閑話 乙女な彼女
***
エイプリールフール企画です。紅葉が奔走する日常回となっています。お楽しみ下さい…
***
―――夜風が窓に吹き付け、部屋に木の葉がさざめく音を届かせる。
まだ少し春には遠い、2月の中旬のこと。
立派な庭園を取り付けた巨大な洋館の一室から、光が漏れ出している。中では、洋館の持ち主である更科グループ代表取締役、その一人娘が、自身のベッドの上に腰掛けていた。
その娘は、美しかった。
風呂上がりなのだろうか、仄かに上気させた桃色の頬に、乾き切っていない濡れた長髪が艶かしい光を放っている。白いネグリジェの上からでも分かる豊満な胸と垣間見える白い脚は、本人が意図せずして男達を蠱惑するものだ。
その美少女がベッドの上に積まれた本を眺め、眉間に皺を寄せている。
彼女の苦悩する姿を見た男は魅了され、ある者はミステリアスを、ある者はミロのヴィーナスの如き芸術性を、またある者はエロスすら見出すだろう。
悩める少女、更科紅葉は本―――否、漫画を目の前にして唸っていた。
「…べ、勉強になる…!」
その手に開かれているのは、一昔前の少女漫画。
青年向けのスピード感を重視した漫画とは違い、基本的に細い線で滑らかに描かれた画風は少女漫画特有のものかもしれない。
「完璧だ、花上さん…まさか、少女漫画にこれ程のエッセンスが含まれているとは…!」
花上、というのは更科家に仕えるメイド長の名であった。ややぽっちゃりとした彼女は、メイド業に関しては仕事の鬼である一方で、歳にはあまりそぐわない少女趣味だったりする。
花上の持っていた秘蔵の少女漫画を山ほど借り、明日分の学校の予習復習を早々に済ませて、それらをせっせと紅葉は読んでいた。
普段、紅葉は漫画を読まない。読んでいる暇が無い、というのが正しい表現ではあるが、結果として彼女はサブカルチャーというものに疎い。
今まででその事に関して苦労したことはないし、自分には縁のあまり無いものだと決めつけていた紅葉。
そんな彼女が花上に少女漫画を借りた理由。それには、紅葉が花上に相談した内容が関係してくるのだが―――
漫画を読了した紅葉は、静かに漫画を閉じた。
「ありがとう、花上さん。これで私は明日、勝利を掴み取ります」
窓の外を見つめて、決意と自信のこもった声で独り言を溢す紅葉。
今日は、2085年、2月13日。
そう。
明日は、日本中の女子と男子にとって、ある意味で勝負の日。
元来は、聖ヴァレンタインに由来する日。
日本の製菓会社のマーケティング商法の一つとして発展した、相手にチョコを用いて想いの丈を伝える日。
明日は、バレンタインデー。
紅葉にとっても、勝負の日だった。
***
紅葉は、スペックが非常に高い人間だ。
容姿端麗は勿論として、勉学と運動、芸術や人間性などにおいて、全てが一般人よりも遥かに秀でている。周囲の人間は、彼女には欠点などどこにも無いと思っているだろう。
しかし、彼女には致命的な欠点があった。
それは、
恋愛というジャンルに一切手をつけずに幼少期を過ごし、全身全霊を「完璧」であることに費やした彼女は、幼少期に恋愛脳というのを育ててこなかった。
故に、彼女の恋愛能力はほぼ皆無。小学校低学年の子供と同じレベルである。恋愛感情も抱いてこなかったし、ましてや意中の相手がいたこともなかった。
そんな少女が、いきなり恋に落ちてしまったら。
彼女の心の中は、毎日がパニックの嵐だ。
(夜野君、ずっと外見て何考えてるんだろ…って、また夜野君のこと考えてる!集中集中っ!)
(あ、夜野くん長距離走してる…あ、お腹見えた!意外と引き締まってるなぁ……じゃないよっ!テニス中に余所見して良いわけないでしょうがっ!)
