を這い回るみたいな気色の悪い接触は、屋敷に辿り着き、私を買った地主が出てくるまでの間、ずっと続いた。その表情が、まるで自分は何もしていませんと言うみたいに正面を向いているのが不気味で、手が離れてもなお、触られた部分に目に見えない得体の知れない汚れが残っている気がした。ぼろぼろと涙が落ちてくる。掻き毟りたかったが、そこはもう自分の身体じゃないみたいで、触れるのは嫌だった。
地主直々に私を案内した先は、屋敷の地下だった。人ひとり分の幅しかないような軋む木の階段を下ると、薄暗い窮屈な廊下に一人の痩せた男が立ち、地主の登場に気が付くと、頬骨を浮かべて意地の悪い笑みをこぼし、退いた。その後ろに扉が備え付けられていて、私はこれからここで暮らすのだと直感した。
――全部で九人。全部で九人だった。自分のことは、そんなに激情的な人間だと思っていなかったけれど、その光景を覚えた瞬間に湧いたのはおぞましい程の怒りの感情だった。横の地主を殺害する方法が、幾つも同時に思い浮かぶ。それで自分のことが恐ろしくなって、眩暈で息苦しくなったのは、これが初めてに違いなかった。
ほんの小さな部屋の中に、白いローブを着せられた九人もの女の奴隷が、利口に空間を分け合って座っていた。純白のドレスは彼女達を天使のようには見せなかった。暗い部屋に捨て置かれた、ちり紙のように惨めに見える。私を認めた彼女たちの間には、呆れたような空気が途端に広がって、「ここで待て」と男に押し込まれた後は、居場所もなく立ち尽くす他なかった。
身体が凍ったように、視線はずっと前を見ている。誰とも目を合わせたくない。ここにはおぞましい、被害者同士の同情しか存在していないと思ったから。
扉が閉められる。奥の女性が、舞台女優かと思えるほどに鼻が高く、眼孔の彫りの深いその人が、ゆっくりと私に寄ってきて、割れ物にするようにそっと抱き締めた。逃げようとして反射的に跳ねた私を、それでも離さない。柔らかな身体だった。柔らかでなければ駄目なんだと、不安定な木の柱が脳内で揺れ、割れそうな鈍い音を立てる。
「来る時、身体を触られなかった?」
「……触られました」
私の声は聞いたこともないくらい震えていた。
「あなた、名前は?」
「シモーネ」
「シモーネ、あの地主以外に触られたのなら、すぐにあの男に言いなさい。彼は自分以外には、宝を触らせないから」
彼女の言った言葉の意味が、すぐには掴めなかった。
「なに、言って……」
「言えば、そいつはこの屋敷からはいなくなる。だから、もう大丈夫よ、安心しなさい」
「安心? 安心ですって……? 大丈夫なんかじゃ……だって、それは、あの地主に身体を触られるのは仕方ないって……そういう」
女は何も言わなかった。私の赤い髪をしきりに撫で付けながら、色硝子の聖母のように和らいだ顔を、陰った部屋の中でぼんやりと浮かべている。私は、問わずにはいられなかった。
「どうして」
声が震える。抑えようとすればするほど滑稽な声になった。
「え?」
「どうして、逃げないんですか?」
言った途端、不意に視界の端に素早い影が見え、それから鋭い音と痛みが走るのは同時だった。
「滅多なこと言わないで!」
殴られた……? 殴ったのか、この女が。殴られた頬を手で抑える。冷えきった掌が、地面の硬さを教えてくるみたいに、痛む皮膚の感覚を強くした。声を荒らげたその人の顔からは穏和さが跡形もなく消え、私には、もうただ茫然と立ち尽くすことしかできなかった。皮膚を剥ぐような痛みに、ただ耐えるしかなかった。女は言葉を継ぐ。切羽詰まった声色で言う。
「逃げる? どこへ? 奴隷区に……? 逃げ場なんて無いこと、あなただって分かってるでしょう!」不意に部屋の端にいた女が「ねえ」と声を掛けると、私を殴った黒髪の女は、何かを恐れるように声を潜めた。それでも、私を責めるのは止めなかった。「無駄なの。変な考えは起こさない方がいい。警備の数を見たでしょ? お抱えの魔法使いだっている。ここから逃げるには、一度地獄に落ちて、悔いて救われるしか無い! あなたが何したか、あなたの家族が何したか分からないけど、私たちは、大金の代わりに……」
不意に女の表情が揺らいだ。突然腹の底から嘔吐いたのだ。口元を抑え、私の肩を掴んで力任せにどける。そうしたかと思うと、私の後ろにあった扉を、内から強く叩き始めた。窮屈な部屋に悲痛な音が反響する。
「開けて! 用を足すから! ねえ!」
大声の要求にも関わらず、扉は七度目のノックでようやく開けられた。女は口元を抑えたまま、私を涙ぐんだ目で振り返る。悲痛に満ちたぎこちなさで、首を振って、男に連れられ出て行った。
「……知ったことか」
私の口を突いて出たのは、歯切れの悪い悪態だった。知ったことか。ここで出来上がっている不文律など。逃げると口にするのがここの禁忌? 知ったことじゃない。窓もなく、薄暗く、人の空気で充満した息苦しい部屋。女の匂い。噎せ返るほどの女の、好きでもない男に夜通し抱かれた後の、ひもじい女の匂いが溢れかえるこの空間。こんな肥溜めに、死ぬまでいるなんてごめんだ。
――神よ。
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