(よ、夜野くん、寝てる…?!すごい、寝顔可愛い…!撮りたい…写真撮りたいっ…!)「紅葉ちゃん?聞いてる?」「写真欲しい」「え?」「…あっ」
とまぁ、隙あらば煌のことを考えてしまい、日常生活に支障が出るほどであった。
ここまで明からさまな態度をとってなお周囲にバレないのは、「更科紅葉は完璧すぎて最早恋愛とかしなさそう」という半ば神格化された思い込みが全員の中にあったからだ。紙一重といっても過言ではない回避っぷりである。
そんな紅葉にとって、バレンタインという日は例年修羅場であった。
学校中の男子達が紅葉をチラ見してはソワソワし、自分に紅葉のチョコレートが来ることを期待する。自分に自信を持っている者などは、紅葉に積極的にアピールしてくる。それが、かなりしつこいのだ。
面倒とはいえ、紅葉を好いて近寄ってきている人だ。無下にはできないし、同級生ならまだしも、下級生や上級生ともなると、オブラートに包んで断るのにすら体力を使う。
紅葉と仲良くする女子や、アピールしてくる男子と付き合っている女子などが、彼らを紅葉から引き離そうとしてくれるおかげで何とか耐えられているが、それが無かったら恐らく紅葉の神経は擦り切れてしまっていただろう。
紅葉が煌のことを好きになった、中学2年生の秋。
そして、紅葉はその四ヶ月後にバレンタインデーを迎えたわけだが、その時には煌にチョコを渡せていない。奥手過ぎて、渡す勇気もチョコを作る勇気もどちらも湧かなかったのだ。
しかし、今年こそは煌にチョコを渡すのだと、紅葉は1ヶ月前から決意していたのである。
そうと決まれば、まずは準備。
友達と話す際、さりげなくバレンタインデーを話題に引っ張り出して、『自分はチョコを作る気は無い』という話をいたるところでした。会話を聞いていた男子の中にはそれで諦める者もいるだろう。女子だって、バレンタインデーが近づけば『更科紅葉は今年はチョコを渡さない』という話題を所々で出すはずだ。紅葉の会話を直接聞いてなかろうと、人づてで勝手に伝わる。
焼け石に水で効果は低いかもしれないが、やるに越したことはない。
他にも、バレンタインデー当日に紅葉に人が殺到するのを避けるように、紅葉は様々な工作を仕込んできた。
無論、お菓子の面でも抜かりはない。1ヶ月前からお菓子作りの練習をし、昨日の時点で既にプロ顔負けの絶品チョコレートマカロンを作ってきている。
出来るだけ人が紅葉の周りに集まらないようにすれば、煌にチョコを渡す機会だって見出せる。
ただ、手渡しができるとは最初から思っていない。
紅葉が完全なフリーとなれる時間はかなり少ないし、元より手渡しする勇気もない。
なので、手渡ししないでチョコを渡す方法を探る必要があった。
実は、その手法の探究こそが、昨日の少女漫画大量漁りである。
自身の本当の母のような存在であった花上に1ヶ月前、紅葉は相談をしていた。
『は、花上さん』
『? はい、どうなされましたか?お嬢様』
『その……来月のことなのですが……』
『はい』
『そ、その…夜野君に、チョコを渡そうと……思って……』
その発言を聞いた時の、花上の興奮した顔たるや。
少女趣味の花上にとって、大切にお世話してきた女の子の初恋の姿、それもチョコを渡そうなどという一大イベントに興奮しないわけがない。
喜んで協力を申し出た花上は、一流パティシエから当日の紅葉の人除けをする人材まで、様々な方面に手を回した。
紅葉が煌にチョコを渡す方法を考える過程において、花上は自身の持っている少女漫画、その中でバレンタインデーのシーンを載せた巻を片っ端から集め、様々なパターンを紅葉に研究させたというわけだ。
そして、紅葉はかつてない程にやる気を漲らせ、学校に向かっている。
普段よりも、相当に早い時間。学校中、探しても見つかるのは用務員か一部の教職員か、という時間帯だ。
紅葉のファーストプラン。
それは、煌の下駄箱にチョコを入れる作戦。
衛生的にどうかとも思ったが、少女漫画の主人公達がこぞってトライしようとした方法である。彼女らの場合は何故か失敗することが多かったが、普通に考えて失敗するとは考えづらいだろう。
実際、誰にも見られずにチョコを渡す一番確実な方法だと思う。
「これで終わってくれれば、相当楽なんだけど…!」
車から降りて、学校へと歩く紅葉。周囲を見渡すが、やはり生徒は誰もいない。
(ここまでは完璧…あとは、入れるだけ…!)
綺麗にラッピングしたチョコマカロンを鞄の中に忍ばせ、緊張とともに学校の玄関に辿り着いて―――
『――靴箱を開けるには、指紋を認証して下さい』
「…………あっ」
(しまったぁぁぁぁあッ!?うちの学校の靴箱って指紋認証必要じゃぁぁぁあん!?)
―――完全に失念していた。
花上が持っていたのは、やや古い少女漫画。
靴箱をオートロックにする学校などどこにもなく、紅葉も完全に指紋認証のことを忘れていたため、靴箱に入れる方法が最初から詰んでいることに気づかなかった。
オートロックによって、靴箱への悪戯やいじめなどは大幅に減っているので、それ自体に文句を言うつもりはない。
だが、今の紅葉にとって、それは迷惑以外の何者でもなかった。
「ど、どうする……いや、まだ諦めるのは早い!」
ファーストプランが失敗した今、トライすべきはセカンドプラン。
セカンドプラン。
誰かに見られる前に、チョコを煌の机の中に入れる。
「大丈夫…こんなこともあるかと思って、早く来たんだもの…今からすぐに教室に向かえば――」
「おっ、更科。いいところに。悪いんだけど、ちょっと教材の整理手伝ってくんなーい?」
「……えっ」
足早に教室へ向かおうとした紅葉の背後から、軽快な声がかかる。
ギギギ、と音がしそうな勢いでゆっくり振り向く紅葉。
時代遅れの金縁丸眼鏡に、寝癖だらけのボサボサ髪。
粗雑な印象を受ける、中肉中背の男性教師。
名を、真賀里継本。紅葉達の学年の古文を担当している教師だ。
「え、なんか用事あった?」
「あ、いえ…大丈夫です!職員室ですか?」
「いーや、国語科研究室の方。悪いねー」
いつもの紅葉スマイルを浮かべながら、何も気にしていない風に喋る紅葉。
「完璧」を目指す紅葉にとって、教師の願いを断るという選択肢はハナから無い。なので、私的な事情は後回しにし、頼まれたら快く引き受けることにしている。
そこに、どんな大切な事情があろうと、だ。
(……終わった……)
真賀里が背を向けた後、顔面蒼白になった紅葉は脳内でそう呟いた。
***
「あれから渡す機会無かった……結局、先生の手伝いしてたら朝礼始まっちゃったし……はぁ……」
机に突っ伏したい気持ちを抑え、下りきったトーンでぼやく紅葉。
真賀里からの頼まれごとは存外に量が多く、全てを片付け終わった頃には朝礼が始まる時間となっていた。そのため、人が来ないうちに煌の机にチョコを入れる作戦は失敗に終わったのだ。
勿論、授業の合間で人がいなくなった時間があったら、紅葉はこっそりチョコを入れるつもりでいた。
だが、その意図は完全に打ち砕かれる。
「更科さぁん、俺さぁ、ちょっとお腹減っちゃってぇ!なんか食べ物もってない?例えばチョコとかチョコとかチョコとか」
「おい何抜け駆けしてんだテメェ!それとチョコを下さいこの通りですッ!」
「さ、更科さん…!実は俺、チョコがないと死んじゃう病気なんだ…頼む、一欠片でいい!一欠片、チョコを下さいッ!」
「さささ、更科さんっ!僕ちんにチョコくれたら、その10倍、いや100倍のお返しをすることを約束するよっ!だから、チョコ持ってたらくれないかなっ!」
休み時間に我先にと押し寄せるチョコに飢えた男達。それらを見て、内心で紅葉は頬をひくつかせる。
花上の工作が無駄だったわけではない。
外から来る人間が圧倒的に少ないのは、花上の手回しがあってこそのこと。それがなければ、もしかしたら警察が出張る必要すらあったかもしれない。
つまり、抑えてもこの状況なのだ。こんな中で、人の目を盗んでチョコを机に入れるなど、出来るはずもない。
そうこうしているうちに、5時間目となった。
昼休みも自信満々にやってきイケメン男子の対応に追われ(もちろん紅葉が惚れることはない)、友達が手伝ってくれて、ようやくひと段落ついたところ。
溜息混じりで、5時間目の授業を迎えた訳だが。
紅葉達は今、映写室で待機をしている。
5時間目の授業は古文。つまり、真賀里の授業だ。
(…もし、先生があの時話しかけて来なかったら…いや、そんなこと考えちゃダメだ、更科紅葉。それは「更科紅葉」に相応しくないんだから)
機械をいじくる真賀里を恨めしげに見つめそうになり、ハッとして我を取り戻す紅葉。それは逆恨みでも何でもなく当然の発想だと思うのだが、それを是とする紅葉ではないのである。
「おー?あ、やっべぇ、タブレット教室の机に置いてきちったなぁ…」
(―――あ!)
頭を掻きながら独り言を言った真賀里に、紅葉は俊敏に反応した。
「先生!私がとってきます!」
「え、いいの? いやぁ、朝に引き続き悪いねー」
しめた、といった感じで映写室から足早で飛び出す紅葉。
クラス全員が映写室にいるため、今の教室には誰もいない。
加えて、今は授業中。他の生徒からちょっかいがかかる心配もない。
つまり、今の紅葉は完全にフリー。やるなら、今しかない。
「絶好のタイミング…!ここを逃せば、後はない!」
授業が終わればすぐ帰宅してしまう煌にチョコを渡せるのは、これが正真正銘ラストチャンス。
巡ってきた思わぬ機会に胸を弾ませ、紅葉は廊下を駆ける。
「よし、誰もいない!今のうちに…」
教室に入り、誰もいないことを確認。
教卓の上に置かれたタブレットを回収したのち、バッグの中を漁る。
「あった…よし、潰れてない!これで…!」
鞄から取り出したマカロンを煌の机の中に入れようとした、その時。
「おぉ?更科じゃーん!」
「え、まじ?授業サボり?」
「マジか!俺らと一緒ジャーン!」
(……ぇ)
教室に唐突に入ってきた3人組から声がかかる。
見れば、制服を着崩した不良3人ーー紅葉のクラスの、代表的な不良生徒だ。
「……どうして、みんな、ここにいるの?」
「え?そんなん、授業サボるために決まってんだろ?」
「そーそー、あんなやつの授業なんか受けてられっかよ!」
「実際、サボっても何も言われないしなー!楽勝っしょ!」
―――最悪だ。
彼らの前で堂々とチョコを煌の机の中に入れるわけにはいかない。
彼らが教室から立ち退くのを待っていれば、映写室に帰るのが遅くなる。つまり、授業の開始が遅れてしまう。私情でそんなことをするわけにもいかない。
つまり、紅葉がもぎとったかと思われた絶好の機会は、素行不良の人間3人によって消し去られてしまったということだ。
折角巡ってきたチャンスだと思ったのに、それも逃した。
あまりの落胆に、紅葉は内心で毒を吐く。
―――なぜ、自分の頑張りが、頑張らない人間に台無しにされねばならない。
―――この日のために、自分がどんな思いで準備をしてきたのか、知らないくせに。
―――どうして、自分の恋路は、こうも上手くいかないんだ。
「お、それチョコ?うまそー!」
「マジだ!しかもマカロンとか、手ぇ凝ってんなー!」
「なになに、もしかして、それ俺らにくれんの?!ちょー嬉しんだけど!」
図々しさここに極まれり、といった態度で紅葉のチョコを物色する3人組。
なぜ、貴方達のような人間にこれを渡さねばならない。
そんな風に心の中から溢れ出る毒を必死に噛み殺し、紅葉は一言を絞り出した。
「ううん、これ私のじゃなくて、友達から貰ったの。先生の忘れ物ついでに、しまっておこうと思って!」
あぁ、だめだった。
紅葉は、自分の心が急速に冷えていくのを感じた。
***
「お嬢様、上手くいったかしらねぇ」
ぽっちゃりとしたメイド長――花上は、天井を見上げてポツリと呟く。
1ヶ月間、必死で練習し、プロ並みの実力をつけ、完成させたマカロン。
努力の結晶たる菓子を、彼女は無事に渡せただろうか。
「そろそろ下校時刻だと思うんだけど…って、おや?」
腕につけた携帯デバイスから流れる着信音を聞き、怪訝そうにする花上。
この着信音は紅葉のものだ。送迎係でない花上に今電話をかける意味はあまり無いはずなのだが。
「お嬢様?如何なされましたか?」
『……はなうえ』
「―――」
電話の向こうから聞こえる、今にも泣きそうな声。
その声で、花上は全てを悟った。
『お願い……一人にさせて欲しい。送迎の人に言って欲しいのと…あと、人払い、お願いしたいな』
「――かしこまりました。くれぐれもお気をつけください」
『うん…ありがと、花上』
その言葉を最後に、電話は切れる。
デバイスを握りしめて、花上は大きく息を吸った。
「山田ぁぁぁぁぁぁぁあああッッッ!!」
「そんな大声を出さずとも聞こえていますとも、メイド長。何か用かな?」
音もなく現れた神出鬼没の初老執事に、花上は淡々と語る。
「人払いの準備をしな。お嬢様を必ず一人にさせる。どんな手を使ってもいいし、なんなら非番も呼び出していい。報酬は私の収入からいくらでも引くといいさ」
「それは構わないが……送迎は?」
「無しだ。1時間後に迎えを寄越す。それまで、誰もお嬢様を監視するんじゃないよ」
「…それは私の一存で決められることでは無いな。何より、あの方が黙っていまい」
「ご主人様には私から説明する。首が飛んだってかまいやしないさ」
「…わかった。貴女がそこまで言うのなら、手配しよう」
それだけ言い残し、足音もなくその場を立ち去る山田。
「お嬢様……大丈夫かい……?」
我が子を心配する慈母の如く、先程の気迫から一転、その目は柔らかく細められるのだった。
***
夕焼けを臨む、高架の上。
一人の少女がその欄干に体を預け、茫然自失といった様子で橙色の空を眺めていた。
「…全部、無駄になっちゃったな」
小さく溢した一言は、背後を行き交う車の音によって打ち消される。
煌にチョコを渡す計画は、完全な失敗に終わった。
あらゆる手を尽くしたが、こればかりは運が悪かったと言う他ない。不遇が重なって得られた結果だ。どうしようもなかったのだと、割り切れれば楽なのだろう。
でも、それがとてつもなく悔しくて。
1ヶ月間の準備期間。
しかし、積み重なった想いは一年とちょっと分。
それら全てを、無駄にされたような気分だった。
彼に美味しいものを食べて欲しくて、学校終わりの疲れた体で一生懸命チョコ作りの練習をした。
マカロンは簡単には作れない。
生地の中の僅かな気泡を潰す過程であるマカロナージュを少しでも失敗すれば、焼き上がりは罅だらけの酷いものとなる。
綺麗な形にするのに一苦労、そこから食感や味を高めるとなると、かなりの労力が必要とされる。
満足いく仕上がりにしたくて、作るたびに何度も試食をするのだが、マカロンのカロリーはバカにならないほど高い。故に、スタイルを維持するためにいつも以上の運動量を要するのだ。
普段から忙しいところを、全てを切り詰めて努力をしてきた。
無論、辛いに決まっている。
それでも、この日のために耐え続けた。
この日を思って、どんな苦しみも乗り越えた。
―――それ、なのに。
全て、無駄だった。
「はは…
目尻から、熱いものが流れ出る。
それは頬を静かにつたい、錆びついた欄干の柵を少しづつ濡らしていった。
…どれほど時間が経っただろう。
涙をぬぐい、鞄の中に手を入れてマカロンを探した。
「……? あれ、ないな……」
どこかに落としてきてしまったのだろうか、先程まであったはずのマカロンがどこにも見当たらない。
「…ま、どうでもいいか……」
視線を空に戻し、一声も発することなく夕焼けを見続けた。
1時間が経って、車が紅葉を迎えに来るまで、紅葉はそこで立ち続けた。
***
バレンタインデーから2日が経った、朝のこと。
「おはよう」
紅葉スマイルで教室に入ると、途端に紅葉はクラスメイトに囲まれる。
いつもより男子の割合が少ないのは、バレンタインデーで撃沈した男達が未だ立ち直れていないからだ。少しずつ復帰はしているようだが、バレンタインデーが残した傷痕は大きい。
飛び交う言葉を一言一句聞き逃さず、紅葉はそれぞれに丁寧に答える。
いつも通りの紅葉。
悲しみや無力感は、あの夕焼けが削ぎ落としてくれた。
だから、もう気にしない。気にしている暇はない。
それは、「完璧」のすることじゃない。
と、チャイムが鳴って朝礼の開始を告げる。
女子達は次々に席に戻って行き、紅葉は束の間の安息を得る。
いつも通りの自分を演じられていることに安堵し、授業の準備を始めた時。
机の中に、何かが入っているのを感じた。
「…?なんだろ…」
机の下でこっそりと引き出す。
それは、白い一通の手紙。
普段なら、いつものラブレターか、と一蹴するところだが、そうもできない訳がある。
そこに書かれていたのは。
『夜野煌』
「…え?」
一瞬、脳が停止する。
意味が理解できず、手紙を音を立てないように開ける。
『ある人から君のチョコを貰った。名前は分からないけど、ありがとう。マカロン、すごく美味しかった』
たった、それだけ。
大きいが整った字で、チョコの感想が書かれている。筆跡はたしかに煌のものだ。
文を読んで、紅葉は益々意味が分からなくなった。
(誰かから渡された…って、誰が?名前は知らされてないみたいだけど…)
考えるに、誰かが紅葉のチョコを鞄から抜き出し、煌に手渡してくれた、ということなのだろうか。
しかし、誰がそんなことをするのだろう。
チョコを渡そうとしていたことを知っているのはごく少数、しかも相手が煌と知っているのは花上くらいだろう。
わからない。わからないが、ともかく。
『すごく美味しかった』
紅葉がかけてきた労力にはまるで似合わない、短い言葉。
―――それだけで、紅葉の心は嬉しさで大騒ぎだった。
(やった!喜んでもらえた!やった!)
手紙を折らないように握りしめて、感情を隠しきれず、顔を赤らめて満面の笑みを浮かべる紅葉。
男が見たなら卒倒するであろう可愛らしい顔で喜びを表現する紅葉を見つめる男が一人。
「ったく……手間がかかるよ……ま、元は俺が悪いんだし、そんぐらいはするけどね」
そう、他でも無い、真賀里継本その人だ。
2月14日の朝のこと。
ゲーム三昧で寝不足だった真賀里は、教材の整理をするのがだるく、たまたま玄関にいた紅葉に声をかけ、手伝ってもらった。
が、手伝ってもらった後で「そのこと」に気づく。
今日はバレンタインデー。
紅葉が何故学校に早い時間から来ていたのか。しかも、教師すら殆どいないような時間帯に。
もし彼女が誰か特定の相手にチョコを渡そうと思った時、最も渡しやすい方法は、誰にも見られない時間に来ること。
その最善手を潰したのは、真賀里の勝手な頼み込みのせいだ。
それによって紅葉が落ち込んでいるのは、何となく分かった。常に人が密集している環境で、チョコを誰かに渡せるわけがないだろう。
それに気づかなかったことを恥とした真賀里は、自分が絶ってしまった紅葉の想いを伝えるため、動くことにしたのである。
タブレットを置き忘れたフリをして、紅葉を回収に行かせ、予め設置しておいた小型カメラでチョコを確認、視線で誰宛のものなのかを把握した。それが煌宛であったと知った時は爆笑したものだが、彼が紅葉の想い人であるなら仕方がない。
紅葉の目を盗んで
メッセージカードを抜いたのは大した理由じゃない。ただ、そうするべきだと思っただけだった。
煌には『お前を想っている誰かからのプレゼント』と伝えてある。
真賀里からの手渡しということで、内容に関しては半信半疑だったが、やはり嬉しかったらしい、丁寧に返答まで書いて真賀里に渡してきた。「その子に渡しておいてくれ」と言われたので、紅葉の机の中にこっそりと入れておいた、というのが真実である。
「はーぁ、めんどくせ。機械系のことは苦手だってのにカメラやら何やら…」
「ま」と頭の後ろで手を組んで、隠れてにやけている紅葉の顔を盗み見しながら、教室を出る。
「――あの
古文教師を名乗る捉えどころのない男は、口笛を吹きながら職員室に戻っていった。
***
「うふふ……えへへぇ……」
まだ少し春には遠い、2月の下旬のこと。
立派な庭園を取り付けた巨大な洋館の一室から、光が漏れ出している。中では、洋館の持ち主である更科グループ取締役、その一人娘が、自身のベッドの上に寝転がり、一通の手紙を眺めていた。
ネグリジェを乱し、風呂上がりのフローラルな香りを身体中から醸し出しながら、その美しい娘は顔をだらしなく崩してニヤニヤと笑っている。
「完壁」には程遠いようにも見えるその姿は、紅葉の中に僅かながら残っていた、幼さの象徴であった。
「夜野君からの手紙……ふふふ……」
1ヶ月間の努力の報酬とも言える煌からの手紙を、家宝を抱えるように、紅葉は柔らかく手で包む。
当初の予定とはかなりズレてしまった。
本当は告白のような感じになるはずだったのに、何故か名前は伝わらず、そのかわりに手紙が返ってきた。
誰がやったのかは知らない。だが、精一杯の感謝を心の中で述べる。
「ありがとう、誰かさん……頑張ってきて、良かった……!」
年頃の女の子らしい反応をしながらベッドを転がる紅葉を、ドアの隙間から見つめる影が一つ。
「……本当に、良かったですね。お嬢様」
花上は目を少し濡らしながら、先日のことを思い出す。
泣きそうな声で花上に助けを求めてきたあの日。
いつもより遅く帰ってきた紅葉は、何事もなかったかのように振る舞っており、何があったのかと心配をしていた使用人達は安堵で胸を撫で下ろした。
が、花上はそうもいかない。
紅葉が失敗したのは察していたのものの、詳しい事情は何も分からない。かといって聞き出してしまうと、彼女の古傷を抉ってしまうかもしれない。
葛藤の中、気が気でなかった花上だったが、それも2日後に解消された。
『見て見て、花上!夜野君からね、手紙もらったんだよ!』
嬉しそうに話す紅葉を見て目をまん丸にしたのを覚えている。
手紙でここまで興奮するなど、何歳児だ。
そう考えた花上だったが、その思いはすぐに打ち消す。
違う。
彼女の恋は、始まったばかりなのだ。
『初めまして、お嬢様。メイド長の花上と申します』
花上が、初めて紅葉と出会った、あの日を思い出す。
『……貴女も、私を傷つけるの?』
開口一番で花上にそう言い放った、目の死んだ一人の小さな女の子。
『私は、かんぺきにならなきゃいけないの』
2年ほど経った後、修羅の道を進むことを自ら選んだ女の子。
普通の女の子とはあまりにかけ離れた生き方をする彼女を、花上は割れ物を扱うように、大切に世話をしてきた。
感情を失くしていた彼女が。
母を超えることに一生を尽くすと宣言した彼女が。
普通の女の子のように、ベッドの上で、意中の男の子との小さな進展を喜んでいる。
とてもちっぽけで、幼くて、下らないことだ。
でも、それでいい。
―――彼女は、今から始まるのだ。
「おめでとうございます、お嬢様」
一筋の涙を流して、噛み締めるように花上は呟いた。
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